5:兄の気持ち
お兄ちゃんが妹に振り回されるのありがち。
プルートの妹の名前はルーナ・リンドバーグという。幼い頃の彼はまだルーナと発音できず、舌足らずに「リンダ」と呼んでいた。それがそのまま妹の愛称になった。
リンダは幼女ながらも一種独特の雰囲気を持っていた。
炎よりも赤い髪は豊かに波打ち、澄んだ星空のような瑠璃色の瞳は神秘的にきらめく。透けるような白い肌、ちいさな唇は花びらにも似て可憐だった。人間というより妖精といわれたほうがしっくりくる。どこかこの世のものではないような、別の世界に住む生き物のようだった。
ジークズルの家を出てハーツビートの養子に入り、リンダの美貌にますます磨きがかかっている。もともとハーツビートの血のほうが濃かったのだろう、プルートもリンダもすぐに馴染んだ。養子に入ったというより帰ってきたという思いが強くある。
ハーツビート姓になって四年。ハーツビートの妖精姫と讃えられる妹が、プルートの悩みの種だった。
「まさか本当に飛ぶなんて……」
常日頃から箒で飛ぶ研究をしていた妹だが、飛ぶといってもせいぜい大人の背の高さにふよふよ浮く程度だと思っていた。だからこそ、パンツの心配をしたのだ。
それが蓋を開けて見ればなんということでしょう、リンダは屋根より高く、雲が手に届きそうな高さまで飛んだという。本人は「ちょっと飛びすぎた」とけろっとしているが、話を聞いたプルートは血の気が引いた。
プルートが目撃したのは降りてくる時だ。蝶のように優雅に、なんてもんじゃなかった。獲物を狙うハヤブサだった。目の前を一瞬で通り過ぎる箒に乗った妹。夢に見て飛び起きそうである。
リンダは初飛行に快哉をあげている。プルートは真剣にリンダが心配になった。パンツどころの騒ぎじゃない、生命の危機だ。
「リンダァァァァアアアァ!?」
「兄様! 見ていてくれました!?」
「見てたよ!? おめでとう! でもあんなに高く飛んじゃダメでしょう!?」
「うん。あんなに飛ぶとは思わなかった。次は気をつける!」
「懲りてない!? まだ飛ぶつもりなの!?」
プルートのらしからぬ剣幕にリンダは首をかしげている。叫んでいないと膝から力が抜けそうだ。トム爺さんの気持ちがよくわかった。
「コツは摑みました。あとは慣れです!」
きりっと言い切ったリンダは実に男前だった。違う、そうじゃない。
「あれは、危ないよリンダ」
「女は度胸ですよ兄様。危ないからと逃げてたらなにもできません」
どうしよう。うちの妹がかっこいい。
プルートの言わんとすることを察したノヴァが言葉を引き継いだ。
「リンダ、プルートは君が落ちるんじゃないかと心配したんだよ。高所というのは本能的に恐怖を抱くものだからね。リンダは飛べたことをはしゃいでいたけど、我に返って気絶したり、足が竦んでいたら危険だった。兄様を心配させちゃダメだろう。わかるね?」
リンダの努力と情熱に配慮した言いかたであるが、ようするに飛ぶなということだ。ノヴァの説教にリンダは唇を尖らせていたが、飛んだことを叱られているわけではなく、落下の可能性がプルートを怖がらせたのだとわかり、素直に謝罪した。
「兄様……ごめんなさい」
「うん。危ないことはしないで?」
「はい。そうですよね、箒はノーヘルですから風が目に痛かったですし、安全性能の確認はどんな乗り物にも必要でした」
「……うん?」
「対物実験と対人実験をして、適正速度の割り出しをしましょう。あ、空って時速何キロまで飛ばしていいんだろ。箒の耐久性も確認しないとですね」
プルートは助けを求めてノヴァを見上げた。ノヴァの説教を正しく理解したリンダは真剣に対策をはじめる気でいる。
そこはもう飛びません、という場面じゃないのか。リンダは十歳、女としての自覚が芽生える年齢に差し掛かっている。一度飛べば満足するか懲りるだろうという予想を大きく裏切り、リンダの情熱は本物だった。
プルートは王都にある魔法学校に入学し、そこで知り合ったクリーネ侯爵令嬢のトリトと婚約した。貴族同士の婚約にしてはいささか遅いが、プルートはジークズルとのあれこれがあったし、トリトは身体が弱いという問題があったため、互いに婚約者が決まっていなかったのである。
リンダについてはノヴァとオービットの意向で自由にさせようということになった。それでも婚約の打診が何件か来ている。
魔法学校は全寮制で、貴族が多いからそこで良い出会いがあればと思っていたのだ。だからこそ、余計にプルートはリンダが心配だった。自由を愛するリンダが学校という枠組みの中でちゃんとやっていけるのか。しかるべき場でのふるまいはできているからそちらの心配はない。ようするに、せっかく芽生えた恋の芽をリンダが気づかずに根っこから引っこ抜いてしまうのではないか、という心配だ。
