23:婚約式(本番)
婚約式。
これは平民であれば口約束でもいいのだが、貴族にとってはそうはいかない儀式である。
まず、用いられるのは契約魔法だ。不正をした場合の罰則など、事細かく決められ魔法でがっちり縛りつける。
例をあげるなら学生時代に浮気相手のいたジークズル公爵ドヴェルグとリリャナだ。子を産ませるほど愛しているのなら婚約を解消すればいいと思っても、ドヴェルグはリリャナと結婚した。彼は婚約破棄しなかったのではない、できなかったのだ。
罰則は両家の話し合いで決められる。婚約期間が長ければ、それだけ心変わりを心配するのは当然だった。事情や情勢が変わっての解消ならまだしも、浮気してからの婚約解消、あるいは一方的な破棄では家名に泥を塗られたと同じ。穏便に済むわけがなかった。
まあ、公的に発表してしまえば余計なちょっかいをかける者は減ってくる。大火傷をするとわかって手を出すのは馬鹿のやることだ。
儀式としては契約書にサインするだけだが、公爵家と侯爵家の婚約となるとむしろこれからが本番になる。そう、社交だ。
いつからはじまったしきたりなのかは定かではないが、両家が特産品を贈り合い、盛大な宴が催される。大貴族の見栄と意地の張り合いだ。特に娘を嫁に出すほうは、男側より品も金もかけなくてはならないとされている。だからこそリリャナの時にハーツビートは魔道具を山ほど持たせ、家宝ともいえる世界樹の髪飾りまで付けたのだ。
贈答が終わると宴に入る。さすがに三日三晩ぶっ続けというわけではないものの、入れ代わり立ち代わり、両家の親族、付き合いのある企業代表者、友人や近所の人まで集まって主役二名を祝福する。これは男側で開催される。ちなみに結婚披露宴はこれより盛大で全額男側が持つ。それを考えれば女側の贈り物を豪華にするのは妥当かもしれなかった。
名家っていうのも大変だ。リンダは頭上で繰り広げられるお世辞合戦を聞きながら、大人しくジュースを飲んだ。茶会と比べると断然こちらのほうが面白い。
晩餐会からの流れで舞踏会に移行している。リンダが入ったことのないダンスホールは大きなガラスのシャンデリアが二つも並んで部屋を明るくし、豪華絢爛な装飾品が品よく飾られていた。楽団が音楽を奏で、くるくると踊る男女を眺めながらリンダは聞き耳を立てている。
晩餐会に出席していたクリーネ侯爵側は、出された料理に味噌と醤油が使われていることに衝撃を受けたようだった。その反応に計画通りといわんばかりの笑みを浮かべていたのはオービットである。最近流行の飴細工を出されるとは思っていただろうが、味噌と醤油はありえなかったのだろう。それだけ本気でハーツビートはトリトを迎え入れると言っているのだ。これ以上ない歓迎に、トリトの母親など涙ぐんでいたほどである。
「リンダちゃん、踊らないの?」
興奮と緊張、そしてダンスの余韻で頬を赤くしたトリトが声をかけてきた。プルートは飲み物を取りに行っている。
「迂闊に踊って変に勘違いされても困るからって、お婆様に控えるよう言われているの。後で兄様に踊ってもらおうかな」
「ああ、そうね。そのほうがいいわね」
トリトはすぐに納得した。
ダンスは淑女のたしなみなのでリンダもきっちり仕込まれた。パートナーはもっぱらプルートだ。息の合う相手となら楽しくて、リンダはダンスが好きである。教師にはダンスじゃなくて喧嘩に見えると首を振られたが、似ていると思う。殴り合いの時に間合いを測るのと同じ呼吸だ。いざという時役に立ちそうである。
今夜のリンダは瞳の色と同じ瑠璃色のドレス。腰の後ろ側に大きな赤いリボンを付け、歩くたびに尾鰭のようにひらひらと揺れた。裾には真白のレースが縫い付けられている。未成年の子供なので、デコルテを見せないハイネックタイプだ。肩から胸にかけても白いレースが付いている。
真紅の巻き毛はハーフアップにして、世界樹の髪飾りで留めていた。上品な佇まいだ。
「トリト、おめでとう」
「ありがとう、クラウス兄様」
そこにトリトの兄が妻を連れてやってきた。トリトの家族はすでにリンダとも顔合わせを済ませている。トリトにはもう一人、次男にあたる兄がいるのだが、彼は招待客と話をしているようだ。
