15
「ルーリス、殿下がお呼びですよ」
顔を上げると、顔馴染みになった侍女のロビナが戸口で手を振っていた。深い紺色の髪を丁寧に結い上げ、前掛けのついた灰色のドレスを身につけたロビナは、ユトーラ公がセルマとルーリスにつけてくれた侍女集団のうちの一人だ。
「はーい、今、行きます」
返事をしておいて、ルーリスはやりかけの皮剥きを急いで終わらせた。今日はイモではなく、タマネギだ。
「すみません、これ、あとをお願いします」
「はいよ」
隣で一緒に皮剥きしていた使用人のタリーに残りを預けて、ルーリスは前掛けを外した。
「ロビナ、ありがとう。殿下はお部屋に?」
ユトーラ公の居城コヌチカ城にきて十日以上が経つが、親しく呼びかけてくれるのはまだロビナだけだ。年齢が近いせいもあるだろうが、基本的に人懐こい性格のようだ。
「いつもどおり、ね。お茶の支度はしておいたから、あとでお湯を持っていくわ」
「ありがとう。助かる」
セルマは城に来て以来、伏せってしまい、身の回りの世話はルーリスにしかやらせなくなっている。直接剣を向けられて命を狙われたのがよほど恐ろしかったのだろうと、誰もが同情的だ。今もロビナが、顔を曇らせている。
「このくらいなんでもないわ。殿下も、そろそろ元気になってくださるといいのだけど。ルーリスだって精霊騎士なのに、毎日、殿下のお食事まで作って、大変じゃない」
「全部作ってるわけじゃないから、そうでもないわよ」
むしろそっちの方が得意ですとは言えず、ルーリスは笑ってごまかした。
お湯をもらってくるというロビナとは厨房の前で別れて、ルーリスはセルマの部屋に向かう。
「殿下、ルーリスです。入ってもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
ノックをすれば、か弱い声が返ってくる。ルーリスは扉を開け、恭しく一礼した。
「お呼びと聞いて参りました」
「……閉めて。こちらへ」
伏せって閉じこもっているはずのセルマは、長椅子にもたれかかるようにして腰掛けていた。背の低いテーブルの上に何通かの書状が並んでいたが、読んでいるのではなく、考え事をしながら眺めているようだった。
廊下の様子を窺ってから、ルーリスは扉を閉めてセルマの前に立つ。
「……何か、臭うわ」
「あ、タマネギ剥いてたので。殿下、鼻がいいですね」
褒めたのだが、セルマは顔をしかめたまま着替えを命じてきた。仕方なくルーリスは隣の控えの間で着替えを済ませる。衣装箱の中には精霊騎士のために用意された立派な服が収められていたが、ルーリスはそれらに苦笑して、手前の侍女用の灰色のドレスを引っ張り出した。城内で働くための服とはいえ、厨房に出入りしているのでこれさえも本当はもったいないとルーリスは思っている。前掛けをしても汚れてしまうし、野菜や香辛料の臭いも移る。
(何回も洗濯してもらうのも悪いし、これを厨房用にしようかなあ)
本当は自分で洗濯に行きたいのだが、洗い場に向かうとみんな焦ったように洗濯物を奪っていってしまうので、もっと申し訳ない気持ちになるので仕方ない。
「お待たせしました」
着替えて戻ると、セルマはユーダミラウも呼んだ。
「ユード」
「なにかな」
ユーダミラウは虚空から現れると、セルマの向かいの椅子に断りもなく腰掛けた。最近では随分慣れたが、やはり出入り口ではないところから出てこられると心臓に悪い。
「さっきの話をもう一度お願いするわ」
「僕の口から言わないとダメなの?」
「お願いするわ」
一語ずつ区切るようにセルマが繰り返すと、ユーダミラウは観念したようだ。考え事の続きをしたいんだなと、ルーリスは悟った。セルマの視線は既に書状の上にある。
(人が横で話してるのに、考え事ができるって、すごいなあ)
