ロードバイクストーリー
冬の朝は冷たい空気を街中が纏っている。
カチッと言う乾いた音とともにシマノのデュラエースと呼ばれるビンディングペダルに右脚のシューズのクリートが収まる音が響く。
少し年式は落ちるが、それでも少なくとも僕にとって最高の仕事をしてくれる相棒。それがこのイタリア製のロードバイクだ。Wilierというブランド名が大胆に力強く施されて居る。
サドルに腰を据える。
エンジン付きの跳ね馬とは違うが、十分に暴れ馬であり、これからこの社会を颯爽と駆けて行くにふさわしい佇まい。ワクワクし惚れ惚れする。
カチッ。左脚のクリートもスムーズに収まった。人馬一体。
少し走り出す。
首にはネックウォーマーを装備し、全身を低気温対応のパールイズミと呼ばれるサイクルウェアに決め込んだ。しかし全く機能していないかのように、刺すような冷気が躰全体に襲いかかる。
キャットアイのサイコン表示は25キロ。AM6:40。
しばらくはこのペースで行こう。
25歳のフリーター、ロードバイクを買う。僕にとってはセンセーショナルかつエモーショナルな衝動だった。
運動経験も乏しくタバコと毎日のビールのせいで弱り切った心肺。充実の真逆に居るような平たく筋肉の薄い躰付き。腹周りは充実。これらが全てを物語るように何をやっても、どう転んでも上手く行かない人生を歩んで来た。
少し走る。時速25キロ。躰はまだ温まらない。
こうして跨っている自転車との新しい時間が訪れたのも決して明るいものではなかった。
それまで乗っていた大きめのスクーターはホンダ製、流行初期のPCXと呼ばれる125ccの小型バイクだった。
いつも通り会社に向かう道すがら、僕はこの元愛車と共に、車に突っ込まれるという惨劇の主役となる。
骨の太さには自信があった。だが、惨劇から一寸、立ち上がろうとした時に脛がもう一段角度を付けて逆に曲がると共に、一気に脚の筋肉が縮み上がる感覚を目の当たりにした。
速度を上げる。30キロ。少しだけ踏み込む。鈍痛が右脚の甲に少し出始める。
痛みが頂点に達すると、「痛い」という感覚が消え去り、新しく「哀しい」という感覚が登場する事を知る。そして、目を瞑る度に違う場所場所へと移動する、「現世から逃げる術」を脳の中から見つけ出す。元愛車はライトを含め、前方のパーツが消え去っていた。
コンビニに到着。左脚、右脚の順番にビンディングを外し、ロードバイクから降りる。
流行りの100円ホットコーヒーを両手に宝物を手に取るように抱え、ロードバイクの前に座る。
喉を通り、胃に収まる。
そのまま、まだ温まり切っていない全身に保護膜のように広がり渡る。
大きく深呼吸。太陽はギリギリのところで顔を寝かしたままで居る。
さあ、出発しようか。