80 暴発
週に一度、必ず更新されていた彼の小説の更新が止まった。書き溜めていたものがなくなってしまい、定期更新が出来なくなったのか、それとも、もう、それ以上、あの小説を書くことに意義を見出せなくなったのか、理由はよく分からない。
彼が現在も生きている証を失ったように思えて何だか心細くなった。
ニュルンベルク行きの電車の座席に座っていると、彼が、私を呼ぶ声が聞こえてきた。可愛らしくて、愛おしい声だ。
遂に幻聴まで聞こえ始めたかと自分に呆れてしまう。彼のことを忘れようとすればするほど、彼の声が、姿が、匂いが、フラッシュバックするのだ。
きっと、このフラッシュバックは止まらない。仮に祖母の家に着いたとしても。そのことを一番、理解しているのは私なのに、私は自分がそのことを理解している事実に気付いていないフリをする。
あの国で過ごした、約一年間は私にとってイレギュラーもイレギュラー、異常だった。沢山の愉快な友達を作り、自分がどれだけおかしなことをしても、皆、笑ってくれた、あの空間は普通ではなかった。
ドイツに帰国したお陰でその事実にやっと、気付いた。
「姉さん......」
今日はやけに姉からのメッセージや電話が多い。ここ最近は私が無視し続けていたこともあってか、殆ど私に連絡をしてこなかったのに、だ。
急に連絡が増えた理由は気になるが、今まで通り、メッセージは見ないようにして、電話も着信を拒否する。
もし、メッセージに彼の名前が書かれていたら、それだけで気が狂ってしまう気がするから。
⭐︎
それはニュルンベルク駅に着き、祖母の家に向かうため、バス停へと歩いていたときだった。またも、電話の着信音がバックの中から聞こえてきた。
無視することも考えたが、祖母や母からの電話の可能性もあるため、一応、誰からの連絡かを確認する。
「......ルドルフ?」
まさかの電話の発信者は祖母でもなければ、母でもなく、ましてや姉でもなく、先程、ミュンヘンの駅で私の見送りをしてきた男友達のルドルフだった。
『ああ、僕だよ、アーデルハイド。少し、時間良いかい? Gah......! Please be quiet!』
「......何か、騒がしいみたいだけど、どうかしたの?」
何やら、電話の向こうで少し揉めている様子のルドルフに私は尋ねた。しかも、英語。
「ん? あ、ああ、いや、大したことじゃないんだ。気にしないで。それより、アーデルハイド、君に少し頼みがあるんだけど良いかな?」
「何」
「いやさ、僕、少し対人関係で悩んでることがあって。相談に乗って欲しいんだ」
「......今?」
「今」
「祖母の家に着いてからでも良いかしら」
「出来れば今すぐが良い。頼む」
「......貴方がそうまで言うってことは並大抵のことじゃないんでしょうね。良いわよ、一時間くらいなら付き合ってあげる」
「ああ、そうか。助かるよ...... noisy!」
突如、英語で声を荒らげるルドルフ。
「対人関係の悩みって現在進行形で其処で行われているものじゃないでしょうね......」
そうして私は突如、ルドルフから掛かってきた電話によって祖母の家に行くのを阻まれ、彼と電話を始めることになった。私は電話をしていても通行人の邪魔にならないよう、駅の隅に移動しながら彼と言葉を交わす。
しかし、彼が私に相談してきた内容は何とも掴みどころのない具体性に欠ける悩みばかり。『最近、友達に何となく避けられている気がする』であったり、『何となく友達との関係が希薄になってきている気がする』であったりと、アドバイスをしようにも、どんなアドバイスをすれば良いのか中々、悩ましい相談内容ばかりだ。
というか、そもそも、私に対人関係の相談をするのが間違い。『モチはモチヤ』なる言葉が日本にはあったが、そういう相談をするならもっと、友達の多い人に聞くべきだ。
「ねえ、ルドルフ」
彼と電話を始めて50分くらいが経過したとき、私は意を決して彼に話を切り出した。
「何だい?」
「貴方、本当に私に相談をしたかったの?」
「......というと?」
「こんな事を言うと凄く失礼かもしれないけれど、貴方の相談内容、具体性に欠けるのよね。まるで、作り話みたい」
「・・・・」
「私と話したいだけだったんじゃないの? もしかして、私がニュルンベルクに行ってしまって寂しくなったから電話をしてきた?」
「......いや、あー、うん。まあ、そうだよ。ごめん。実は君がミュンヘンから居なくなった喪失感に耐えられなくなってさ、思わず電話を掛けてしまったんだ。でも、後、少しで良いから声を聞かせてくれないかい?」
「......まあ、良いけど」
