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「王女様……じゃなくて、殿下」


 アーセージ伯爵家に逗留して四日目の午後、ルーリスはセルマのお茶の準備しながら尋ねてみた。


「いつまでここにいるおつもりですか?」

「早ければ、明日にでも発つことになると思うわ」

「明日ですか!?」


 思った以上に早かった。カップを落としそうになって、ルーリスは急いで持ち直す。伯爵家から借りているティーセットだ。一つ割ったらいくらの損害なのか、想像するのが怖い。


「ここで得られる情報は、ほぼ揃っているから、私の準備はいつでも良いのだけど、伯爵自身がまだ決めかねているようね」

「はあ……伯爵様は何を迷っているんでしょうか」

「私をこのまま手元に置いておくか、それとも送り出すか。あの伯爵にしては珍しく、得られるものを最大限に引き出すつもりのようだわ」

「はあ……」


 話が難しくなってきたので、ルーリスはお茶を出してさっさと引き下がることにした。昨日まではセルマは朝から晩まで侯爵家の人々との交流に忙しく、こうして一人ゆっくりとお茶を飲むのは久しぶりだった。

 自分には分からない難しい事が起きているなら、一人でゆっくり考えてもらおうと、そのまま別室に下がろうとしたルーリスを、セルマが止めた。


「ルーリス、昨日、ポリア様からそこの本をお借りしたの」


 テーブルの上に積み上げられた数冊の本はすぐに見つけられたが、ポリア様が誰なのか思い出すのに、数瞬かかった。


(確か……伯爵夫人、様だったかな)


 伯爵夫人には最初に声をかけてもらったきりだが、二人の成人した子供がいるとは思えないほど、若々しい印象だったのを覚えている。後で伯爵と同い年だと聞いて、さらに驚いた。


「どれかお読みになりますか?」


 もってこいという意味だと思って聞き返したのだが、セルマは束の間、考え込んだ。


「そうね……最初くらいは読んであげても良いかしら。一番上の本だけ持ってきて」


 積み上げられた本はどれも古かった。伯爵夫人が嫁ぐときに一緒に持ってきた本だと、セルマが教えてくれた。何度も読み返された跡が残っていて、大切にされていたことがよく分かる。セルマは優しく表紙を開いた。古い、紙の匂いがした。


「ルーリス、確かあなた、お芝居はよく観ていたと言っていたわよね?」

「え? あ、はい、お祭りの時には必ず観に行っていました」


 王都に移り住んで良かったと思ったことは、祭となればマベーニ一座のような旅回りの芝居小屋がいくつも建ち並ぶことだった。王都には固定の劇場もあるが、ルーリスのような庶民にはのぞき見ることすら叶わない。その点、芝居小屋はルーリスの小遣いでも楽しめる娯楽だった。


「恋愛物が好きだったのよね」

「はい。そのぅ、他はちょっと難しい物が多くて……」


 庶民で一番の人気の芝居と言えば、ダントツで王位継承者と精霊騎士の物語なのだが、実際の歴史背景が絡んで来ることが多い。ルーリスとしてはお芝居は歴史の講釈を聞くとよりは、自分には体験できない恋愛物を楽しむ場所だった。


「『冬鳥』は途中までしか観られなかったのでしたわよね?」


 マベーニの一座に同乗していたとき、そんな話をセルマにしたが、細かいところまでよく覚えていると感心した。


「はい。お芝居が長いからって、前編と後編に分かれてて、同じ一座が別々の小屋を建ててたんです。あの時はお金が足りなくて……」


 流浪の騎士と村娘が巡り会って愛し合うというロマンチックな話はルーリスの心をとても刺激したのだが、当時のルーリスの全財産では、芝居は一つしか観られなかった。来年もまた同じ興行をするという一座の言葉を信じて、前編だけ見に行ったのだ。金を貯めて、まとめて来年観るという発想は、当時のルーリスには無かった。


「この本は『冬鳥』の原作本よ」

「げん、さく?」

「お芝居にする元になった本という意味よ」

「え、じゃ、それにお話しの全部が載ってるんですか」

「そうよ。あなたの言っていた前編は……ここね。『流浪の騎士は霧の立ちこめる朝、別れも告げずに立ち去った』」

「あ、そうです、ケガをしてて、村の女の子が助けてあげたのに、ケガが治ったら何も言わないで出かけてしまうんですよ!」


 騎士のケガは酷く、一命を取り留めたのは娘が献身的に世話をしたおかげだった。騎士と娘は淡い恋心をはぐくむが、騎士には重大な使命があり、旅立たねばならなかった――ルーリスが観られたのはそこまでだった。この後、二人は再会できるのか、二人の運命はどうなるのか、すぐそこの本に全部書かれているというのに、ルーリスは読むことができない。


「『騎士の姿が無いことに娘が気づいたときには、騎士はとっくに遠くに行ってしまった後だった。娘は悲しみ、数日は食事も喉が通らないほどにふさぎ込んだ。そして再び霧が立ちこめた朝、娘は決心した――』」


 ルーリスが読めない本を、セルマはすらすらと読み上げた。ルーリスは両手を握りしめた。次を、早く、是非お願いしますと身構えていたのだが、セルマはそこでパタンと本を閉じてしまった。拍子抜けしているルーリスに向かって、本を差し出す。


「子供でも読める程度に優しい本だから、続きは自分で読みなさい」

「え……」


 受け取った本は、大した厚みもないのにずっしりと重たかった。


「あの……殿下……」

「ねえ、ルーリス。子供でも読めると言っても、それは恋愛小説よ。それを読み上げるって、要するに恋人同士の会話を隣で一語一句繰り返しているようなものよ? そんな恥ずかしいこと、私にさせるつもり?」

