プロローグ:突然のお別れ
新連載です!よろしくお願いします!
風の音を覚えている。
フルフェイスのヘルメットを避けていく風の音。鼓膜を揺らす、空気の悲鳴。
ハンドルを握る手に伝わる振動。まるで生き物のような咆哮。
夏場はいいが、冬になると風は刃のように体を切りつけてきた。
跨った車体は体の一部だ。振動は鼓動に、排気音は叫びに、エンジンは魂を燃やしてスピードを求める。
走り抜けた夜明けの道は闇からゆっくりと紫に染まって、一日のはじまりを告げていた。
風の音を覚えている。
重力から解放されたような、あの感動。どこまでも行けると思った。
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しん、と静まり返った室内は異様な雰囲気に包まれていた。
落ち着きのある青で統一された壁紙に古風な家具がぽつんと置かれている。部屋が広いせいか、まるで伽藍堂のような印象だった。女性の寝室だというのに花の一輪も飾っておらず、いかにも寒々しい。
衝立で区切られた部屋の中央には、幼い妹を抱きかかえるようにしてソファに座る兄が蒼ざめた顔で彼女のふっくらとした手を握っていた。
二人はよく似ている。
赤い巻き毛に瑠璃色の瞳。どこかこの世のものでは無いような美を宿した顔立ち。特に妹の髪色は赤というより真紅だ。肌の白さもあいまって、幼いながらも、いや、幼いからこそ妖精めいた妖しさを秘めていた。
「大丈夫だよ、リンダ。母様はきっと大丈夫」
自分に言い聞かせるように「大丈夫」とプルートは繰り返した。不安を拭いきれないのか、繋いだ手に力が入る。
「兄様?」
兄がなぜそんなことを言うのか、理由がまだわかっていないのか、リンダはきょとんとその大きな瑠璃色の瞳を瞬かせた。
衝立を挟んだ天蓋付きのベッドに横たわっているのは二人の母だ。痩せこけた頬、白い肌は生気を感じられず、両脇に投げ出された腕は枯れ木のように細く血管が浮き出ている。白いシーツに散らされた赤々とした髪がまるで血を吸い取ったかのように不気味に輝いていた。か細い呼吸を繰り返す母の側には医師と看護師が付いており、懸命に治療にあたっている。
ドアの前に立つ侍従の他にはリンダの子守り役であるメイと、執事のソール以外にはいなかった。幼い兄妹のやりとりに堪えきれなくなったのか、メイがそっと涙を拭った。
ジークズル公爵家の女主人、プルートとリンダの母であるリリャナ・ナンシー・ド・ラ・ジークズルが病の床に就いて一年。絶世の美女と謳われた彼女は見る影も無く死に瀕していた。
何人もの名医に看てもらったが原因は不明だった。微熱が続いた後に食欲を失くし、立つこともできなくなってからはあっという間に弱っていった。プルートとリンダは感染してはいけないと隔離され、こうなるまで母を見舞うことすら許されていなかった。
「父様は、まだお戻りになられないのか?」
プルートの問いにソールが眉を顰めた。
「申し訳ございません。旦那様は登城なされており、現在連絡が取れない状態です」
「鳩は飛ばしたのだろうな?」
「はい。一時間ごとに飛ばしております」
「三十分に切り替えろ。それでも駄目なら十五分だ」
鳩とはジークズル家の使い魔のことである。いかに公爵家の使い魔といえど、そう頻繁に飛ばしたら消耗するだろう。そう注意しようとして、ソールは言葉を飲み込んだ。そんな基本的な事をプルートが知らないはずがない。母を思う子の気持ちを汲んでやれないほどソールは人の道を外れていなかった。はい、と返事をした。
「鳩はどこに飛ばしているの? 父様のところ? それともお城?」
兄の腕の中で人形のように大人しくしていたリンダが澄んだ声で問いかけた。
プルートとメイ、ソールの目がリンダに集中するも、怯えや緊張は見られない。
