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試練の時が迫っていた。
「――こちらが覚えていただく内容です」
すっと、書類の束が差し出される。束だ。紙一枚でもなく、一行だけのメモでもなく、端から端までぎっしりと文字が並んだ紙が、何枚も重なっている。
「これ、全部、ですか……」
ルーリスの声が掠れた。一番上の紙に書かれている内容を読み終えるまでどのくらい時間がかかるだろう。すでに一行目でつっかえているこの気持ちを是非理解して欲しい。
(王位継承者の承認に……なんだろうこの単語……王族……王家? 儀式を……行う……?)
ルーリスの前に積まれたのは、セルマの王位継承者承認の儀式の内容だった。そもそも今回のセルマの帰還は、王位継承者として公式に認めてもらうためだ。そのためには、かなり省いてしまった儀式を行わなければならない。そしてそこには、精霊騎士であるルーリスの役目もしっかり含まれている。今回だけはセルマの後ろに黙って立っているだけでは済まない。
(ユードに読んでもらってもいいかな……あ、しばらく出てこないって言ってたっけ)
先日行われた査問会でもユーダミラウは姿を現さなかった。セルマにかけられた嫌疑を払うには、守護精霊の発言が何より効果的ではとルーリスは単純に考えていたのだが、そもそもその守護精霊が邪精霊ではないかというのがベリオル侯爵の主張なのである。そんなユーダミラウがセルマを擁護すれば共犯者をかばっていると思われ、ベリオル侯爵を糾弾すればトカゲの尻尾切りだと言われるとセルマに説明されたときのルーリスの感想は、「奥が深い」である。偉い人と頭がいい人と悪い人の考えはルーリスには思いもつかないことばかりだ。
守護精霊の守護が得られないという危機的状況だったが、ルーリスは楽観していた。セルマは言っていたのだ。王と王太子に話は通っているし、根回しは済んでいると。ルーリスが黙ってセルマの後ろに立っている間に、査問会はどんどんとセルマに有利に進み、最後にはベリオル侯爵の悪あがきの犠牲になった哀れな末姫ということで決着がつき、無罪放免となった。今後、ベリオル侯爵には無関係の王族への冤罪が追加されて、さらに厳しく追及されるらしいが、当面の危機は去った――と思っていたのに。
一難去ってまた一難だ。
「ちなみにこれはいつまでに……」
恐る恐る顔を上げると、正面に座る人物と目が合った。意外そうな顔をされる。
「当然、式典の日までです」
「……そりゃそうですよね」
王位継承者承認の儀式は、今日から二十日後に設定されている。十日で読んで残りの十日で覚える、というのはどうだろうか。
「実際には、本番を想定した練習も行いますから、式典の三日前までとなります」
「……」
さすがセルマの側近だ――ルーリスは恨みがましい視線で睨んでやった。容赦なく追い打ちをかけてきたのは、正面に座る青年、ジュニド・コスペリムだ。三十代妻子持ちと聞いているが、整えられた赤茶色の髪には、少年のような天使の輪が光っている。実にうらやましい髪質だ。しかし柔らかそうな髪と対照的に、顔つきは、一言で評するなら「鋭い」だ。つり目気味なのも影響しているだろう。深緑色の双眸は、ルーリスの必死の睨み攻撃にもたじろがない。王城に勤めたときから文官一筋だと聞いたが、入室から椅子に座るまでの一連の動作を見て、ある程度は鍛えてあるようだとルーリスは見抜いていた。
「練習……」
そう聞いて、ルーリスの頭にある考えが閃いた。
「それって、式典のお芝居をするってことですよね?」
「お芝居……まあ、そうなります」
怪訝そうに頷くジュニドに、ルーリスはたたみかけた。
「それ、先にやってもらうことはできませんか!」
「先に、というのは?」
「本当の練習の前に、できれば明日とかにやってもらって、あたしはそれを見て覚えるっていうのはどうかなって思ったんですけど!」