「おめでとうトリトさん。こんなに歓迎してもらえるなんて……本当に良かったわ」
「ありがとうございます、スキータお義姉様……」
クラウスの妻スキータが感極まったようにトリトの手を握った。彼女が身動きするたびにたわわな胸がゆさゆさと揺れる。ぱっちりした目にふっくらと厚みのある唇。なるほどボインちゃん、とリンダはクラウスの趣味に密かに共感していた。
「ルーナ様、どうかトリトさんをよろしくお願いします。トリトさんは体が弱くて、クラウスもいつも心配しておりました」
「成人までもつかわからないと言われた妹です。ここまで来たらぜひとも長生きしてもらいたい」
「もちろんですわ。ですが、そうしたことはぜひ兄に言ってくださいませ」
クラウスとスキータは、表面上は貴族らしくトリトにも一定の距離感で接していたが、実はクリーネ家でもっともトリトのことを考え心配していた二人である。
トリトの父は侯爵として一族をまとめ、気を配らなければならない立場だし、海の民らしく生と死は定め、という思想の持ち主だ。
トリトの母はそこまで諦めが良いわけではなかったが、好きな男と婚約できたのだからもう悔いはないと思っているのが透けて見えた。
もう一人の兄、リヴァイはやけに大げさに喜んでいたが、あれはやっと肩の荷が下りた喜びだった。トリトを大切にしていると発言していても、トリトの体質で割を食ったのは自分だと忌々しく思っていそうな匂いがプンプンした。
ジュースの入ったグラスを持って戻ってきたプルートが苦笑した。グラスには氷が浮かび、よく冷えている。
「クラウス様、スキータ様、トリトは私が大切にいたします。大丈夫です。二人で長生きしようと約束しました。ね? トリト」
「ええ、そうですわ。お兄様、お義姉様、ご心配なさることはありません」
寄り添うトリトとプルートに、クラウスとスキータはやっと安心したのか何度もうなずいていた。
「ところで……リヴァイは挨拶に来たかい?」
「晩餐の前にご挨拶していただきましたわ」
「あいつは、まったく……」
打って変わって暗い顔をしてため息を吐いたクラウスを、プルートが宥めた。
「あれはリンダも悪いんです。話しかけにくいのでしょう」
「苦手意識を持たれたのかしら?」
リンダはリヴァイのいる一角に目をやり、心せっま、と呟いた。聞こえてしまったクラウスがますます盛大なため息を吐き、プルートが慌てて頭を下げる。
「申し訳ありません。リンダは嘘が吐けないのです」
「兄様ひどい。わたくしだって言葉を選びます。ただ、あの方には率直に申し上げたほうが良いと思っただけです」
プルートとリンダがなんのフォローにもならないことを言った。
クリーネ侯爵家との顔合わせでリンダがやらかした相手は、クリーネ侯爵家次男のリヴァイだった。
リヴァイはけして悪い人間ではないのだろう。ただ、トリトが生まれて以来、彼女の体質のこともあり彼の我が世の春は非常に短かった。愛されなかったわけではないが、彼には足りなかったのだ。お兄ちゃんなんだから、と言われて育ったことを恨んでいる。そのせいかリヴァイはどこか軽薄で、かといって不良になりきれる度胸もなく、中途半端だった。
兄貴になれる器量はなく、舎弟で割り切れる性格でもない。悪に憧れているが基本的にはお人好しだ。本物に目を付けられたらあっという間に食い物にされるタイプだな、と見抜いたリンダは、トリトの兄になにかあったら一大事と思い、忠告した。
「リヴァイ様は人の裏が読めなさそうですから、親切を装った詐欺師や、褒めて利用する人に捕まらないように気をつけたほうがいいですよ。利用するつもりが利用されてるタイプです。変な壺とか健康食品とか買わされないようにしてくださいね」
ようするに「お前馬鹿なんだからしっかりしろよな!」と言ったのである。リンダは完全に善意だった。大真面目だった。
だが、十二歳の少女にそんなことを言われたほうは堪ったものではない。リヴァイは屈辱に顔を真っ赤にしていた。ハーツビートの姫を懐かせて利用してやろうと声をかけていた最中だっただけに、余計に屈辱的だった。利用するどころか魂胆を見抜かれたのである。
この発言を聞いたハーツビートの面々は揃って天を仰ぎ、そしてリヴァイを警戒した。多少浮ついているなと思っていたところに「馬鹿すぎて食い物にされるのがオチ」と、よりによってリンダに断言されたのだ。
