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幕間:あの素晴らしいメシをもう一度

真似しないでください。



 リンダには不思議に思っていることがある。

 魔法学校で、時折どこからともなく懐かしい香りがするのだ。

 食欲をそそるスパイスの香り。


 そう、カレーである。


「カレーの匂いがする」


 ふんふんと鼻を鳴らして匂いを嗅いでいるリンダに「行儀が悪いわよ」と小言を言った翡翠は、しかし同じく空気の匂いを嗅いで首をかしげた。


「そのカレーっていうのがなにかは知らないけど、変な匂いはするわね」

「めっちゃお腹空く……。カレー食べたい~」


 以前メイに言ったものの「茶色くて辛い、肉と野菜の入ったスープ」ではなんのことだか判明せず、カレーは幻のままだった。リンダはカレーに飢えている。


「匂いだけ嗅がされて食べられないなんて辛すぎる。あんまりだ」


 リンダはぺしゃんとテーブルに頬を乗せた。怪奇クラブの部室はどちらかというと木材と紙とインクの匂いだ。


 カレー臭の原因が判明したのは数日後。魔法薬クラブから直接怪奇クラブにやってきたローゼスタの白衣にリンダが鼻を近づけて叫んだ。


「これだ!!」

「きゃっ? なによリンダ」

「ローゼからカレー臭がする!」

「失礼ね、同い年じゃない!」


 そっちのカレーではない。


「その加齢じゃなくて! ローゼ、どこでなにして来たの!?」


 白衣を引っ張って顔を埋めるリンダの肩を摑んで拒みつつローゼスタは答えた。


「魔法薬学室よ。光臨祭で売る薬を作ってたわ」

「あっ、そうよ薬品の匂いだわ。リンダの言うカレーって薬のことだったのね」


 翡翠まで白衣の匂いを嗅いでいる。そんなに匂うのか、とローゼスタが慌てて自分の匂いを嗅いだ。女の子にとって体臭は大問題だ。


「やだ。そんなに匂う?」

「匂いって服だけじゃなくて髪にも付くからね」

「イーゴ先生なんか時々すさまじい匂いさせてる時あるよな」


 なんの慰めにもならないことを言ったのはタッジーとマッジーだ。

 そう、校舎内の匂いはイーゴや魔法薬学室から漂っていたのだ。


「放課後のカレー臭はそういうことだったのか……」


 今さらながら事実に気づいたリンダが頭ではなく腹を抱えた。

 放課後のすきっ腹にカレーの匂いを嗅がされたのだ。もう胃袋はカレーの準備をはじめている。リンダはすっかりカレーの気分になっていた。


「……ねえ、リンダ。カレーって食べ物よね? こんなに薬臭くて本当に美味しいの?」

「は?」


 だが、リンダのカレーに対する熱い思いを理解してくれる者はいなかった。今の今まで薬の匂いだと思っていたものが、いきなり美味しい食べ物に変換されるはずがない。たいていの人間にとって、薬はなんとなく嫌なイメージだ。

 ローゼスタの当然の疑問に、リンダは虫けらを見るような顔をした。


 そして、愕然となった。


 この世界にはといっては大げさだが、ラグニルドにはカレーが伝来していなかったのだ。そのことはメイの話からもわかっていたリンダだが、薬の原料を食べるはずがないというローゼスタに驚いた。たしかにリンダだって、薬を食べようとは思わない。


