ジャンルを絞ることって、必要なんでしょうか。ひとつの作品の中にいろいろ要素があったって、いいのではないでしょうか。
私の中でどういう気持ちで小説を描き始めたかと思ったかと言うと、やりたいことをやるためです。
やりたいことというのは漠然としている表現ですね。でも私は限定なんてできないんです。
私の作品群に触れた方は分かると思います。私は、ジャンルを全くもって絞っていません。多くはコメディ的な展開で始まるか、コメディの皮を表一枚被っておりますが、読んでいくうちにホラーに変わったり、サスペンスが混じったり、アクションになったり、人情噺になったり、かと思うとまたぶち壊して全部笑いに昇華させる。何がやりたいのかわからないという方も多いと思います。
一言でいえば、私はそういうジャンル分けだとか、ひとつのジャンルを真面目に書くということがただ単にやりたくないんです。
型に嵌りたくないというんですかね。
でも、それってそんなに駄目なことですかと言いたいんです。
ジャンルは絞ったほうがいいとか言われるんですけど、私はそんなものやりたくないんです。
映画を見れば分ります。様々なあらゆるジャンルの側面を共存させておもちゃ箱のような作品を作り上げるということが可能だということを。ハリウッドのアクション映画を見たことがあるなら、ハッとさせられるはずです。
ことの発端は、冴えない主人公が大学でいじめられて孤立する。バスケットボールを渡されてダンクを決めてみろと言われて、それができない。そんな彼は研究所に忍び込んで一匹のクモに噛まれてから、クモの糸を出してビルの間を飛び回るようになり、やがては緑色の怪人と激闘し、ヒロインと恋に落ちる。もうここまで言えばスパイダーマンなのですが、ここにどれだけの要素が詰め込まれているか考えてみてください。
怪人と激闘するからアクションです。そこは間違いないですが、そこだけですか?
主人公は初めは冴えない男なんです。ドジだって犯します。スパイダーマンになっても、ウィットにとんだ台詞を放って、笑いを誘います。そしてヒロインと恋をするんですから、恋愛の要素もあります。さらに敵との攻防は、上空から忍び寄る戦法などは角度を変えればホラー要素のような造形もできます。
バットマンビギンスでバットマンの戦闘を敵側の視点から捉えたシーンがあるのですが、そこでは正義のヒーローバットマンではありません。背後から忍び寄る怪人「蝙蝠男」と言っても過言ではないくらいの演出でした。さらにこれがボーンアイデンティティのようなスパイ映画だったら、消された記憶のミステリー要素も出てきます。
悪役の思惑が猟奇的で嫉妬に溢れている者ならば、サスペンスとしても見ごたえがあるものにできるでしょう。また、コメディ作品では、最後感動で締めるものも多いです。ここまで来れば、ジャンルを絞る。ジャンルを分けるという行為がいかに無駄なものかわかると思います。
すべてはエンターテインメント。つまりは読者あるいは聴衆の心を揺さぶり、笑わせ、ときに怒らせ、泣かせ、楽しませる。喜怒哀楽のためにあるものなんです。わたしがやりたいのは、ズバリそれなんです。
自分の中で一番この試みに成功しているのは、短編16ブルーバードかなと考えております。
ブルーバードは、主軸となっているのは主人公のアズナとハワードのラブストーリー、国の革命とすでにふたつあり、革命という目的に向けて物語が進む中で、恋愛の要素と革命を阻止せんとする政府側との攻防、つまりはアクション要素が入ります。さらには政府が革命をされるにあたる背景として、理不尽な差別政治の描写。そして、政府が革命派に回していたスパイの判明など、ミステリー、サスペンス要素も混じっています。かと言って真面目なだけでは読者は疲れるので、会話のところどころに和めるコメディ要素を入れて、緩急をつけています。
この多角的な要素が、私の作品群の最大の特徴だと言いたいです。
さらにもうひとつ特徴をあげるならば、名言、迷言、長台詞です。
前々から言ってるんですが、私の小説は小説らしくない小説なんです。小説じゃないと思います。戯曲か脚本かといったところです。その小説という枠から逸脱させているのは、この名言、迷言、長台詞だと思っています。
これには、私の愛してやまない銀魂の影響が大いに溢れています。
銀魂は私の創作の上での教科書みたいなものです。この作品も、コメディからシリアス、アクション、ハードボイルド、ホラーなど作品全体の雰囲気が目まぐるしく変わるのが特徴です。それが原因で、本当は何がやりたいのと言われているところもある種のシンパシーを感じます。そういう人には言ってやればいいんです。「なんか文句あっか?」って(笑)。