リヴァイがリンダを嫌悪し、近づこうとしないのも仕方のないことである。リンダが悪いのだ。
「リヴァイ兄様はご自分を大きく見せようとしていますが、しょせん見せかけですものね。器のちいささを指摘されていたたまれないのでしょう」
トリトがより辛辣に言い放った。兄だからと我慢させられていたことは申し訳なく思うが、幼い頃から死の恐怖と戦ってきたトリトにしてみれば、それなら代わってくれと言いたい。何不自由のない健康な体と、充分な教育、魔力だってきちんとある。多少の不満はあっても愛してくれる家族がいて、さらにこれ以上を望むリヴァイは贅沢だ。なぜ、今あるものを大切にしないのか、トリトにはおそらく永遠に理解できない。考え方の問題だからだ。
愛は計れるものではない。クラウスにしてみれば、跡取りではないリヴァイは充分甘やかされていた。
自分の生まれや境遇に不満を抱くのは誰にだってあることだ、とリンダなら言うだろう。
それをどう解消するか、バネにして跳ね上がるか、それとも潰れるかは本人の生き方次第である。だから忠告した。兄が不幸になるのをトリトは見たくないだろう。トリトへの気づかいだった。
そんな、リンダに小物認定されたリヴァイがニヤニヤしながら近づいてきた。もう見ただけでわかる小物臭。あれは旨い話を嗅ぎ付けてやってきた笑顔だ。
「やあ、プルート君、リンダちゃん」
「こんばんは、リヴァイ様」
「こんばんは。なにか良い話でも聞きました?」
リンダの先制にリヴァイが肩を揺らした。顔合わせで言われたことを思い出したらしい。
「味噌と醤油をリンダちゃんが作ったと聞いたよ。すごいね!」
「いつか誰かが作りましたよ。現に東大陸にありますし」
たしかにリンダはヒントを出した。しかし、すでに現物は存在しているのだ。いつか誰かが解明に取り組み、手前味噌と自家製醤油に成功しただろう。今のところ東大陸に喧嘩を売るだけのガッツあるチャレンジャーがハーツビートだけだった話である。
ヒク、とリヴァイの口元が引き攣った。
クラウスとスキータが面白い見世物を見るような表情になり、プルートはどこかのタイミングで止めようと身構えた。トリトは止める気もないらしく、一歩下がったところでジュースを飲んでいる。
「い、いや、でも、その年齢でたいしたものだよ。素晴らしい発想力だ」
「そうですか? おそらく世界最古の味噌は大豆が腐ったのをなんとかしようと試行錯誤した結果だと思うんです。自分のミスで大事な食料が駄目になったなんて怒られますからね。必要は発明の母って本当ですよね! それを商売にしようなんてけっこう図太いしちゃっかりしてる。それより、味噌と醤油とくれば納豆がないのはおかしいと思うんですが、好みが分かれるので迷うところです」
「ナットー?」
新たな食品の予感にリヴァイの目がキラリと光った。リンダとの会話から自分も商売のヒントを貰おうと企んでいたようだ。
「腐った豆です」
リンダは簡潔に答えた。
一瞬固まったリヴァイだが、味噌と醤油の仲間だろうと思い直した。
「そ、そう。それはどうやって食べるものなのかな?」
「え、醤油と芥子つけて、混ぜて食べます。お好みでトッピングしてもいいですよね、生卵とか。ただ本当に腐った豆なので糸引いてますし独特の匂いもします。見た目だけで拒否する人もいるんですよねー」
糸が引くまで腐った豆は食べ物ではない。しかもそこに生卵。ゲテモノどころか当たり所が悪ければ死ぬチャレンジ食品だ。想像したリヴァイは胃の中の物がせり上がってくるのを感じた。
「蒸した大豆を藁に包むだけで簡単にできますし、健康にいいんですよ! リヴァイ様、挑戦してみませんか?」
リンダの瑠璃色の瞳に見つめられて、ふざけるなと怒鳴りつけそうだったリヴァイは怯んだ。リンダは本気で作ってくれないかなと思っている。納豆といえば日本伝統の健康食品だ。
「けっこうだ! 失礼する!」
リヴァイはきっぱり断ると、足音も荒くリンダの前から去って行った。クラウスは妻の肩を抱き寄せ、笑いを堪えすぎて過呼吸になりかけている彼女を宥めていた。
「ル、ルーナ様、最高……!」
