表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

第一話 古文書

 薄っぺらな窓硝子の外では、狂ったように嵐が吹き荒れている。日当たりのあまり良くないこの四畳半も、今日はいつもより肌寒い。

 ここへ来て、もう三ヶ月ほど経った。


 大学進学を機に一人暮らしを始めた。ほとんど家出同然の引っ越しだったが、幸いなことに安い部屋を貸りることが出来た。大学にも程近く、静かで落ち着いた部屋だ。

 会う人皆を失望させてきた自分には、この暗く狭い部屋こそが極楽であった。とにかく出来るだけ人に会いたくなかった。


 先程の落雷でこのオンボロの下宿は停電した。昼間だが、分厚い雲と奥まった部屋のお陰でほとんど真っ暗だ。夏休みなので宿題は無く、アルバイト先も定休日である。実に暇だ。

 ふと図書館で借りた本があったことを思い出し、懐中電灯を点けて押し入れを開けた。すると見覚えの無い本がぱたりとこちらに倒れてくる。

 それは古い和綴じの本だった。元の色は何だったのか分からないほど表紙は色褪せている。題名があるはずの場所は破れ、全体的に黄ばんでいた。

 これはこの部屋の前の住人の物だろうか。ここに来たばかりの時はこんな物は見当たらなかった。どこから出てきたのだろうか。大家に届けるにもここから離れた場所に家があるため、今日外に出るのは億劫である。

 暇を持て余していた自分は、この古文書らしき本を翻刻してみようと思い立った。早速参考書と辞書、筆記用具を用意し、木綿の手袋をはめて表紙を捲った。

 どれだけ頁を捲っても白紙である。

 奇妙だ。これほど古い本ならば何かが書かれていて然るべきだ。特殊な例なら、炙り出して文字が出るものや、反対に水に浸けて読めるようになるものもある。だがよく分からない内にそれらを試して本を傷めてしまうと取り返しがつかない。

 やはり下手なことはせず大家に預けようかとぼんやり考えていると、視界の端から赤が広がってくる。最初の頁に血が染みていた。指を見ると、手袋ごと大きく裂けている。

 こんな古い紙でも指を切るとは予想外だった。他人のものを汚してしまった焦燥に駆られ、染み抜きをしようと急いでティッシュペーパーを取るが、また頁に目を戻した時にはもう染みは消えていた。そして、先程までは無かった赤い流麗な文字が表れていた。 

 『墨をお持ちでいらっしゃれば、ここに垂らして頂きとう存じます。』

 心臓にいきなり氷水を流し込まれたような気がした。速くなる鼓動が苦しい。視界に黒い斑点が増えてゆき、自分は半ば意識朦朧とした状態で愛用の書道道具を取り出していた。

 一際大きな雷の音で正気に戻った時にはもう、墨を擦って打ち濡らした筆から、ほたほたと頁に墨が落ちていた。墨はまるで魚が泳ぐようにすいすいと動き、赤い文字の隣にふわりと文字になってゆく。

 『ありがとう存じます。これは良い墨ですね。水も柔らかいです。』

 自分は寝ているのだろうか。これは自分の突拍子もない夢なのだろうか。

 ぼんやりそう考えていると、傷に激痛が走った。しかしそれは一瞬のことで、いつの間にか傷跡すら無くなっていた。

 『夢ではございませんよ。手荒なことを致しまして申し訳ございません。ですがあなた様のお陰で物語が始められます。ああ、この本もこれほど若返ったようになったのは何百年ぶりでございましょうか!』

 いつの間にか本は美しくなっていた。表紙は山を流れる清流のような涼やかな色、頁は真っ白で柔らかな紙になっている。よく見ると料紙装飾が施されているようで、角度を変えるときらきらと花鳥風月が煌めいた。ボロボロだった先程とは全く違うが、題名は未だに無かった。

 『喜んで頂けたようで何よりでございます。あなた様には感謝の言葉もございません。』

 これは何だ。訳が分からない。

 『これは失礼致しました。私は……どうぞ語り部とお呼び下さい。この本は長い間、読み手に飢えておりました。どうか憐れにお思い下さるなら、何卒お読み下さい。』

 美しい少女が儚げに微笑んだ。新雪のように白く長い髪、柘榴のように赤い相貌、夏に合う襲の十二単を着た、十代半ばほどに見える少女だった。

 『お許し下さるならば、あなた様の御名前をお聞きしとう存じます』

 そこで自分は名前を言ったのか、言わなかったのか分からない。気が付けばそのような少女はおらず、美しく不思議な本が文字を綴り続けていた。あれが語り部の姿だったのだろうか。

 唐突に、自分は人と話しているという事実が恐ろしくなった。この奇妙な本よりも、何よりも恐ろしかった。もう誰も傷つけたくなかった。

 『……お可哀想に。大丈夫でございますよ。私はお辛い人生を歩まれたあなた様を先程の以外は傷つけは致しません。傷つけられもしませんとも。そうですとも。どうかご心配なさらず。』

 その言葉で、自分は思いの外安心したようだった。落ち着いて文字を目で追える。


 誰も傷つけないならば、自分のことなどどうでも良い。


 『……私は物語の間、口調を変えますが悪しからず。それでは始めます。』


 『これは、あなた様の世界とは異なった、とある日本の話。』



 ひとまず物語の導入です。短くてすみません。

 プロットはある程度出来ているので、これから少しずつ投稿していきたいと思っています。時間がかかってしまうかもしれませんが、よろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