鬼
何も無いと思われた荒野に佇む、一本の大樹……。
不思議と懐かしい。
これが、安堵と言うモノか……。
まるで、お館様に、手を差し伸べられた日の様な、不思議な思い。
自然と、涙が零れてくる。
涙と痛みで、霞む目を擦り、人影を確認する。
老人が二人……?
碁盤を囲い、囲碁の最中だ。
この、何もない荒野で……。
近づくにつれて、老人の、透き通った声が聞こえてくる。
「ひょひょひょ。これで、一万二十一勝、儂の、一勝勝ち越しじゃ」
白髪に気の良さそうな老人が、手を叩いて笑う。
「なにを、すぐに追い越してやる」
対面に座る、浅黒い老人が、悔しそうに唸っていた。
声をかけようとして、口を開くが、喉がかすれて、声が出ない。
歩きながら、必死に手を伸ばす。
「あ、ああ……」
振り絞る様に、声を出す。
手を伸ばし、やっと……。
やっと……。
「北斗よ、待ち人が来た様じゃぞ?」
「ああ?儂等の、待ち人では無いだろう?南斗よ」
白髪の老人が、南斗……。
浅黒い老人が、北斗……。
待ち人とは何だ?
そんな事より、俺は今まで、戦場に居たんだぞ?
何を、安堵しているんだ?
途端に、警戒色を高める!
北斗に南斗……。
明の伝承の、生と死を司る仙人……!
違う!
俺は、戻らなくちゃならないんだ!!
「ひょひょひょ。そう警戒せんでも良い。此処には、主の倒さなくては為らない敵はおらんよ」
そんな俺の不安に気付いたのか、南斗は、優し気な笑みを湛え、再び、手招きをする。
あまりに、飄々としたもの言いに、毒気が抜かれ、ゆっくりと歩きだしていた。
一陣の風が吹く。
まるで、老人と俺の間に、見えない壁が隔ててあるかの様な、間合いが生まれる。
言葉を交わすだけであれば、十分な距離だ。
歩みを止めて、老人達に目をやる。
そして、擦れた声を、振り絞る。
「して、老人此処は?」
分かっている……。
分かっているが、聞かずにはいられない。
南斗は、美しい髭を摩りながら、
「もう、気付いておろう?ここは、生と死の狭間にある無限の荒野じゃ……。死した者が、49日彷徨い歩く、そう言った場所じゃよ」
やはり……。
ここは、彼岸。
なれば、まだ!!
俺は、目を見開き、元来た道を、凝視する!
何処だ?
何処に向かえば、俺は、帰る事が出来ると言うんだ?
源三郎様が、まだ一人で、闘っているかもしれない!!
戻らなくては!!
「もう、お主の倒す敵は、おらんと言っておろう……。お主の、最後の父は、生きておるよ。お主と同じでな」
「最後の父……。源三郎様の事か!?」
俺は、南斗の肩を掴み、その身を揺らす!
南斗は、微笑を崩さず、
「大丈夫じゃよ……。お主は、歴史を変えたのじゃ……」
「歴史を変えた……?源三郎様は、生きているのか……?」
何を言っているのか分からない……。
分からないが……。
「源三郎様が、生きてる……」
俺は、膝から崩れ落ちて、涙した。
子供の様に泣きじゃくり、
「本当だな?本当に、生きておられるのだな?」
「ああ、生きておるよ。お主が、最後に放った、龍によって、武田の軍勢は、総崩れじゃ」
「龍……?」
「そうじゃ……。龍とは、人間の体内に宿る、気の事じゃよ……」
「本来、あんなに、強大な力として、解放される事は無いのだがな……」
北斗は、訝し気に眉を顰め、俺の体を確認する様に触る。
「人に身でありながらのう……。やはり、鬼の血が混じっておるか……」
まるで、懐かしき思い出を語る様に、北斗は語る。
「古の者じゃ……。もう、存在しては居るまいと思っていたのだがのう……」
北斗は、感慨深く思い、ため息を吐く。
「鬼とは……?」
鬼子と呼ばれた。俺は、自分の半生を思い起こし、北斗に聞き返す。
「鬼とは、悪しき者として語られているが、実際は、古の神々の事じゃ……。遥か昔、まだこの世が若かりし頃、人々に変わり、この世を支配しておった。大地を、海を、その偉大な力で、管理し、育んでおった」
「人々が、繁栄し始めると、人間は、山を崩し、森を切り開き、古き神々を、追いやりおった……」
北斗に続き、南斗が語る。
「古の神々は、大いに怒り、人間を駆逐しようとした……」
「じゃがのう……。海を渡りし来たる、大陸の神々が、それに異を唱え、人々に救いの手を差し伸べた。やがて、日乃本の古の神々は、鬼へと転じて、逆に居場所を失い、封印されてしもうたのだ……」
南斗と北斗の瞳に、影を落とす。
「儂等も、大陸から来たものじゃ……」
「ただ純粋に、自然を愛し、慈しんでいた日乃本の神々に、後ろめたさがある……」
やがて南斗は、俺の頬を優しく撫で、慈しむように、目を細める。
「邪聖よ……。汝は、半神半人なんじゃよ。ぬしの体に宿る、鬼の血脈、誇りに思うがよい……」
「儂等も若かった……。今でも考える。何故あの時、分かり合うのではなく、打ち負かすことを選んでしまったのかを……」
北斗は遠き日を思い、空を見上げる。
星一つ無い、彼岸の空は、まるで今の、南斗と北斗の心を映し出すようだった。
「ぬしの魂は、真に、強く眩しいものじゃのう……」
「あの日、儂等と対峙し、尚も、気高く散っていった古の神々の様じゃ……」
自らの命のルーツを知り、俺は苦笑する。
古の神々か……。
やはり、俺は……。
北斗と南斗に倣い、空を見上げる。
―人であれ……―
不意に、玄海師匠の声が聞こえたように思えた。
俺は、目を閉じ、静かに笑う。
「俺は、人の子、邪聖だ……。俺を捨てた、母の事は遠に忘れたが、誇れる三人の父がいる」
開いた二つの眼で、北斗達を見つめる。
神でも無ければ、鬼でも無い。
人の子、邪聖……!
それが、俺だ。
太陽も無い、混沌とした世界に、温かな風が吹く。
お館様の手……。
俺は目を細め、今一度、空を見上げた……。