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「これでどう?」
「ダメ。もっと真っ直ぐ」
デュドライア砦には、身体を使わない訓練用の部屋がある。机と椅子と本棚が並ぶその部屋は、机上訓練室と呼ばれている。いわゆる、「お勉強」用の部屋なのだが、そう聞いただけで原因不明の腹痛や頭痛と言った体調不良を起こす団員が絶えなかったため、現在のような呼称となっているらしい。
「これならどう?」
「ちょっと違う。もっと流れるように」
ルーリスは、勉強と聞いても大して気にはならないたちなので、その部屋がなんと呼ばれていようと気にしないが、身体と頭の訓練のどちらがいいかと聞かれれば、やはり身体の訓練を選ぶ。読み書きの教師がユーダミラウだった場合は、特に。
「えー、これもこれも、同じじゃない?」
「違うよ。こっちは途中で曲がってる。間違えたのをごまかした後だよね」
「うぅ……」
読みの方は、店の商品が読める程度、書きの方は自分の名前が書ける程度だったルーリスの今の目標は、恋愛小説を一人で読破することと、その内容を簡単にまとめて書けるようになることだ。
いつのまにか目標が増えているのは、言うまでも無くセルマの指示だ。本当に自力で読んだのかどうかを判定するためだと言われては、ルーリスは従うしかない。『私を信じてくれないのですか』と一言言えれば、もう少し事態は変わったのかもしれない。別の日に読み進めていた物語の主人公のセリフにルーリスが遠い目をしたのは、ある意味で成長の証と言えるだろう。
「なにやってるんだ」
顔を上げると、ラグデリクがいた。
「勉強だよ。だからこの部屋にいるんだし」
答えたのは、向かい側からルーリスの手元をのぞき込んでいたユーダミラウだった。無駄に人間くさいこの守護精霊は、練習開始時からずっとルーリスが書き記す文字の形について厳しい評価を下している。
「そうか。まあ、そうだよな」
頷くラグデリクの表情は、納得しているとは言い難い。隊長に心に疑惑の闇を落としているものは何だろうと、ルーリスは周囲に目を配る。部屋に入ったときには数人の騎士が自習していたが、今は誰もいない。無人の机と椅子の他には、本棚が並んでいるだけだ。ちなみに本棚に収められているのは、周辺国家の地理、歴史、戦略や戦術といった高度な書籍から、『なまえのかきかた』といった基礎中の基礎までと、幅広く揃っている。
ルーリスは、自分の名前以外も一通り書けるようになったので、『なまえのかきかた』は卒業した。今は、セルマが納得するレベルまで文字を綺麗に書く練習をしているところだ。ユーダミラウ以上にセルマの判定は厳しいので、いつ合格するのかはわからないが。
「何の勉強をしているのか訊いてもいいだろうか」
しばらく首を振った後で、ラグデリクは何かを吹っ切ったように尋ねた。
「見てのとおり、読み書きだよ」
「今は綺麗に書くことだけの練習ですけど」
ユーダミラウの答えに、ルーリスが付け加えた。机の上には本もある。辞書もある。セルマから貰った練習用の紙があって、その上にはいくつもの単語が書き散らかされている。どこをどうみても読み書きの勉強中にしか見えないと思うのだが、ラグデリクの眉は顰められたままだ。守護精霊という王族以上の敬意を表すべき相手を前に、眉根を開くべきか閉じるべきか、迷っている様は見ていて飽きない。そんな隊長は可愛いと言ってもいいかもしれない――一瞬、意識が街娘レベルに下がったルーリスだった。
「そうか……教本は何を使っているんだ?」
「教本というか……これなんですけど……」
ルーリスは一冊の本を差し出した。借りた恋愛小説の一つである。女性向けなので、当然ラグデリクには見慣れないタイトルだったのだろう。眉が更に顰められていた。
「有名な本なのか?」
「身分の有る方にお借りした本なので、多分……?」
アーセージ伯爵の名前を出すのは憚られた。ラグデリクは深く追求はしなかった。代わりに、見せて欲しいと頼んだ。
