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 早朝。

 ルーリスは馬小屋にいた。乗馬の練習時間は限られているので、当番がない日には毎朝、砦の周りを駆けるのを日課としている。乗り慣れた雌馬の手綱を取ったところで、ユーダミラウが現れた。


「これから練習?」

「そうよ。殿下から何か?」

「ううん、なにも。僕も着いていこうかな」

「お好きにどうぞ」


 ルーリスは通用口から出ると、しばらくはどちらにも進まずに鞍の上でじっと考え込んでいた。


「……今日は、荒れ地を見に行ってみようかな」

「物好きだねー」


 ユーダミラウは賛成も反対もしない。思ったとおりの答えだったので、ルーリスは手綱を引いて、荒れ地に馬を向けた。すうっと息を吸い込んでから、馬の腹を蹴って走らせる。以前に比べて、随分速く走らせることができるようになったが、ラグデリクに言わせるとまだまだ乗りこなしているとは言い難いらしい。セルマが早く馬を頼んだりしていないと良いのだが。


(馬小屋に空きってあったかなあ……世話もした方がいいんだよね)


 そんなことを考えていると、段差で危うく落馬しそうになった。気を引き締めて、残りの道のりを走らせる。


「今日も荒れてるねえ」


 荒れ地の端に着くと、急に涼しい風が吹き寄せてくる。荒れ地から吹く風だから、荒れ地の中はもっと冷たくて強い風が吹き荒れているのだろう。ルーリスは馬から下りて、ユーダミラウと並んだ。


「邪精霊がいなくなったら、ここも良い土地になるんだっけ」

「そうだねえ……精霊の働きは正しく戻るだろうね」

「それは良い土地になるって事じゃないの?」

「良い土地かどうかは、人間が判断することでしょ?」


 僕らには関係ないよといわれて、ルーリスは黙り込んだ。


「ねえ、ルーリス」

「なに」

「セルマが泣いてたら、ルーリスはどうする?」

「え? 殿下に何があったの!?」


 突然の質問だったが、ルーリスの反応は早かった。すかさず馬の元に走るルーリスを、ユーダミラウは苦笑して止めた。


「大丈夫、何も無いよ。でも、心配するよね。だからセルマも、心配してるよ?」

「……あたしは、泣いてないし」


 手綱をいじる手を見ながら、ルーリス。ちらとユーダミラウを見上げて、付け加える。


「ほんとだからね」


 ユーダミラウは頷いた。


「じゃ、セルマにもそう言っておくよ。王都とのやりとりで忙しくて様子を見に来れないのも気にしてたし」

「あたしは大丈夫。ちゃんと馬の練習もしてるし、字の練習も、宝剣以外の剣の練習も」

「厨房に人を雇うのは諦めたの?」

「それは……いまちょっと……」


 ルーリスは手綱を放して、その場に座り込んだ。ユーダミラウは馬を撫でている。何か言うまで待っててくれるのだろうとはわかるが、なかなか言葉が出てこない。曇った荒れ地の中で影が現れては消えるのを見ながら、ルーリスはようやく言葉を吐き出した。