「ロ、ローゼ、魔法薬クラブは薬膳料理の店をやるって言ってたよね?」

「え? うん」


 リンダの顔にショックを受けていたローゼスタは、それがどう繋がるのかとうなずいた。


「薬膳って、ようするに体に良い料理でしょ? だったら薬草を使うんじゃないの?」


 日本には、意識せずとも薬膳に繋がる料理があった。七草粥やヨモギ餅、冷やし飴など身近にあり、季節ごとに食べられていたものだ。


「そりゃ似たようなものかもしれないけど、これって気つけ薬よ?」

「…………」


 しかし、これだけ言ってもローゼスタの答えは「ものによる」だった。


「そう、わかった」


 リンダはがっくりとうなだれた。

 リンダの諦めの悪さを知っている翡翠は嫌な予感がした。

 すっくと顔を上げ、リンダが宣言した。


「私が、カレーを作ってみせる!」


 凛として言い切ったその顔は、無駄に男らしかった。


 日本にカレーが伝来したきっかけは、英国海軍であることはあまりにも有名である。そしてカレー発祥の地が香辛料の国インドであることも有名である。

 香辛料になる植物は、気候や土壌によって異なる。


 ラグニルドでは薬の原料として香辛料の栽培をしていた。もちろんハーツビート家が所有している農場でも、魔法を使った温室で栽培しているのだ。

 つまり、リンダが香辛料に困る必要は最初からなかったのである。ただ知らなかっただけで、カレーはすぐそこにあった。


「ふっふっふ。勝ったも同然!」


 早速ノヴァに手紙を書いて香辛料を手に入れたリンダは、厨房に陣取って早すぎる勝鬨をあげた。

 付き合わされている翡翠とメイは漂う薬品臭に不安を禁じ得ない。薬膳ということで見に来たローゼスタも、まだなにもしていない段階での勝利宣言に胡散臭そうな表情だった。


「ちょっと、こんなんで本当に料理になるの?」

「リンダは絶対美味しいって言うけど……」


 リンダが集めたのは「黄色っぽくて匂いの強い、辛味のある」薬草だ。そのどれもが気付け薬をはじめとする精神作用のあるものばかりである。


 こそこそと話をしているローゼスタと翡翠をよそに、リンダはまず香辛料を味見してみることにした。


 自信満々なリンダだが、実はカレーはルゥから作ったことしかない。嫁もさすがに本格的なスパイスからカレーを作ったことはなかった。スパイスの名前さえロクに知らない有り様だ。


 それでも、カレーの味と匂いは覚えている。基本的な形さえできてしまえばカレーはどうとでもなるのだ。

 なぜならカレーは肉でも美味しい魚介でも美味しい、最強のメニューだからだ。


「うわっ、クッサ!」


 リンダは小皿に乗せたスパイスを一つひとつ慎重に匂いを嗅ぎ、味を確かめていった。頼りになるのは自分の嗅覚と味覚だけ。リンダは真剣だ。


「これは違う……?」


 香辛料の味見は舌が麻痺しやすい。時々水を飲みながら、カレーに使えそうなものとそうではないものに分けていった。カレーができるのはたしかなのだ。なぜなら、カレーの匂いがしているのだから。


「あの集中力を勉強に生かせばいいのに」

「まったくよね」


 ローゼスタと翡翠は好き勝手言っている。


「う、これは辛すぎ」


 でも辛いのはありかな。皿をカレーとその他に分け、やがてリンダはカレーの香辛料に辿り着いた。


「これ! これぞカレーだ!」


 高々と掲げ持った皿に目を輝かせる。まさにカレーの匂いの元だ。


「クミンじゃない」

「それにこれはターメリックね」

「そう! それ!」


 リンダも聞き覚えのある名前に力強くうなずいた。

 ちなみに、リンダが唯一覚えていたガラムマサラだが、あれはそもそも数種類の香辛料を混ぜ合わせた総称なので当然存在しなかった。


「……本当に、これがカレーなの?」


 クミンとターメリックは、その香りと薬効から気付け薬や回復薬に使われるものである。

 魔法薬にする場合は味と香りを調整するので食べ物という意識はなおさら薄い。反対に、気付け薬は香りを利用して覚醒を促すのだ。


「これからカレーになるの!」


 リンダは調理台に並んだその他の香辛料を片付けると、タマネギを手に取った。カレーの出だしはタマネギを炒めることからはじまる。


 魔法薬学の授業で材料を何センチに切る、などはやっているためリンダの手付きはそこそこ様になっていた。前世でもそれなりに料理をしてきた実績がある。


「お嬢様、なにかお手伝いしましょうか?」


 なりゆきを不安げに見守っていたメイが申し出た。いよいよ料理の段階になり、リンダにやらせてしまうことに抵抗があるらしい。


「ありがとう。じゃ、これ粉にしといてくれる?」


 クミンは細長い種のまま、ターメリックは見た目生姜だ。はい、と返事をしたメイは言われた通り二つを粉にしていった。


 リンダは空調魔法でタマネギが目に沁みないようにみじん切りにし、鍋にバターを落としてタマネギを入れた。弱火にかけ、木べらで焦げないように炒めながらニンニクを一欠けら刻んで入れる。

 ふわっと食欲をそそる匂いが立ち昇ってきた。


「具はじゃがいもとニンジンでいっか。メイ、お肉ある?」

「はい。お好きに」


 牛、豚、鶏だけではなく猪やなぜかワニまであった。リンダは無難に牛にした。


 狐色になるまで炒めたタマネギとニンニクの中に皮を剝いて切ったじゃがいもとニンジンを入れて軽く火を通し、そこに水を投入する。

 あまりのためらいのなさにメイ、ローゼスタ、翡翠は「えっ」と声を上げていた。


「お、お嬢様、それ……」

「ん?」


 メイが震えながら鍋を指差した。具材の沈んだ水は濁り、はっきりいって不味そうだ。しかしこれでカレーが食えると思っているリンダの瞳は喜びに輝いている。メイは苦情を飲み込むしかなかった。


「よし、これで灰汁取りしてルゥ入れてー……」


 くつくつと煮立ってきた鍋に白い灰汁が浮き上がってきた。

 お玉で掬い取りながら、粉になったクミンとターメリックを振り返ったリンダは、しばし固まった。

 もう一度、鍋を見て、粉を見る。


「…………」


 もご、と舌を動かして、先程確かめた味を思い出してみた。

 クミンもターメリックも、カレーの味がした。色も茶色っぽい黄色。しかし、自分の知っている、記憶の中のカレーとはなにかが違う。


 それは主に風味であったりまろやかさであったり、ようするに旨味と複雑さが足りないのであったが、そんなことがリンダにわかれば苦労しない。ついでにいうと、ここまでリンダはすべて目分量である。


