睡眠負債の取り立て屋
「邪魔するで~」
「いま、割り増し課金中だから、あとにして。……えっ!」
窓枠に腰かける野球帽をかぶった少年の姿を見て、ひたいに冷却シートを貼って同人原稿を描いているアラサーの女は、二度見、三度見してから大仰に驚き、その拍子に、こたつテーブルの上に立ててあった栄養ドリンクの空き容器を、床にはたき落とす。
「フフン。鳩が豆を食ったような顔やね」
「それを言うなら、豆鉄砲を食らったような、よ。……はぁ、疲れてるのかしら。ついに幻覚と幻聴が」
「ていっ!」
「きゃっ! ちょっと、何するのよ。返しなさい!」
ストンとカーペットに降り立った少年が、女がタブレットに走らせていたペンを取り上げると、女は取り返そうと立ち上がる。
「今すぐ、その肌色率の高いディスプレイをシャットダウンせい!」
「悪かったわね、半裸の美男子ばっかで。デッドラインぎりぎりなのよ。どうしても、この新刊を落とすわけにはいかないの」
「こんなことばっかりしてるから、婚期を逃してしまうんでっせ?」
「ほっといてよ。ねぇ、お願い。あと二十四ページだけだから」
「多い多い。ここ一週間、毎晩、睡眠時間が六時間を切っているという由々しき問題を抱えてるんやで、自分? 寝不足が積み重なると、うつ病や認知症になるリスクが高まるのや。えらいこっちゃ!」
「えっ。何で、一週間前からって知ってるのよ。あなた、ストーカー?」
「ちゃうちゃう! そんなケッタイな輩と一緒にせんといておくれやす。それより、電源を切っておくんなまし!」
「うるさいわね。脱稿したら、枕を高くして爆睡するつもりよ」
「寝溜めは、概日リズムが崩れるから逆効果でおま。もうティーンエイジャーの頃みたいに無理が効く歳やないさかいに、せめて、昼間に十五分の仮眠をしなはれや!」
「余計なお世話よ。――そもそも、ちょいちょいベタな関西弁を入れるのは、何なの?」
「エッヘン。何を隠そう、わては睡眠負債の取り立て屋でんねん。せやから、関西弁を話してるんでんがな。どや? 初仕事やけど、なかなか様になってまっしゃろ?」
「……たぶんだけど、こてこての関西人が聞いたら、そんなの関西弁じゃない、って怒るわ」
「あれ? おかしいな。先輩は、バッチグーって言ってたのに。――あっ、しまった!」
「ふぅ。これで続きが描ける。――どこから入ったか知らないけど、通報されたくなかったら、出て行きなさい!」
女がペンを取り返して原稿作業に戻ろうとすると、少年は帽子を脱ぎ、その内側から某青色耳なし猫の要領でステッキを取り出すと、ディスプレイに集中している女に向かって一閃する。
「この手だけは使いたくなかったが、やむをえまい。――眠りに落ちよ<アネススィーズィア>!」
「ひゃっ! ……スー、スー」
女は、一瞬ビクッと背筋を伸ばすが、すぐにグッタリと脱力して横臥し、静かに寝息をたて始める。その顔を見て、少年はホッと胸を撫で下ろしつつ、ステッキをしまって帽子をかぶり直す。
「寝顔だけは、ベッピンさんやのになぁ。せぇぜぇ、えぇ夢見ぃや」
そう言うと、少年はパソコンを閉じ、部屋の明かりを豆電球だけにする。そして、窓枠に足を掛けてしゃがみ、そのままガラスをすり抜けると、背中から妖精のような透明の翼を六枚広げ、夜空の向こうへと飛び立とうとした。
しかし、その途中で一時停止のちにユーターンし、少年は帽子を脱いでステッキを取り出し、窓の向こうへと、ひと振りする。
「これは、強引な術を使ったお詫びや。オマケしといたる」
小さく独りごちると、少年は再び帽子をかぶって月へと向き返り、そのまま漆黒の帳へと消え去った。
翌朝、寝落ち同然に熟睡してしまった女が慌ててパソコンを立ち上げると、そこには、最後の一コマさえ描けば完成する原稿が保存されていたのであった。
イベント当日、女のブースに新刊が並んだかどうかは、言うまでもないであろう。