18.もう一人のヒーローの言葉
指一本動かさず、瞼さえピクリともさせないでいると、俺は眠ってしまったらしい。そして、誰かが俺の胸倉をつかみ引き起こした。
「てめえ、なにやってんだ!」
耳がつんざくような罵声を浴びて、俺は目を覚ました。
目の前には、目を疑う光景があった。あいつが俺を睨んでいた。
「そんなしみったれた顔でなにしてやがる!ぶっ殺してやる!」
そいつは俺を雪の中に投げ、俺の上に乗りマウントをとった。鬼のような形相で睨むそいつを見ると、俺の心は痛んだ。
「どうして、ここに……」
「知らなかったのか?ヒーローは空を飛べるんだぜ」
どこかで聞いたことのある言葉を言うと、そいつは無理に口角を上げて笑って見せた。そして俺の頬を殴った。
でも全然痛くなかった。
「お前、力弱すぎだろ……。女子か」
そう言うとそいつは顔を赤くした。
俺はなんだか腹が立ってきた。目を覚ましたら殴られたんだから、理不尽というほかない。
俺は拳を握り、殴り返した。一発でそいつは倒れこみ立ち上がらなくなった。
「おい、ここはこのまま殴り合いに発展して、そのあと仲直りして友情が深まるシーンだろ?!」
「いてえ……」
すっかりテンションが下がった声がした。男同士で喧嘩にすら発展しないとは……。どうやら俺たちに人並みの青春は無理らしい。
そしてお互いにため息をつき、少し笑った後座り込んで話をした。
「心配したんだ。君が大丈夫なのかどうか分からなかったから。梨花も心配している」
「それはありがたいけどよ、なにもここまでしなくてもよ」
「回りくどいやり方とか、僕にはよく分かんないよ。友達なんて生まれて初めてできたから」
しおらしい声で言われて、俺はそれ以上責めることができなくなった。
「聞いてもいいか?」
俺の問いに頷くのを見て、腹を決めて話した。
「あの日、どうして俺のところに来てくれたんだ?」
引っ越しの日、電話でこいつはあの時のことを悩み続けると言った。きっとそれは最初から分かっていたはずだ。頭のいいこいつのことだから、そのことを知らなかったはずはない。
それでも、俺の元に来てくれた。苦しむと知っていて、悲しいと分かっていて、それでも手を差し伸べた。その理由が知りたかった。
「簡単だよ。僕がそういう人間だったから、そうしただけだよ」
言葉通り、簡単にそう言った。自分を見失った俺には分からない言葉だった。
「僕がそうしたいと思ったから。僕には君の苦しみが伝わってしまったから。君が悲しいって分かってしまったから。だから悩んでも、後悔すると分かっていても、そんなことがどうでもいいと思うくらい、君を救いたいと思った」
いつか、誰かが言っていた。
『人の幸せを願い、人の不幸を悲しめる人になりなさい。弱くてもいいから、なにかを成し遂げるような立派な人じゃなくてもいいから、人の気持ちを理解できる人になりなさい』
母親がなれと言った人間が、目の前にいた。半ばなれないと諦めていたそれは、簡単に現れた。俺を鼓舞するかのように、手本を見せるようにそこにいてくれた。
「だから、救ったはずの君が、しけた顔をしていたから腹が立った」
殴った言い訳をしているんだろうが、理由になっていなかった。
「じゃあ、俺はどうしたらいい?俺は誰も傷つけたくないんだ。でも目の前の人を放っておけない」
関わると傷つき、傷つけてしまう。けれど関わらなければ救えない。
「君はきっと、妹さんの件で自分の手が誰かに触れることを恐れているんだ。でも、君の手は、梨花を救い、僕の記憶を優しく包み、人と繋げてくれた優しい手だ。それでも君は、自分の手を恐ろしいと思うかい?」
俺は自分の手を見た。優しい言葉を投げかけられた後でも、俺は恐ろしいと思った。
友人の言葉は、俺の考え方までは変えてくれなかった。
「怖えよ」
俺は呟いた。囁くように弱い声で、戸惑うように言った。
「でも、こんな手でも、誰かを傷つけるかもしれなくても――差し伸べたい」
俺の口は、俺の願望を言葉にした。嘘偽りなく、形にしてくれた。
「だったら、迷うな。君はきっと人を救えるように作られている」
気休めだった。神でもないこいつに、そんなことが分かるはずがないのだから。俺がどういう人間かなんて、俺自身にも一生分かるわけない。
でも、もう一度――、許されることならばあと一回だけ、手を伸ばしたいと思った。
家族を失った俺に、再び家族ができたのは、そういう意味なんだと思うことにしよう。
「あーあ、君のせいで今月のお小遣いはもうなくなっちゃったよ」
そいつは嘆きながら立ち上がり、尻についた雪を払った。
「帰りの分は足りてんのか?」
「うん。実は梨花に少しだけ借りたんだ。だから大丈夫。もう帰るよ」
爽やかな笑みを残し、歩き出した。俺はその背中をただ見つめた。
「じゃあな、片桐隼人」
すると隼人は振り返り、にっこり微笑んで言った。
「今は僕、潟元隼人なんだ」
太陽のように笑う友達を見て、俺は笑顔になった。
なりたいものを目指さない理由が取り払われて、俺は進まざるを得なくなった。でも、もう一度魔法にかかるのも悪くない。
立ち上がる気力は、とっくの昔に湧いてきている。
友達が会いに来た。たったそれだけのことは、立ち上がるのには十分すぎた。