スキータは息も絶え絶えである。今にもぶっ倒れて床にダイイングメッセージを残しそうだ。ヒント:ナットー。
「リンダ、ナットーというのは本当に食べられるのか?」
「食べられるわよ。はじめはちょっと勇気がいるだろうけど、くっさいチーズとか食べてる人なら多分好み」
リンダの意見はやはりいい加減だ。ブルーチーズを食べ慣れているからといって、誰もがシュールストレミングを好むとは限らない。そして納豆は見た目が糸引いた豆だ、生理的に受け付けない人もいる。
「ルーナ殿、プルート殿。リヴァイがなにやら失礼をしたようですな」
リヴァイがリンダに怒ったことを聞いたのだろう、今度はクリーネ侯爵がやってきた。真打登場だ。
クリーネ侯爵アプラス。マリンブルーの髪に紫色の瞳をした壮年の男は、子供のリンダにも「すまぬ」と頭を下げてきた。
海の民の王だけあって筋骨隆々として、スーツがいかにもきつそうだった。こんがりと日焼けしたアプラスはこんなところにいるよりも、船の上でカジキマグロ一本釣りしているほうが似合いそうである。
「いいえ。こちらこそ、わたくしの発言で怒らせてしまい申し訳ありません」
アプラスの隣には妻のネレイスもいる。美女と野獣、とい言葉がリンダの脳内に浮かんだ。その後ろには同じくリヴァイの話を聞いて心配したのだろう、オービットとフライヤがいた。
「いや、新しい食品の話は貴重だ。リヴァイはルーナ殿を利用するつもりでいたのだろう。聞いておいて怒るなど紳士のすることではない」
「そうですとも。しかもあの子はルーナ様のことを、許可もなく愛称で呼んだとか。謝るのはこちらですわ」
アプラスに続いてネレイスも頭を下げた。めでたい席で我欲に走り、あげく年少の子に怒りをぶつけるなど、無礼にもほどがある。
「味噌と醤油のお話をしていたので、つい同じ大豆食品の話をしてしまったわたくしのミスですわ。腐った豆なんて聞いたら驚くのは当然です」
リンダはこの夫婦に同情していた。体の弱い子供を育てるのはさぞ心を痛めただろう。そうでなくとも子育ては苦労の連続、大変だったはずだ。
同情はするものの、魔法学校に入学させたのも、プルートとの婚約を許可したのも、せめて悔いのないようにという諦めが見える。良い人であるのは疑わない。けれど親として、我が子のためなら自分の命さえ差し出すほどの必死さがなかった。クラウスとスキータのほうがよほど共感できる。
「納豆は健康に良いので作ってみたかったのですが、残念ですわ」
リヴァイがあの反応ではおそらくトリトも無理だろう。別に納豆がなくても体に良い食品はいくらでもある。自分の分だけこっそり作ろうかな、とリンダは思った。
「そうか……」
アプラスは肩を落とした。リンダが残念と言うからにはハーツビートの協力は得られまい。特産物の開発が一つ消えたのだ。
がっかりしたのが伝わったリンダはそんなアプラスを力強く励ました。
「でも、大豆の可能性は無限大です! 納豆が駄目でも豆腐があります! クリーネ侯爵領には海がありましたよね。たしかにがりは海から採れたはず!」
「トーフ? ニガリ?」
ここに魔法学校の料理長がいたらこう言っていただろう――妖精、大豆好きすぎ! と。
「豆腐は蒸した大豆を絞ってできた豆乳をにがりで固めたものです。冷やして良し、熱して良し。しかも臭みがほとんどないのでどんな料理にも合う優れもの! 夏には冷や奴、冬には湯豆腐、みんな大好き麻婆豆腐。しかも豆乳は豆そのものですから体に良いんですよ!」
「リンダ、食べ物のことだと饒舌になるよね」
プルートが額を押さえた。豆腐食べたい、という情熱だけはよく伝わってくる。アプラスはリンダの勢いに目を丸くし、それから少しだけ、困った表情になった。
「リンダちゃん、それ、先にリヴァイ兄様に言っていたら怒られなかったのに……」
トリトの呟きこそこの場の全員の意見だろう。アプラスとオービットががっちり握手しているのを見て、リヴァイがぐぬぬと悔しがっている。
リンダが意図したわけではなかったが、ハーツビート発案、クリーネ協賛の豆腐プロジェクトからリヴァイは排除されたのだった。
なんとなく、で厄介ごとを避けるリンダの本領発揮。納豆に生卵は外国人にはインパクト強そう。




