九州飛行機物語 ---空技廠との駆け引き---
WW2末期 米軍の侵攻でサイパンを失った日本は南方の制空権のほとんどを失った。
サイパンの飛行場から出撃した米国の戦略爆撃機B-29の行動範囲に日本の多くの都市が入り、
連日 爆撃にさらされることになった。
陸海軍の戦闘機が迎撃にあたったが、日本の戦闘機は低空や中高度では性能を発揮できるが
B-29が進入する高高度での戦闘は困難であった。さらにB-29は防御性能が高く、既存の機関銃では
小さな穴が空くだけで撃墜にならないことが多かった。
対爆撃機に特化した強力な迎撃戦闘機が求められたのである。
航空戦闘の時間は瞬間である。短時間に多くの質量の弾丸を敵機に投入することが求められる
海軍の空技廠の鶴野大尉はエンテ型と呼ばれる、エンジンと主翼が後方にある航空機を研究
していた。エンテ型だと前方に機関砲を集中して配置できるので強力な打撃が期待できた。
模型を使った風洞実験の結果も良好で、実験機を作りたいと鶴野大尉は空技廠長に申請書を
出した。
海軍の空技廠は横須賀鎮守府司令長官の下にあって、航空関係資材の開発や研究をしていた。
実戦で華々しい活躍ができる現場の将官たちとは異なり、裏方なのだ。
陸軍・海軍は大日本帝国政府の中でも大きな省庁なので出世の競争は厳しい。
上にあがるほど権力・名誉・お金が付属しているので熾烈な戦いである。
組織は昇るほど人数が少なくなるのが一般的な組織であり、出世競争から排除された
人達も有能である事に変わりはない。
日本の官庁では一人が出世すると同期は勇退するのが組織の明文化されない
ルールが存在する。
研修なしで組織を運営できる人材は民間会社はいくらでも欲しいし、発注先である
官庁から天下りは複雑な受注業務を簡略化できることも多い。
昔からある大きな造船所や兵器工場は関連官庁である陸海軍からの天下りは当然で、
昭和になってから急激に拡大した航空兵器業界も新たな受け皿となった。
日本で一流とされる零戦を開発・製造した三菱、隼作った中島製作所には発注先である
海軍や陸軍から多くの人材が移動した。
二流の航空機メーカーである愛知や川崎も同様である。
空技廠が研究機関としても健全な組織として拡大するには、人材の入口出口の拡大が必用である。
既存の造船所や兵器工場・航空関連産業には入り込む隙間を探す事が困難なので、組織を維持
発展させるためには新たな介入先を探すしかない。
活性化した組織を作るのがトップである空技廠長の仕事なのだ。
戦争末期であり、既存の航空機製造会社は、連日の爆撃で疲弊しながらも生産を続けることで
手がいっぱいであった。
福岡にある新鋭の航空機製造会社である渡邊鉄工の子会社(九州飛行機)に目をつけた。
九州飛行機香椎工場では、零式三座水偵や対潜哨戒機「東海」の製造をしていたが 雑餉隈
(ざっしょのくま)の九州飛行機本社は練習機製造が主であった。操縦士の予科練から
次のレベルである飛行学生養成練習は燃料不足の為中止となり、練習機の需要は少なくなって
いたからである。
空技廠長は九州飛行機の渡邊社長に新機種試作の打診をおこない、開発担当の鶴野大尉を
派遣することにした。
戦闘機製造ができることは 九州飛行機が一流の飛行機工場として世間にアピールできるという
渡邊社長の夢でもあり、全社をあげてとりくむことになった。
鶴野大尉の新機種に対する意気込みと、渡邊社長の葛藤は前文で述べた。
空技廠長も遊んではいない。組織拡大に邁進した。
第十八試局地戦闘機(震電)が初飛行をしたとき 九州飛行機の創業社長で
ある渡邊福雄は九州飛行機の会社組織から外れ 傍系の九州兵器の社長になっていた。
取締役の過半数は海軍将官や予備役が占め、工場長や幹部も多くが空技廠から派遣された。
新機種を短期間で完成させ、日本防空を成功させるためには 海軍空技廠が直接介入する
ことが近道だと信じていたからである。
会社の乗っ取り? なにをおっしゃるウサギさん。爆撃で多くの死傷者があり、貴重な
日本の産業施設が灰燼に帰すことを防ぐなど 人命第一ではありませんか?
日本防空を成功させる戦闘機を短期間で完成させるためには海軍の根回しが必須ですよね。
現場に海軍や空技廠からの派遣なしでは戦局に対応は不可能だと思いませんか?
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ひさしぶりに覗いたら、「震電」の設計を担当した鶴野大尉のことをもっと詳しく述べて
欲しいというご意見がありました。
鶴野大尉の上司である 空技廠長の「震電」完成にかけた意気込みを書いて見ました。
童話と合体させる予定でしたが・・・・・・愛想なしで すみません