雨と心と共に
雨の日は、嫌いではなかった。
しとしとと外界の音を一定に刻んでいく、その手拍子が好きだったし、何となく、すべてを洗い流してくれるような、そんな優しさがある気がするから。
雨が上がれば、虹が世界に挨拶。雨降って、地固まる。止まない雨は、ない。
忙しなく行き交う四輪の音を飲み込んで、時間の進みが緩慢になる。すると、人自身との対話が捗るのだ。
つまりは、プライベートが強調されるような、そんな日だと思う。
傘を広げる人々は、自分だけの空を頭上に創り出し、雨合羽を着て自転車を走らせる人々は、いつも触れ合うはずの吹き抜ける風と接触を絶つ。
そんな雨の日が、嫌いではなかった。
強いて難点を上げるとするならば、移動がやや面倒になることぐらいか。
天気が塗り替える世界の色の絶技だとか、科学技術革新の目まぐるしい昨今においても、天気の影響は無視できないといった人間のちっぽけさだとか、そう考えると、移動の不便もどこか神秘に感じる。
“自由とは、この雨の中で傘を捨てて踊り出す人がいても良いということだ”。
そんなことを言っていた偉人がいた気がする。
プライベートの強調、そう前述したが、この雨の中突然、踊り出してみたらどうだろう。
個人の集団であったこの場が、途端に演者と観客に大別される。個人のプライベート空間への、刺激的かつ劇的な侵入。
動きに合わせて弾く雨粒、滴り落ち続ける雨の流れ、高揚する心とは裏腹に体温を奪う雨の温度。
踊りだけで考えると、自由とは、一種の抵抗なのかもしれないなと思えてきて、少し楽しくなった。
少し濡れることを享受し、空を見上げる。
雨の止めどなく地面を目指す姿を見ていると、自分が空へ舞い上がっていくような錯覚にも陥る。雨は、空からの使いなのだ。
雨の日は、嫌いではない。
この少しロマンチックに思考が誘導されるのもまた、面白いから。
帰路を行く。
雨は止みそうもない。木々たちの緑が濃くなっている気がする。雨樋が泣く。
改めて考え直してみると、僕は雨の日が好きなのだろう。
ささやくような口笛は、誰の耳にも届かない。