ユーダミラウに手招きされたので、ルーリスは別の椅子を持ってくる。一人立っているのを、ユーダミラウは嫌うのだ。この件に関してはセルマに断りをいれなくてもいい取り決めがされているので、安心して座った。
「えーとね、王様がそろそろ戻ってこられそうだよ」
「王様って、国王陛下?」
「そ、ネイワーズの今の王様。戻ってくるっていっても、こっそり一人だけで戻ってくるみたいだけど」
「えーと……あ、そうか。隣の国にお出かけしてたんだっけ」
国王の出発は、それ自体がお祭りのようだったと覚えている。街中の人間が通りに出て、歓声を上げていた。城での仕事が決まる前だったので、ルーリスも願掛け代わりに国王の見送りに出かけた。守護精霊に一番近い王様なら何とかしてくれるんじゃないだろうかと、そんな一縷の望みを掛けたのだ。
望みは叶ったが、思った方向とかなりずれている。やり直しを要求するには、お出迎えの時に頼むしかないだろうか。
「一人だけ戻ってくるってどうして? お付きの人たちは?」
「さあね。僕もそこまでは分からないな。でも、王様はそろそろ本気でお城を取り戻しに掛からないとマズいんだろうね」
「そろそろっていうか、もっと早く帰ってきたらよかったんじゃ……」
「サスカビオ側から足止めされていると教えたでしょう?」
呆れたようにセルマ。考え事をしているよう見えて、実はちゃんと聞いているから油断ならない。
ルーリスは慌てて口を塞いだ。忘れていたわけではない。ただ、自分の国が危ないのだから、サスカビオの王様にもそう説明して早く帰ってくればいいと思っただけだ。
「もっと早くって意見は僕も賛成だよ。迎えなんて待たずに最少人数で強行突破すればよかったのに。王様にも精霊騎士がいるんだしさ。ね、ルーリス」
「はあ……」
自分とセルマに状況を置き換えてみて、ルーリスは生返事をした。
「え、賛成してくれないの? 簡単でしょ? 僕らの加護があるんだよ? 何が来ても切り抜けられるよ?」
精霊騎士には守護精霊の加護が授けられている。ルーリス自身が体験したように、加護のおかげで何の基礎訓練を受けていなくても危険は察知できるし、凄腕の騎士のように振る舞える――精霊騎士本人は。
「うーん……でも、王様には加護がないから……王様の精霊騎士も、危ないところに連れて行くのはきっとイヤなんじゃないかな……」
王位継承者には精霊騎士のような加護はない。そもそも精霊騎士とは、初代王の護衛騎士が主を助けに行くために加護を受けたことが始まりであるわけだし、王位継承者自身が加護を受けるなら、精霊騎士など不要だ。ちなみに王族が加護を受けられないのは、初代王との契約により国土を守る精霊達と生まれながらに結びついているからだそうだ。
「そこをなんとかするのが精霊騎士じゃないのかなあ。まあ、いいけど」
ユーダミラウは不満そうだったが、それ以上の議論はなかった。
「えーと、王様のことはそれで終わり。王太子の方は、無事に救出されたみたいだよ」
「あ、そうなんだ。よかったですね、殿下」
「ええ」
セルマは再び書状を眺めて思考に沈んでいく。特に喜んでいるようには見えない。
(実のお兄さんの無事が分かったのに、あんまり嬉しくないのかなあ)
ことある毎に王太子を褒めていたから、兄妹仲は悪くないと思うのだが。きっと考え事で忙しいのだろう。
「じゃあ、王様も王太子様も、もうすぐお城を取り戻しにいくんだね。王様、勝てるよね?」
勝ってもらわなければ困る。侯爵から逃げ回る生活は終わりにしたい。
「戦力的には勝てる、らしいよ。ユトーラ公爵はそう言ってた。守護精霊が付いてる時点で王様の勝ちだと僕も思うけどね。――ということで、セルマ」
「なにかしら」
視線を下ろしたまま、セルマ。今忙しいの、とでも続けそうだ。
「君はこれからどうするつもり?」
「私?」
ゆっくりと、セルマは視線を上げた。意外そうな顔で、瞬きを一つ。