「いえ……」


 そう言われてしまうと、そもそも恋愛小説の存在自体が、単なるのぞき趣味に代わってしまうのだが。


「でしたら……会話以外の所、はどうでしょうか……?」

「……」


 セルマが無言で手を出したので、ルーリスは本を渡した。セルマは再びページを捲って、ルーリスを上目遣いに見る。


「最後に私が読み上げた後、娘と娘を慕っている村の青年の会話が延々と続いているわ。その間の会話では無い部分は『娘は言った』『青年は言った』『騎士がそこにいたという記憶だけが、娘を支えていた』」

「……」


 会話部分は読者任せという斬新な物語が誕生してしまった。

 うちひしがれるルーリスに、セルマは本の間に挟んであった紙を引き出して本の上にのせる。


「文字の一覧表と辞書は無くしていないわよね? 他に難しそうな単語はここに書いておいたわ。続き、気になるのでしょう?」

「……ありがとうございます!」


 悠然と微笑むセルマに、ルーリスは歯ぎしりしながら本を受け取った。


(自分は読めるからって! あたしだって、王女様に生まれてたらこんな本くらいいくらでも読めたし!)


 こうなったら、ユーダミラウに読んでもらうしかない。守護精霊なら本を読みくらい朝飯前のはずだ。


「それが読めるようになれば他の本も簡単に読めるわ。全部あなたが好きそうな恋愛小説だったから、楽しみでしょ?」

「え……」


(あれが全部、恋愛小説……?)


 正直にいって、心が躍った。本が読めれば、お芝居が始まるのを待たなくても、好きなときに、好きなだけ、物語の世界に浸っていられるのだ。しかしそれには、字を覚えなければならないという、手強い障害が立ちはだかっている。


(いずれちゃんと勉強すればいいし……とりあえずは)


 午後はじっくり勉強しなさいと言われたので、ルーリスはしおらしく本を抱えて続き部屋に下がった。扉を閉めて、呼吸を整えて、そっと呼びかけた。


「……ユード、いる?」

「いるよー」


 いつもの間延びした声がして、壁際にユーダミラウが現れた。


「どうしたの? 僕に読み書き教えて欲しいとか? 僕の教え方は厳しいよ-?」


 一連のやりとりは聞いていたようだ。ルーリスは『冬鳥』をユーダミラウに向かって突き出す。


「教えてくれるのは後で良いから、とりあえずこれ、先に読んでくれない?」

「僕が?」

「他にいないでしょ。それとも読めない?」

「何言ってるの。人の文字くらい、簡単だよ。なんだったら古王国時代の文献だって読んであげるよ」

「そんなの読まなくていいから、これ読んで」


 だだをこねる子供のように繰り返すと、ユーダミラウはしょうがないなと、椅子を引き寄せた。扉にも壁にも囚われないはずの守護精霊は、やたらと人間くさい動きを好むことに、ルーリスは最近気づいた。宙に浮いていられるのに、椅子だのベッドだのを使いたがるのだ。


「なになに……『冬鳥』? 辛気くさいタイトルだなあ。なにこれ、鳥の話?」

「違う。恋愛小説。そこじゃなくて、こっちの、このページから読んで」

「『流浪の騎士は霧の立ちこめる朝、別れも告げずに立ち去った』? いきなり途中から読んでわかるの?」

「大丈夫だから読んで」

「そういうなら読むけど……『騎士の姿が無いことに娘が気づいたときには、騎士はとっくに遠くに行ってしまった後だった。娘は悲しみ、数日は食事も喉が通らないほどにふさぎ込んだ。そして再び霧が立ちこめた朝、娘は決心した』。へえ、黙って出かけちゃったんだ。ねえ、この騎士ってこの娘の恋人?」

「ううん、ケガをした騎士を助けてあげただけで、まだ恋人同士じゃないの」

「手当てしてくれた人に何も言わないで立ち去ったってこと? それってさあ、僕がいうことじゃないけど、人としてどうなのかな。しかもさ、騎士でしょ。礼節とか、礼儀とか、わきまえてるべきじゃないのかなあ。だいたいこの人、なんでケガしたの?」

「確か主君を守って身代わりに、とかなんとか……」

「ふんふん。その主君ってどんな人なの」

「えーと……」


 結局、夕食の準備をするように呼ばれるまで、ルーリスはユーダミラウにあらすじの前半を語って聞かせていた。お芝居を観たのは去年のことだったので、細かいところは忘れてしまっていたのがユーダミラウには気にくわなかったらしく、本で該当ページを開いて繰り返されてしまった。しかも、本には書かれていない背景の説明付きだった。今、ルーリスは作者以上に流浪の騎士と村娘の人生について詳しくなっているはずだ。


「なるほど、それで黙って立ち去る、か。うーん、仕方ないのかなあ……じゃあ、夜に続き読もうか?」

「ううん……いい……自分でがんばってみる……」


 ユーダミラウが一行ずつコメントするのを聞いていたのでは、どこまでが物語なのかが分からない。頼れる人は他にいないし、気は進まないが、ここは自力で頑張ってみるしかないようだ。


(すらすら読めるようになるのって、いつになるかなあ……)


 積み上げられていた恋愛小説の山を崩す日を夢見ながら、まずは夕食の準備をするべく、ルーリスは部屋を出た。

恋愛小説の朗読って、かなりの勇気が必要だと思うんです……読む方も読まれる方も。

今回もお読みくださって、ありがとうございました!

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