この方法なら、書類を読まずに済む。お芝居なら見て覚えるのも得意だ。我ながら名案だ。
ジュニドは、顔色一つ変えずに言った。
「つまりルーリス様は、陛下を始めとする王族の方々に、ご自分の練習のために協力せよと、そうおっしゃりたいと」
「今のは無かったことにしてください」
ルーリスは素直に謝った。やっぱりユーダミラウを呼ぼう。お城の中で出てくるのがダメなら、覚えるまでルーリスが街に出れば良い。そう思ったら急に良い考えに思えた。そういえば厨房に勤めていたときに借りていた部屋は今はどうなっているんだろう。
「ここに書いてあるのは式典全体の進行だから、全部覚えなくても良いわ」
現実逃避を始めたルーリスを救ったのは、まさかのセルマだった。それまでじっと黙ってお茶を飲んでいたセルマは、不機嫌そうにジュニドを見やる。
「……わざとやったわね、ジュニド」
「何のことか、わかりかねます」
悪びれた様子も無く、ジュニドは書類を数枚めくった。
「言いそびれましたが、殿下のおっしゃったとおり、ルーリス様にきちんと覚えていただきたい内容は、ここからここまで、囲みの中だけといたしました」
ルーリスは急いでのぞき込んだ。示された範囲は約十行。四角で囲われて内容は、ルーリスでもすらすらと読めた。
(……っていうか、ここだけすっごく優しく書いてない?)
前後の文章は未知の単語が仰々しく並んでいるのに、囲みの中だけは「前を向いたまま一歩下がる」とか「ここからまっすぐ進む」といった具合だ。明らかに文章レベルが違う。
「ルーリス様が一人でも読めるようにとのご指示通りに書いたつもりですが、いかがですか?」
「あ、はい、読めます。大丈夫です」
「読むだけではなくその通りに動いていただくようお願いいたします」
「はあ……」
ルーリスに読んで欲しいという囲みは他にも三カ所あった。要約すると、入場、式典中の移動、挨拶、退場の四つだ。
「すみません、この挨拶というのは」
「おはようございますとか、初めましてといった普通の挨拶ではありません」
「……」
先手を打たれてしまった。式典の流れから言って、王侯貴族に顔を覚えてもらうのが目的だろう、ということまでは予想がつく。なのでルーリスの案は一言、『よろしくお願いします』だったのだが。
「ジュニド」
ぴしりと、セルマが呼んだ。ジュニドは何事も無かったかのように、別の紙を取り出した。
「こちらに、ルーリス様のご挨拶の言葉を用意して参りました。セルマ殿下のご希望通り、簡潔にまとめたつもりにございます」
どうぞとジュニドが差し出した先は、ルーリスではなくセルマだった。セルマは受け取ってさっと二回、目を通す。
「いいでしょう。ルーリス、これを読んで覚えなさい」
「はい……」
また覚えることが増えてしまった。新たな試練は数行だった。囲みの中の指示ほど簡単ではないが、一応読める。難しい単語には注釈までついているという親切ぶりだ。
「少しくらい間違えても構わないわ。むしろその方が期待通りでしょうから」
セルマまでが親切の大盤振る舞いをしてくるので、ルーリスは逆に不安になった。式典の参加者はルーリスが失敗することを望んでいるとしか聞こえない。
(イヤな世界だなあ……)
当日、ベリオル侯爵が突然脱獄して襲ってきたりしないかなと、ルーリスは再び現実逃避に走った。
「ルーリス、ちょっと待ちなさい」
ジュニドが退室したので、ルーリスもいとまを告げて立ち上がった。書類の束に手を伸ばしたとき、セルマに引き留められた。
「それを貸して」
ルーリスが渡すと、セルマは侍女を呼んで、例の囲みの書かれている部分を抜き出して写すようにと指示を出した。結果、書類は持ち去られ、ルーリスは手持ち無沙汰の状態だ。
「えーと、殿下、あれっていつ頃戻ってくるんでしょうか」
「夕食までには戻るでしょう。写しを一つ作ったら、後はそれをまた写せば良いのだから」
「また写すって……いくつも必要なんですか?」
「ええ、あなたの意見を採用してみようと思って」
「は?」