「王位継承者を降りることはできないと言ったのはあなたよ?」
「そのとおり。でも、兄と争う気はないと言ったは君なんだよ?」
ユーダミラウはいつも以上に楽しそうだった。そうねと頷くセルマも、ようやく笑みを浮かべる。
(あー……なんだかイヤな予感)
このパターンはよくない。この二人が楽しい事なんて、ろくでもないことに決まっている。精霊騎士を降りられないルーリスは、何度目になるのか分からないが、覚悟を決めなくてはならないようだった。
(お城に来てから平和でよかったのになあ……)
いまさらだが、セルマが伏せっているというのは、嘘だ。
アーセージ伯爵のもとを訪れたときの教訓を活かして、方針が決まるまで一人でじっくり考えたる時間を取るためであり、身の回りの世話をルーリス以外にさせないようにするため、だ。
おかげでルーリスは、『精霊騎士様ともあろう方がこのような雑仕事をなさるなんて』と嘆かれながらも、唯一まともにできる仕事をこなすことができた。ロビナとの会話から、何でもそつなくこなす有能な精霊騎士だと思われているのは、ちょっとだけ気恥ずかしい。
そんな、平穏な日々がいま終わりを告げようとしている。実に残念だ。ルーリスに残されているのは、どんな風に終わるのかを見守ることである。
「ええ、私はお兄様と王位を争う気はないわ」
セルマの決意は変わらないようだ。ユーダミラウは残念そうに首を振る。
「じゃあ元通りの生活に戻る? でもさ、君がどんなに声を張り上げても、周囲はそう見てくれないと思うなあ」
新たな権力を持ったセルマに群がる人間は必ず現れる。ユーダミラウの警告を、セルマは否定しなかった。
「ええ、だから私は別の王位を継承しようと思うの」
「別の? まさか君、別の国の王様になるつもり? それは構わないけど、その場合、僕もルーリスもついていけないよ?」
守護精霊も精霊騎士も、ネイワーズ王国初代王の遺志と共にある。他国で王になりたければ、それらをすべて捨て去ることになる。
「これ以上増えないかもしれないのに、たった二人しかいない味方を捨てる気はないわ」
セルマは言いながら、テーブルの上の書状を一枚、取り上げた。
「私が狙う王座は、ここよ」
書面に書かれた文字を読んで、ユーダミラウは眉を顰めた。ルーリスは冷や汗をかいた。
(よ……読めない……けど言えない!)
今この雰囲気で、『どこですか?』なんて訊けなかった。
ユーダミラウが珍しく険しい顔をしているのも要因の一つだ。
「本気かい?」
「ええ。巷で言われているほど悪くはないようですわ」
「……まあ、そう、かもしれない……悪くはないんだ、確かに……」
「ここに来てからずっと調べていたの。旨くやれると思うわ。手を貸してくれるのでしょう?」
そう尋ねるセルマは、断られるとは思っていない。
ユーダミラウの表情が、緩やかに変わっていく。険が取れて苦笑に変わる直前に、泣きそうに見えたのは気のせいだったろうか。
「しょうがないな-。うん、僕はセルマとルーリスの守護精霊だしね。君が決めた道を一緒にいくよ。ね、ルーリス?」
精霊も泣くのだろうか――そんなことを考えていたルーリスは、急いで頷いた。
「はあ……そうですね……あたしがやることは変わらないでしょうし。あの、それで」
いったいどこの王様になるつもりですかと尋ねる前に、セルマは更に笑顔を広げた。
「ルーリス、私は今日で病人をおしまいにするから、あなたの仕事は変わるわ」
「え?」
「あなた、明日からしばらくコノリゼ騎士団に見習いとして入団してきなさい」
「え……?」
平穏な日々は、どうしていつも度肝を抜く終わり方をするのかが、不思議でならなかった。
ようやく冒頭のシーンにつながった……ここまでお読みくださってありがとうございます!
次は騎士団の方々に場面を全部もってかれないよう、頑張りたいと思います……。