スカートめくりする悪ガキはいなくても性的好奇心に溢れた思春期の男女が集まっての寮生活である。普通ならドキドキ恋のハプニングに期待しそうなものだが、リンダの場合は九死に一生ハプニングの予感しかしない。女の体になっていく自覚のないまま入学し、リンダの見た目にコロッと騙された男子を返り討ち。魔法使いは見た目の屈強さがイコールではないのだ。
「プルート様、リンダ様、ノヴァ様、旦那様がお呼びでございます。至急お戻りください」
そこに執事のホークアイが呼びに来た。プルートは祖父母がリンダの飛行を止めてくれるかもとホッとした。リンダは褒めてもらえると思ったのか笑みを浮かべ、トム爺さんに手を振った。
「ホークアイ、私ついに空を飛んだのよ!」
リンダが自慢そうに報告した。どうもこの妹は年上の男性が好きらしい。実の父に見向きもされなかった数か月間の反動かもしれないとノヴァとオービットが言っていた。無意識に父性を求めているのかもしれない、と。
「それはおめでとうございます。いかがでしたか、空は」
「気持ち良かった! 風がすごく強くてね、私まで風になったみたいなの」
箒はリンダが振り回す前にホークアイが回収していた。身振り手振りで空の素晴らしさを伝えようとするリンダは微笑ましいが、ホークアイが高度を知れば目を剝くだろう。世の中には知らなくていいこともある。プルートは虚ろな目で思った。
「来たか」
今ではオービットとフライヤ、そして見知らぬ男が待っていた。
男は立ち上がるとノヴァとプルート、リンダに向かって両手を重ね、丁寧に頭を下げる。
「お初にお目にかかります。私は東覇国黒曜宮付き武官、斎薇と申します。ハーツビートの若君様、姫君様にはなにとぞ見知りおきください」
東大陸訛りの強い挨拶にリンダがハッと息を飲んだのを目の端に捕らえながら、プルートも挨拶を返した。男の仕草はあちらでいう敬礼のようなものだ。
「ノヴァ・フージーン・ド・ラ・ハーツビートが子、プルート・ジャン=バティストです。斎薇殿、こちらこそよろしくお願いいたします。こちらが妹のルーナ・リンドバーグです」
リンダがちょこんとスカートを抓んでお辞儀をする。
「ルーナ・リンドバーグでございます。斎薇様、お目にかかれて光栄でございます」
プルートがラグニルド語だったのに対し、リンダは滑らかな帝国語で挨拶をした。
東覇国はラグニルドではアジハイム帝国と呼ばれている。東大陸の覇王国であり、皇帝が国を治めていた。ラグニルドとは領海権を巡って友好と対立を繰り返している、いわば因縁の国だ。
とはいえ国交はあり、ラグニルドの魔法学校に留学してくる者もいる。プルートとリンダの母リリャナの親友は東覇国の貴族だ。
「帝国語がお上手ですね」
斎薇はリンダに好感を抱いたようだった。固かった表情がやわらかく微笑んでリンダを見つめている。
「日本語に似ています。それに、お衣裳も懐かしいですわ」
「ニホー語?」
首をかしげた斎薇が自分の知らない言語かとハーツビートの面々を見るも、黙って首を振るだけだ。
斎薇が着ている服はリンダに言わせるなら「三国志で見たやつ」だろう。上衣下裳に羽織という、ラグニルドのシャツとズボンに比べると全体的にゆったりとしている。武官にも関わらず鎧は付けず、右に腰に剣を下げただけなのは、敵意がないことを示すものだ。
「リンダ、プルート。黒曜妃はリリャナの親友だったお方だよ。大事なお話だからしっかり聞きなさい」
そう言ってノヴァが着席を促した。斎薇と話がしたそうなリンダも大人しくソファに座る。
どうやらノヴァは何の話か知っているらしい。いつもはとぼけた表情の顔を厳しくしてプルートの隣に座った。
「話というのは他でもありません。我らが皇帝陛下の妃の一人である黒曜妃が皇子、翡翠殿下についてです」
ノヴァが小声で補足した。
「東覇国には後宮という、皇帝のお妃さまたちが住むお城があってね、黒曜妃はそこの黒曜宮に住んでいる上級妃なんだよ」
後宮には『金剛宮』『銀嶺宮』『瑪瑙宮』『水晶宮』『黒曜宮』があり、最上位となる皇后は『金剛宮』を与えられている。黒曜宮は五位、上級妃の中では最も位が低い。他の下級妃たちは『白玉宮』と呼ばれる下宮にまとめられている。
斎薇がうなずいた。
「ノヴァ様のおっしゃるとおり、黒曜妃は上級妃であられます。しかし上級妃の中では最も位が低いのです。上級妃はそれぞれ皇子を産んでおり、翡翠殿下は八番目の皇子。そしてこれが本題なのですが――殿下はお命を狙われているのです」
「第八皇子が?」