「……あたしが見たものだけで、判断するなって言われてね」

「へえ」

「騎士団の悪い噂も、全部嘘じゃないんだって」

「ふんふん」

「それはみんな知ってることで、でも止めさせられないんだって」

「そうなんだ」


 ルーリスは息を吸った。息と一緒でないと、言葉が出てこない。


「あたしがしたかったことって、余計なことだったのかなって」


 やっと言えた。ルーリスは抱えた膝の間に顔を埋めた。大丈夫、涙は出てこない。


「どうかなあ。ぼくにはよくわからないけど」


 ユーダミラウの答えは思ったとおりだった。やっばり、自分で考えないといけない。悩みを言えただけでも楽になった。もう帰ろう。


「でも、噂が嘘だと思ったからルーリスはセルマに相談したんでしょ。噂どおりのことがあったとしても、本当のことまで消えちゃうの?」

「それは……」

「ルーリスはコノリゼ騎士団がごろつきばっかりっていう悪い噂を聞いた後に、邪精霊と戦っているって言う本当の部分を見つけたんじゃないの?」

「……うん。でも全部嘘じゃないと、訂正できないって」

「訂正しなくてもいいんじゃないの?」

「え?」


 思わず顔を上げると、ユーダミラウの呆れたような顔がそこにあった。


「悪い噂には嘘もあるんですって言えばいいだけじゃないの?」

「それじゃ意味が無いかも……」

「そうかなあ。中にはルーリスみたいに、見方を変えてくれる人も出てくるんじゃないの? その人が騎士団の厨房で働いてくれれば、ルーリスの悩みは消えるんじゃないの?」

「……」


 ゆっくりと昇る朝日が大地を暖めるように、ユーダミラウの言葉はしみこんでいった。


(そっか)


 当初の目的は騎士団の名誉挽回なんて大層なことじゃない。美味しいご飯が食べたいだけ。そのために、専用に働いてくれる人に来て欲しいだけ。今働いてくれている人みたいに、悪い噂があっても気にしないで働いてくれればいいだけだ。


「ふ、ふふ……」


 自分も、ラグデリクもリームも、なんという勘違いをしていたのか。思い悩んでいたことがバカらしくなって、ルーリスは笑ってしまった。


「そうだったね。ユードもたまには守護精霊様みたいなこと言うんだね」

「僕は正真正銘の守護精霊なんだけど?」


 不機嫌そうに、ユーダミラウ。ルーリスは適当に相づちを打って、立ち上がった。


「うん、そうでした。よし、すっきりしたから帰ろう。朝食に間に合わなくなっちゃう」

「じゃあ、僕はセルマの所に行こうかな」

「後で会いに行きますって伝えて」

「わかったよ」


 ユーダミラウを見送って、ルーリスは馬を走らせた。今なら、もっと速く走らせることができそうだ。馬の首筋をそっと撫でて、ルーリスは囁いた。


「もっと、うまくなるから付き合ってね?」


 ルーリスも馬も心を通じ合って頑張ったのだが、朝食には間に合わなかったことだけを記しておく。


***


 小さくため息を吐いて、セルマは読み終えた手紙をテーブルの上に投げた。勢いがつきすぎて床に落ちるが、構わずに放っておく。


「悪い知らせ?」


 いつもどおり、ユーダミラウはいきなり現れる。セルマは驚きもせずに首を回した。ルーリスは心臓に悪いと怒っていたが、ユーダミラウはノックよりもはっきりと出現直前の兆候を発している。何故、わからないのかが不思議だ。


(環境の違い、かしら)


 守護精霊が現れる前には、周囲の空気が澄み渡る。張り詰めている心を一瞬だけ緩ませるような、そんな微かな感覚だ。ルーリスに緊張感が足りないと言えば、本人は否定するだろうが。