彼は私が日本に行ってからも、ドイツに帰ってきてからも、私と変わらずに接してくれた大切な友達だ。そんな彼の願いなら、断る訳にはいかないと、私は彼の頼みを了承した。
其処からはもう、ただの雑談だった。好きな日本の漫画の話は何かとか、ニュルンベルクの祖母の家はどんな家であるかとか、そういう他愛もない話をお互いに話し続けた。
『ねえ、日本の彼のこと......フノボリケイ君だっけ。彼のことを話してくれないかい?』
心臓がギュッと締まるような感じがした。先程まで、普通の雑談をしていただけあって、私は不意打ちを喰らったような感覚に陥る。いや、彼からすればこのことも雑談のうちなのだろうが。
「私、貴方に彼の名前、教えていたかしら」
『......ああ、この前、教えて貰ったよ?』
「ああ、そう......。忘れてたわ」
『それで、もっと、ケイ君のことを教えてくれないかい? 悪いところも、良いところも、全部』
「前に話したでしょ」
『もっと、詳しく聞きたいんだ。僕を負かした男について、ね』
呑気にそう言うルドルフに私は大きな溜息を吐いた。気付けば、私は彼を思い出すことをタブー視していた。彼のことを忘れてしまうために。
でも、そんなこと許さない。彼のことを綺麗さっぱり忘れて、新しい人生を、なんて、他ならぬ私自身が許さない。だって、楽しかったじゃない、日本での生活は。あんなにも恋していたじゃない、彼に。
「......分かった。貴方を傷付ける事になるかもしれないけど、本当に良いの?」
『ああ、好きに愛を語ると良いさ。僕が潔く諦められるくらい、彼について語ってくれ』
ルドルフは何処か楽しそうにそう言い放った。勝手なことだと思いながらも私は自分の口角が少しだけ上がっているのを感じる。
「彼は、兎に角、無神経で気持ち悪くて、失礼な男よ。ほぼ初対面の時に、私の胸の大きさを馬鹿にしてきたし。普通、紳士なら自分の性的興奮なんて隠すものでしょう? でも、彼は私へのそういった興奮を一切、隠さない。私がニーソックスを履いたり、脱いだりしていると、真顔でじーっと見てくるわ」
『それはそれは......』
「最近はどんどん、そういうのもエスカレートして行ってたしね。後、私のことを好きだって言いながら、告白してきた他の女の子のことを未だに振っていないのよ。しかも、その状況に対して彼は今のままの関係の方が楽だって開き直っているの。救えないわ」
ヒートアップしてきた私は更に言葉を続ける。
「無神経で、失礼で、変態で、ロクでなしの、ヘタレ男。それが五六渓って人間なの。......でも、それ以上に彼は優しくて、勤勉で、一緒にいて疲れない不思議な魅力を持っている。私は彼のそういうところ......いいえ、私は彼のロクでもない所も、良い所もひっくるめて彼そのものがどうしようもなく愛おしいの。彼のことが好き。ケイが、ケイが好き」
気付けば私は人目も憚らずにボロボロと涙を流していた。彼に思いを馳せながら、嗚咽にも似た愛の言葉を垂れ流すように私は呟く。電話の向こうからは何も聞こえてこない。
「ううっ......ごめん、ごめんなさい、ケイ。勝手な事ばかりして、勝手な事ばかり言って。でも、私は貴方のことが好き。貴方の存在を丸ごと好きだった......」
ルドルフと、通行人に聞かれていることすらどうでもよくなるくらいに、此処数週間、抑えていた彼への気持ちを私は爆発させる。
「......えーと、その、アレだな。アーデルって、俺が思ってるよりもずっと、俺のことを好きでいてくれてたんだな。捨てられたかもとか思ってごめんなさい」
その声が背後から聞こえてきた時、私の心臓は本当に止まりそうになった。自然と足や腕が震え始め、少し、寒気がする。
「幻聴と幻覚?」
振り向いた私の目の中に飛び込んできた人の形をしたソレに対して、私は思わず、そう呟いてしまう。
「幻聴と幻覚を聞いたり、見たりしちゃうくらいアーデルが俺のことを想ってくれてるとか嬉しすぎる」
「ケイ......?」
「あ、はい、ボンジュール、五六渓なのです。お久しぶりなのです。あ、これ、たかさごのPRポスター」
「要らんわ......ケイ、悪いけど、其処でじっとしててくれる?」
「お、おう?」
私は愛しい彼の姿をしたソレの足を不意にギュッと踏み付けた。
「あいででででででっ! こ、これは!? アーデルさんこれは何のお仕置きですか!? アーデルを早く迎えにこなかったことについてのお仕置き!? なら、甘んじ受け入れ......いでええええええっ! うへへへ、あいでえっ!」
「......流石にこの気持ち悪いのが私の幻覚や幻聴なら死にたくなるし、本物で間違いなさそうね」
「確かめ方、酷すぎひん?」