何を言ったっけ――記憶を遡ってみたが、セルマが気になるようなことは言っていない、と思う。
「式典のお芝居、なんて私には思いつかない言葉だわ」
「はあ」
褒められているのはけなされているのか、セルマの言葉は今日もよくわからない。
とりあえず、お芝居の一言で、ルーリスの心は浮き立った。
「もしかして、ほんとに練習のお芝居をやってくれるんですか?」
「言っておくけど、あなたは見てるだけじゃないのよ?」
「ということは……あたしも一緒にお芝居をするってことですか!?」
ルーリスの食いつきぶりに、セルマは思わず身を逸らした。
「何がそんなに嬉しいのか知らないけれど、お芝居と言っても、式典の練習よ?」
「あ、はい、わかってます、大丈夫です! 前から一度、お芝居ってやってみたかったんです!」
「……言っておくけど、あなたの場合はお芝居でおわらなくて、本当に式典があるのよ?」
「えーと……そうでした」
一度は正気を取り戻したルーリスだったが、翌々日からの練習で、再び心を浮き立たせていた。
「それでは時間もあまりございませんからどんどんいきましょう。まずは台本の読み合わせからですが、ルーリス様、読んできてくださいましたか?」
仮の劇団長として就任したのは、清掃担当のウィナリアである。王女宮の小広間には、他にも劇団員として選ばれた侍女たちが、立ち並んでいた。ルーリスは意気込んで頷いた。
「はい、読んできました!」
「ルーリス様のセリフはほとんどありませんが、他の方の言葉をきちんと聞いて覚えていただかないと、動くべき時を間違ってしまいます。ルーリス様もお芝居をよくご覧になられていたのなら、おわかりでしょう?」
「はい!」
「大変よろしいですね。それでは、みなさん、役割はお願いしたとおりで順番に読んでいきましょう」
「はい!」
元気よく返事をしたのはルーリスだけだ。侍女というのは大きな声で返事をしたりしないのだ。
「では、実際に動きながらやってみましょう。ルーリス様、そこはもっとゆったりとお歩きください。前を歩いているのはセルマ殿下です」
「ゆったり……こう?」
「それはただのろのろしているだけです。これは王女殿下が正しく王位継承者となる栄誉の時を迎えるために歩いているのです。ルーリス様はお仕えする殿下のことを誇らしく、そして大切にお守りするのだと決意を込めてお歩きください」
「あ、それは、あれですね、『最初の王と最初の精霊騎士』の精霊騎士のセリフですよね!」
ルーリスが好きな芝居は恋愛ものだが、『最初の王と最初の精霊騎士』はよく覚えている。村に来る芝居一座は必ず子供向けに建国史のお芝居をするからだ。ウィナリアが引用したのは、王座に向かう主君の背後に付き従う、最初の精霊騎士カンティウォートの独白部分だ。
「さすがルーリス様、よくご存じですわ」
ウィナリアが片目をつぶってくる。後にウィナリアもルーリスに負けず劣らずの芝居好きと判明して盛り上がるのは、また別の話である。
「――まさか、本当にお芝居で練習させるとは思ってもみませんでした」
一方、全く盛り上がっていない二人もいた。ジュニドとセルマである。目的のために手段を選ばない主従ではあったが、侍女たちの熱中ぶりまでは予想がつかなかった。二人の思いは今、一つだ――どうしてこうなった。
「誰かが読み聞かせする必要があるとは思っていたの。実際の動きもやって見せないと、あの子ではわからないでしょうし……」
「本格的に芝居にする必要は無かったのでは?」
ジュニドが言っているのは、式典進行原稿を芝居の台本風に改編した件だ。
「私は原稿を抜き書きして写すようにとしか言っていないわ!」
気づいたら、こうなっていたのだ。ルーリスの『式典のお芝居』発言が原因らしいが、まさか侍女たちにこんなに芝居好きが揃っているとは夢にも思わなかった。
「さようですか……ルーリス様が覚えてくださるなら、それでいいのでしょうが」
「それでいいのよ!」
お読みくださってありがとうございます。