「いつもどおりの知らせよ。お兄様と、お姉様たちから」


 セルマは第五王女だ。彼女の上には王太子である兄が一人と、既に嫁いでいった四人の姉がいる。それぞれ立場は違うが、セルマの身を案じてくれていることは一緒だった。


「まだお城には、なんとか侯爵が居座ったままなんだね」

「陛下がお兄様と合流したそうだから、もうすぐ追い出されるでしょう」


 計画が滞りなく進めば、来月には城の奪還は終わるだろう。事後処理を含めて、セルマが元通りの生活に戻れるのはその次の月以降か。


「前も、もうすぐって言ってなかった?」


 ユーダミラウは手紙の散らばったテーブルに腰掛ける。セルマは落ちていた手紙を拾い上げた。


「ええ。叔父様に味方していた貴族たちの大半は手を引き始めたようですけど、まだ叔父様に勝ち目があると思っている者はいるようですわ。その処理に手間取っていると」


 優秀な兄には珍しく愚痴が書かれているということは、相当煩わしい作業になっているようだ。


「ふーん。降参してもしなくても結果が同じだから自棄になってる?」

「あるいは……本当に陛下とお兄様の守護精霊が邪精霊であると信じている、か」


 ユーダミラウが目を細めたことを、セルマは気配で感じた。既に読み終えた手紙をもう一度眺めて、機会を探る。


「ユード。守護精霊も邪精霊になることはありますの?」

「絶対にないとは言えないね」

「どうしたら、邪精霊になるのかは?」


 そこでようやくセルマとユーダミラウの視線がぶつかった。どちらも、逸らそうとしない。


「……僕の口からは言えないな。誰かがそれを試そうとするかもしれない」

「あなたでもその可能性がありますの?」

「あるよ」


 ユーダミラウは頷いた。躊躇いのない答えに、セルマが微笑んだ。


「気をつけますわ」


 対して、ユーダミラウは顔をしかめる。


「セルマは、どうしたら僕が邪精霊になるのかを知ってるんだね」

「ええ。一つだけ、記録がありましたわ。城の、一番古い記録の中に」

「城のってことは……知ってるのは君だけじゃないってことかな」

「王族なら、城の書庫に誰でも出入りできますから」

「……破棄すべきだよ、それ」

「かもしれません」


 セルマはテーブルの上の書類を片付ける。手紙は畳んで封筒の中へと仕舞い、揃えて重ねる。


「ですが、残してあったのは、単に事実を後世に伝えるだけではなかったと思いますわ」

「記録って、それ以外に他に何か意味があるの?」


 あります、とセルマは答えた。


「二度と繰り返さないための縛めと……救いを求めていたのではないかしら」


 ユーダミラウは肩をすくめた。


「思うのは勝手だよ」

「そうですわね。それでは――勝手に一人で思い込んでめそめそしていた私の精霊騎士はどうなりましたの?」

「泣いてないって言ってたけど?」


 ルーリスの名誉のために伝えてみたが、効果は無かった。セルマは首を振って、指折り数える。


「いつまでもイモの皮を剥いていた、隊長に呼ばれるまで鎧を磨いていた、洗濯に時間を掛けすぎて訓練に遅れた。ここ数日、そんな報告ばっかり。私が何も知らないとでも思ってるのね」

「いつも不思議なんだけど、その報告って誰がどこでルーリスを見てる報告なのさ?」

「それは言えないわ」

「……そう」


 守護精霊の目すら欺く間者の存在に、ユーダミラウは何とも言えない気分を味わっていた。


「それで? ルーリスはなんて言ってましたの?」

「ん? ああ、後で会いにくるって」


 ユーダミラウが答えると、セルマの表情が一瞬、和らいだ。


「後でって、いつですの」

「さあ? 朝食に間に合わなくなっちゃうって急いで帰っていったからねえ」

「……食事を優先するなんて……」

「ルーリスにしたら切実な問題だと思うけど。何ならセルマが呼びだしたら? その方がルーリスも来やすいんじゃない?」


 セルマは悩んだが、最後にはルーリスを待つことにした。


「いえ、もともと、ルーリスが持ってきた問題ですもの」


 セルマは晴れ晴れとした表情で侍女呼び、お茶の用意を言いつけた。


「……ルーリスの問題ね」


 ユーダミラウは、書き物机の上に積まれている書類を見やる。コノリゼ騎士団の抱える問題の数々が、過去から今までの詳細にわたる報告書だ。その上で、ユトーラ公にも打診済みであることも、ユーダミラウは知っている。


「二人とも意地っ張りって事で良いのかな」


 ちょうどルーリスから呼ばれたので、ユーダミラウはセルマの部屋から姿を消した。

お読みいただき、ありがとうございます。

こっちはサブタイトルが数字だけで楽をしています……。

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