「どうぞ」
ルーリスは本を渡した。ラグデリクは表紙を捲って、数ページをすいすいと読んでいく。あんな風に読めたら楽しいだろうなと、ルーリスは羨ましく眺めていた。
「これは……小説、だな?」
「はい、恋愛小説です」
ルーリスが答えると、ラグデリクは衝撃を受けたような顔になった。さっきから、どうしたのだろうか。
「ねえ、隊長さん。何か言いたいことがあるならさっさと言ってくれないかな? 僕もルーリスもまだやることがあるんだけど」
「すまなかった」
ラグデリクは素直に謝ると、一呼吸置いて言った。
「実は、先ほどあなた方が不穏な計画をしていると報告があったんだ」
「計画?」
ルーリスに心当たりはなかった。が、ユーダミラウはくすくすと笑い始めた。
「なんだ、そういうことか。確かにそんな風に見えたかもね。でも勘違いだよ、隊長さん。僕とルーリスは字の練習をしていただけだよ。練習に選んだ言葉がちょっとばかり実践的だったかもね」
ルーリスは書き連ねていた単語を見返した。謀略、暗躍、粛正、悲願の達成、忠誠の証、盲目な愛情等々、ルーリスがこれまでの人生で使ったことのない言葉の横には、ユーダミラウによる説明も書き添えてある。辞書を引いてもわからなかったので、ユーダミラウに尋ねたら、ついでに練習の材料にしようという流れになり、今に至るわけだが。
二度読み返して、ようやくルーリスも納得した。真剣な顔でこんな言葉を書き綴っていたら、セルマのためにルーリスが悪巧みしていると思われても仕方ない。
(殿下の方がもっと悪いこと考えられるんですけどね!)
大声で叫びたい衝動をルーリスは堪えた。
「実践的……?」
まだ疑念の晴れない、というか、一層誤解を深めてしまったラグデリクに、ルーリスも思考を切り替えて言い添える。
「えーと、さっきの本に出てくる単語なんですけど、難しいので教わってました」
もう一度貸してくれと頼まれたので、ルーリスは本を渡す。ラグデリクは中の方までページを捲って、ルーリスが書き写した単語があることは認めた。
「これ、恋愛小説なんだよな……?」
「はい。とある王国の内乱に巻き込まれた貴族の若様と、若様に敵対する勢力の貴族の元で働く侍女の話で、最初は若様のところに密偵として送り込まれるんですけど、若様のことが好きになっちゃって、命を助けちゃうんですよ! でも若様は王家の姫君と婚約の話が進んでてですね! けど、そのお姫様も実は――」
「わかった。いや、話の内容はわからないが、とにかく実際の計画とは何にも関係ない事はよくわかった」
ものすごく急いでラグデリクは話を遮ってきた。これからが盛り上がりどころだったのにと、不満そうなルーリスの様子に、ため息を吐く。
「紛らわしいことを……いや、俺もそんなはずは無いと思ったんだが、立場上確かめないとならないので、どうかご容赦いただきたい」
ラグデリクの謝罪は主にユーダミラウに向けて、だ。ユーダミラウは気にしてないようと軽く答え、肩をすくめた。
「もし悪いと思ってるなら、あとを任せてもいいかな。僕、行かなきゃいけないんだ」
「俺が……? いえ、俺でよければ、引き受けます」
「うん、それじゃよろしくね。ルーリス、さっき言ったところ、忘れないように練習するんだからね」
ひらひらと手を振ると、ユーダミラウの姿は消えた。後に残されたルーリスとラグデリクは、銀色の光の残滓が消えるまで見送って、同時に顔を見合わせた。
「じゃあ――」
「それでは――」
同時に口を開いて、押し黙る。無言の譲り合いの果てに口を開いたのは、ラグデリクからだった。
「守護精霊殿のようにうまく教えられるかはわからないが、再開するか」
「はあ……あの、隊長、お仕事はいいんですか?」
「見習いの面倒を見るのも俺の仕事だからな。で、次はどれを練習するんだ」
それ以上ルーリスの異存を聞く気はないとばかりに、ラグデリクは椅子を引き寄せて腰を下ろした。本日の教本となった恋愛小説を険しい顔で捲って、早くしろと急かしてくる。