プルートが疑問を口にした。ラグニルドも側妃を持つことがあるが東覇国ほどではない。正妃が子供を産めばほぼ自動的にその子が王太子になり、次期国王になる。
「東覇国は実力主義……といいますか、魔力の多い皇子が皇太子になります。皇帝陛下の寵愛の有無も影響しますが、国の結界を維持できる魔力が必要となりますので、できるだけ魔力の強い皇子が選ばれるのです」
「女の子が一番魔力が多かったらどうするの?」
と、こちらはリンダだ。いかに皇帝でも男子ばかりが生まれるわけではあるまい。斎薇は当然の疑問ににっこりした。
「女帝が立たれることもあります。ただ、女性は出産の際に死亡してしまうこともありますし、ただでさえ結界に魔力を注いでいるのに危険は少ないほうが良いだろうと、男子継承が主流ではあります」
他にも、女性特有の月のものの影響で体調を崩したり、精神的に不安定になりやすいため、女帝が立っても早くに退位してしまう。それなら男子から選ぼうということになったのだ。
「そう、ご本人のためですのね」
女性蔑視というわけではないと知り、リンダは安心した。うなずいた斎薇が話を続ける。
「翡翠殿下は十三歳、プルート様と同じ歳です。十三歳で魔力は他の皇子方を圧倒しておられます。このままいけば皇太子は翡翠殿下で確定でしょう。……ですが、それを許さない方がいらっしゃるのです」
プルートも気がついた。いらっしゃる、という言葉使いから武官の斎薇より身分の高い者が狙っているのだ。彼にも誰が犯人か見当がついているのだろう。
「こうなることを懼れて黒曜妃は殿下を公主としてお育てになられました。しかし十三歳ともなればいつまでも隠し通せるものではありません。どこからか殿下が男であると漏れたようで、殿下だけではなく黒曜妃までお命を狙われるようになりました。……つい先日もお食事に毒を盛られ、これは幸い毒味役が気づいて事なきを得ましたが、毒味役には手足の痺れが残りました」
シンとした。
斎薇は吐き出してほっとしたのか肩を落としている。後宮ではありがちな権力争いだが、国家の恥であるのは間違いない。それでもこうして打ち明けたのは、他でもない黒曜妃がハーツビート家を信頼しているからだった。
「プルート、リンダ、黒曜妃は翡翠殿下をハーツビートに逃がしたいとお考えなのだよ」
ノヴァが言った。オービットとフライヤが揃っており、プルートとリンダを斎薇に会わせたということは、つまり翡翠殿下が来るのは決定事項だ。
「翡翠殿下だけ? お母さんは一緒じゃないの?」
リンダの問いに斎薇は首を振った。
「後宮の妃が後宮を出るのは罪を犯して追放されるか、崩御して後になります」
お役御免となり皇帝に捨てられた後宮妃は、そのための施設である『砂宮』に入る。ちなみに皇帝崩御で後宮が一新される場合も古い妃は砂宮入りだ。救済措置などいっさいない。皇帝のお召しがなくとも一度皇室の妃となった女たちは、死ぬまで妃なのである。
「殿下はともかく妃が後宮から逃亡となれば死罪です。連中に大義名分を与えるだけです」
考え込んでいたプルートが顔を上げた。
「ラグニルドではなく我が家にとなると、殿下のご身分は隠すのですね?」
「そうだ。表向きは遠縁の娘になる」
「家でも女の子のフリをさせるの? 男の子でいいんじゃない?」
「ラグニルドにも東覇国の者がいる。どこから漏れるかわからない以上、女装は必要だ」
オービットも不憫に思っているのだろう、やるせなさそうな息を吐いた。
「留学生という形で魔法学校に通っていただきますからね。リンダと同級生、寮では同室になるよう取り計らいます。リンダ、殿下のフォローを頼みますよ」
フライヤの言葉にプルートは「はぁ!?」と叫びそうになった。
「はいっ、お婆様。任せてください!」
リンダがどんと胸を叩いた。プルートは慌てた。
「ま、待ってください。リンダを同室に? なにか間違いが起きたらどうするのです!?」
「大丈夫よ兄様。そんなことになったら玉を捻り潰してやるから!」
「リンダァァア!? 兄様そんなセリフ聞きたくなかった! 意味わかってるの!?」
パニックに陥ったプルートにノヴァとオービットも複雑そうな苦笑を浮かべている。フライヤだけがしれっとお茶を飲んでいた。
斎薇がなにも言わないのは、そうなったらなったでハーツビートという後ろ盾ができると考えているのだろう。先程の発言も言葉の綾、世間知らずの少女の強がりと思われている。プルートの味方はいなかった。
「そうだ! なんなら魔法で女に変身させればいいんじゃない?」
「それだ!」
「駄目です」
リンダの実にリンダらしい発想による女体化案に賛成したのもプルートだけだった。
応援よろしくお願いします!