「お、王城の郵便局でございます。緊急とはいえ使い魔を城内に侵入させるわけにはまいりません」
ソールが恐縮も露わに答えた。
リンダはまだ六歳。母親譲りの真紅に近い髪は豊かに波打ち、深海の底を思わせる瑠璃色の瞳は嘘を見抜くのではと想像させるほど静謐だった。あまり話さない、物静かな姫は、しかし公爵令嬢らしく有無を言わせないなにかを持っている。
「そう。では、次の鳩は父様に直接届くように手配してください」
「しかし」
王城には侵入者を阻む結界がある。使い魔は郵司官が受け取り、城内の宛先人に届けるのが決まりであった。
「ジークズル公爵夫人が危篤となれば、王もご理解いただけよう。……それと、鳩が飛んだ方角を念の為確かめておいてくれ」
決まりを破って使い魔を侵入させたとなればジークズル公爵家は罰せられかねない。迷うソールにプルートが命令した。
「はっ。了解しました」
ジークズル公爵家嫡男の命令にソールは反射で返事をしていた。
足音を立てないよう鳩小屋まで走りながら、ソールは聡明すぎる嫡男と勘の鋭い姫君になんと報告すれば良いのか頭を悩ませる。鳩の飛び先を、彼は知っていたからだ。
王城というのは建前で、ジークズル公爵の当主は、今頃は愛人の家で妻の死を今か今かと待っているのだろう。
鳩小屋に着いたソールは憂鬱な気分で鳩を呼んだ。
鳩小屋といっても実物の鳩がいるわけではなく、使い魔としてジークズル家に仕え続けている魔法生物が鳩の姿になる。魔法陣から影が滲むように現れたそれは、灰色の小鳩になった。
「ドヴェルグ様のところへ直接行ってくれ。『奥様が危ない、至急お戻りを』だ」
心なしか疲れた鳩は、またか、と言いたげな目をして飛び立った。すでに日は暮れているが使い魔なので夜目の心配はいらない。ただしあまり使いすぎると疲労でストライキを起こすこともある。
鳩が王城のある南ではなく西へ飛んでいくのを確かめて、ソールはため息を吐いた。あの主人は、はたして妻の臨終に愛人のところへ行っていて間に合わなかった、などという醜態がこの狭い島国に知れ渡ったらどうなるか、想像すらできないのだろうか。そこまで愚かではなかったはずなのに、どうしてこうなってしまったのだろう。これもジークズル公爵家の血の呪いなのか。それとも魔法使いの性か。
ジークズル公爵夫人リリャナ・ナンシー・ド・ラ・ジークズルが逝去したのは日付の変わる真夜中のこと。息子と娘に見守られ、静かに息を引き取った。
遺言はなく、目覚めることもなく、ただゆっくりと、悪戯妖精に連れ去られるように微笑んでいた。
葬儀には彼女を慕っていた多くの人々が参列した。リリャナの親友は東大陸からはるばる海を越えて使者を寄越した。いかに魔法があるとはいえ国境を超えるのは容易ではない。いかにリリャナが慕われていたかを窺わせた。
残された息子のプルート・ジャン=バティスト・ド・ラ・ジークズルは九歳。娘のルーナ・リンドバーグ・ド・ラ・ジークズルは六歳。幼い兄が泣くのを我慢してさらに幼い妹を慰めているのに参列者は涙を堪えきれず、魔法使いの嘆きに葬儀は大荒れの天候になった。
妻の臨終に間に合わなかったジークズル公爵が後妻を迎えたのは喪の明けきらぬ半年後のこと。リンダと同じ年の娘を連れて、後妻はジークズル公爵家にやってきた。
「今日から彼女がお母様だよ。こっちは妹になる。ご挨拶しなさい」
一人にこにこ顔の父に、表向き殊勝に見せているが優越感と蔑みが滲み出た笑顔の継母と、あきらかに敵対心剥き出しの義妹を紹介されたリンダは、死んだ目をした兄がたちまち殺意溢れる瞳になったことを素早く察知してぽつり呟いた。
「こいつはやべぇや」
女子供にはやさしくするべし、という信念を持った元ヤンの記憶を持ったリンダでも、こんな時どんな顔をすればいいのかわからなかった。
明るく楽しい話にしていく予定です。応援よろしくお願いします!