銀魂の大本は時代劇とか大衆演劇にあるんじゃないかと個人的に思っています。まあ、なんちゃってSFお江戸人情と空知先生も言ってるぐらいですから大方外れはないです。時代劇には、啖呵を切るという場面が必ずと言っていいほど存在します。
要するに、「この世に悪の栄えた試しなし」とバシッと言い切るような場面ですね。作中でも啖呵を切るシーンは、刀をばりっと身構えて名言をバシッと言い放ちます。
他にも銀魂には決めるときには決める名言というものがいくつもあります。
それから映画の数々にも。そして長台詞というのも、映画、ドラマ、舞台では見せ場として描かれます。
これは小説的リアリティからすれば相反するものだと思います。何故ならば、よっぽどアウトローな世界を生きていない限り、啖呵を切るということはしないですし、日常会話で決め台詞や長台詞をつらつらと述べることはまずないです。それらは所詮作られたものであって、自然なものではないです。ですので徹底した純粋な小説ではまず使われることはないでしょう。でも私がやっているのは、エンターテインメントなんで。
ケレン味という言葉をご存知でしょうか。リアリティだけが全てではなく、作られた、不自然な雰囲気をわざと持たせるといったものです。先程の「この世に悪が栄えた試しなし」。この言葉ふつう使います?使わないと思います。でも時代劇で、主人公が言うかと言われたら、言ってもおかしくないと思います。そういうことです。私の作品のセリフはそう言ったケレン味に溢れています。
また、そう言った側面にこだわるのは、私がこだわりを持つ部分が、配役、演出、構成というところにあるからだと思います。エンターテインメントというのは、量産されていますが、かなり奥が深いです。それがこの3つの要素が大きくかかわっているからだと考えています。
まずは配役。これが一番重要です。要するに登場人物です。登場人物の人格の組み合わせです。登場人物の性格の組み合わせにはある種のテンプレート、バランスといったものが存在します。例えば考えてみてください。あなたはハッピーエンドな物語を描きたいです。でも最初は、主人公はネガティブでうじうじした人にしたい。まあ、それはいいでしょう。次に他の登場人物をどうしますか?またネガティブな人にしますか?内気な人を増やしますか?ネガティブで陰湿な人に主人公を取り囲ませますか?多くの人は、そんなことはしないですし、何を当たり前のことを言ってるんだと言いそうですが、これがどれだけ重要なことか。最後にハッピーエンドを迎えさせたいのなら、ネガティブな主人公を激励してくれるポジティブな誰かが必ず必要なんです。他にも、組み合わせというものはいろいろ考えられますし、少人数なら簡単ですが、最も重要なのは、作品全体を総括したときに、配役に過不足がないかということですね。これはなかなか難しいところです。もっとも単純にして、物語を組み立てるときにまず考える部分です。ここでつまづくと、いくら文章が精巧でも、その作品はいびつなものになっていしまうと思います。だからこそ重要なんです。
次に演出。これは、かなり力量というかセンスが試されます。同じ意味を持つシーンでも演出を変えるだけで全然違うんです。演出は情景とかが含まれますが、情景描写だけではなく、婉曲や暗喩も入ってきます。そしてここは恐らく、小説ならではの脚色が最も可能な場所だと思います。情景描写は映像作品でも工夫すればできます。ですが、暗喩・婉曲はかなり映像作品で表現するのは難しいでしょう。わざとぼかすというか、煙に巻くような箇所は文字だけの媒体が優位に立ってくるかもしれません。ただ映像は視覚の操作ができるので、それを生かせばかなり表現の幅は広がりますね。話が横道にそれましたかね。演出はそのシーンが持つ意味をどう伝えるかということです。相手を激励するシーンでも、相手を言葉で諭す。背中を押すような発言をする。いっそのことビンタする。ビンタした手が真っ赤にはれ上がっていたとか。ビンタした本人がされた人よりも泣いていたとか。そういう描写を入れたりすることによって登場人物同士の関係や伝えたいことの意味合いが変わってきます。
ここからさらに解釈を大きくしたのが構成です。大まかには先ほどの演出とほぼ同義ですが、さらに作品全体にある対比などが入ってきます。また同じシーンを誰の視点で描くか。あるいは複数の視点で描くことによって、同じシーンに別々の意味を持たせるだとか。演出は演出でも、一つ一つのシーンではなく作品全体に関わるスケールの大きさを持つのが構成です。
この3つの要素は、エンターテインメント作品において最も力を入れなければいけない場所だと考えております。私自身が出来ているかはさておき。
ここまで読んでくださった方なら、私が目指すところが分かったと思います。恐らく、賛同者は少ないような気は致しますが、それでも私はこの姿勢を貫く気でいます。
ご意見があればコメント歓迎いたします。ではでは。