 いうなれば聞いたことのある交響曲を耳コピしただけでピアノ演奏をしろと言っているようなものである。無茶だし無謀だし無知すぎた。


 複雑さのないカレーとは、ただ辛いだけなのでは。リンダはようやくそのことに気がついた。


「とりあえず混ぜてみるか」


 クミンとターメリックを合わせたカレー粉(仮)を舐めてみる。やはり、なにかが足りない。


「あんま辛くないな。さっきの辛いやつと、香りづけにこっちの葉っぱも入れてみるか!」


 適当に選んでいるとしか思えない気軽さでリンダは次々と薬草を粉にして加えていく。見ているほうは蒼ざめたが、時々味をたしかめているのでかろうじて止める手は伸ばされなかった。


 リンダのやり方は別に間違っているとはいえなかった。カレーのスパイスには色々ある。ただ、分量が大雑把なだけで、数種類使うのは普通のことだ。


「あ、そういや小麦粉入れて炒めるんだっけ?」


 額に指を当てて悩んでいたリンダは閃いた。「ええっ!?」とメイとローゼスタ、翡翠から悲鳴が上がる。


「魔法薬を作る時だって目と喉を傷めないようにマスクするのよ……。それに火を入れるって……」


 ローゼスタの呟きに、翡翠は黙って空調魔法で煙が来ないようにした。

 リンダは気にせずフライパンにバターを落とし、小麦粉を炒め、スパイスを入れた。当然のことながら匂いが強くなる。リンダには馴染みのカレーの匂いだ。


 恐々見守る三人の前で、煮立って灰汁を取った鍋の中についにカレーを入れた。

 ぐるぐると掻き回し、小皿に取って味見する。ピリッと舌を刺す辛さの中に、肉と野菜から出た甘さが滲んでいた。


「んー、ちょっと水っぽいけど、これはこれでアリだな!」


 日本製カレールゥと比べるととろみが足りないし旨味も少ないが、カレーだ。

 念の為竹串でじゃがいもとニンジンがやわらかくなっているか確認して火を止めた。


「よし! できたよ!」


 ところで、リンダには忘れていることがある。

 完成したカレーを、互いに遠慮しあっている三人と料理人に味見させていたリンダは、さて、とそれを探した。


 パンはある。パスタもある。なぜか豆は山ほどある。

 リンダは首をかしげた。


「米がない……?」


 リンダが忘れていたこと。それは、ラグニルドにおける米の扱いだ。

 米は家畜の餌か、清酒用にしか栽培されていない。炊いて食べる、という発想がなかった。


「え、お米ですか? あんな家畜の餌、学校の食堂で使えませんよ」


 麹を作るのにも使われているが、米そのものを食べる習慣がラグニルドにはない。

 若干どころではなくありえないと他でもない料理長に断言され、リンダは愕然となった。


 フレースヴェルク魔法学校は名門校だ。個人的に持ち込むならともかく、家畜の餌と認識されているものを生徒に振る舞うわけにはいかなかった。学校の経営状態が疑われるレベルでありえないのだ。


「そ、そんな……」


 へなへなと力が抜け、その場に座り込む。そんなリンダに慌てて料理長が感想を言った。


「いや、でも美味しいですよこれ! なあ!?」


 話を振られたローゼスタと翡翠も口々に褒め称えた。


「う、うん! 数種類の薬草、じゃなくてスパイスが合わさって、意外と美味しいわ!」

「そうそう! この辛いのがクセになるっていうか? パンに浸して食べても美味しいと思うわ!」


 他の料理人もやんやとリンダを褒めるが、米ロスに陥ったリンダの慰めにはならなかった。


「違うよ……。カレーには米、ご飯なんだ……。みんなに食べてもらいたかったのに……」


 じわ、と瑠璃色の瞳に涙が滲むのを見たメイがガバッとリンダを抱きしめた。

 ざわざわと真紅の髪がざわめき、魔力が染みだしてきている。ぶわっと全身に鳥肌が立った。メイが叫んだ。


「お嬢様! このメイが米を手に入れてまいります! 皆様に美味しいカレーを召し上がっていただきましょう!!」


 メイは必死だった。

 ここでリンダを泣かせたら、ジークズル厨房ショックの二の舞である。

 余計なことは言うな、と料理長に目で訴えた。料理長も思い出したのか冷や汗を流している。


「……ほんと?」


 リンダの中で荒れ狂っていた魔力がすっと収まった。


「ええ、本当です」

「じゃあ、待ってる。二日目のカレーのほうが美味しいしこれはまだ改良の余地がある。メイ、楽しみにしててね!」


 まだ手を加えるのか。そして明日までに米を用意しなければならないのか。

 メイは頬が引き攣らないように微笑んだ。


 ローゼスタと翡翠がこっそり拍手している。


 涙隠して忠義を尽くす。

 メイドの鑑がそこにいた。




田中 つか茶様よりレビューをいただきました! ありがとうございます!!

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