「えっと、じゃあ、ここからで」
これは上司の命令だからと自分に言い聞かせて、ルーリスは続きを示す。ラグデリクは、ユーダミラウのように物語にいちいち突っ込むようなことはしなかったが、読み進める度に「ややこしい……」とぼやいていた。
(男の人が読む物ではないからねぇ……)
それでも真面目に教えてくれようとする態度に、申し訳ないと思いつつもルーリスは口元が緩むのを押さえられなかった。
「何を笑っている」
「笑っていません」
「嘘つけ。我慢しないで笑え。俺だって、まさかこんな本を読むことになるとは思わなかった」
「えー、その点は非常に申し訳なく思ってます」
「棒読みになってるぞ」
むすっとして言ったラグデリクだったが、ルーリスが照れ笑いでごまかすのを見て、表情を緩めた。
「……この間は、悪かった」
「へ?」
唐突な謝罪の理由に思い当たらず、ルーリスは間の抜けた返事をした。ラグデリクは珍しく目を逸らして、言う。
「洗濯場の時のことだ」
「あ、あの時の……といっても、すみません、隊長に謝ってもらう理由がわからないのですが……?」
上目遣いで伺いを立てれば、ラグデリクは目を逸らしたまま、ため息を吐く。
「嫌がらせ、って訳じゃないな。お前にそんな芸当ができるはずもないし」
「はあ……あの、あたし怒られてますか?」
「違う。俺が謝っているんだ。どうしてそうなるんだ」
「どうして……でしょう……?」
ラグデリクの態度と口調が謝っているように見えないから、とは言わないでおいた。ラグデリクはもう一度ため息を吐き、ゆるゆると視線を合わせてきた。
「とにかく俺が悪かった。あの時お前は本気でこの騎士団のことを心配してくれていたのに、水を差すようなことを言った。そのことを謝りたかったんだ」
やっと、合点がいった。ルーリスは首を振った。
「あたしの方こそ、何も知らないのに勝手に思い込んで先走ってたから。隊長が釘を刺すのは当然だと思います。殿下にも、もっと周りに気を配りなさいって怒られましたし」
セルマの呆れ顔が脳裏をよぎる。セルマは確かに団員の話を聞けと指示したが、それは真っ向から質問をぶつけることではなく、会話の端々から汲み取れという意味だった。らしい。それならそうと言って欲しかったと、ルーリスは今でも恨めしく思っている。
「殿下に話したのか?」
「あ、あたしが話す前に第六部隊のことはとっくにご存じでした。多分、あたしが知らないこともいろいろ知っているのではと思います」
「そうか……あの殿下なら、そうだな……」
ラグデリクの中のセルマ像をじっくり聞いてみたいが、それよりも先に聞かなければならないことがある。
「あの、隊長……もしかして、あたし、心配掛けてましたか?」
ラグデリクは虚を突かれたように息を飲み込んで、気まずそうに吐き出す。
「心配、というか……少し、きつく言い過ぎたかとは……リームも、あいつもあの時はいろいろ言ってたくせに、お前が落ち込んでるって毎日俺に言ってくるし……あいつだけじゃなくて他の奴も……」
「……」
どうやら一人で落ち込んでいたと思っていたのは自分だけったようだ。ルーリスはもう一度首を振った。今度は、満面の笑みを浮かべて。
「隊長にも、副隊長にも、他のみんなにも心配をおかけしてたようで、ごめんなさい。あたしは大丈夫です」
「そうか」
やっとラグデリクの顔にも笑顔が浮かんだ。ルーリスはその笑顔に勢いづいて、言った。
「はい。それに、あたしはまだ諦めたわけじゃないんですよ」
「……なに?」
「あたしは美味しいご飯を諦めていないって事です」
ルーリスは、机の上に置かれた小説を叩いた。
陰謀の渦巻く宮廷の恋愛小説と、美味しいご飯がどうしても結びつかなかったラグデリクは、再び眉根を寄せることになった。
お読みくださってありがとうございます。
かなり間を開けてしまって申し訳ないです。まだしばらくは本気モードの繁忙期に振り回されております……。




