あなたに微笑む
とある田舎にある小さな山。そこには小さな廃れた公園があり、一本の山桜が自生していた。
いつからであろうか、山桜に意識が宿ったのは。
山桜は寂れた公園の錆びた遊具や雄大な雲、他の木々たちを眺めながら日々を過ごしていた。
冬は純白の雪を積もらせて、春は雪と見紛うばかりの白い花を咲かせる。
夏は降り注ぐ太陽の光を辟易し、秋になれば枯れ葉を乗せた風を受ける。
著しい変化は無く、ゆっくりとした時間の流れを、山桜は感じていた。
ある年の春、穏やかな女性の声が聞こえてきた。根元の方へ意識を向けると子供を抱いた女性が立っている。
散歩だろうか。
「ほら、満開だよ。綺麗だね」
女性の言葉に子供は顔を綻ばせる。
しばらくの間、親子は山桜の根元に腰を下ろして、錆びた遊具や雄大な雲、他の木々を見ながら過ごした。
子供はまだうまく喋ることができないようで、母親の指さす方を見ては、あー、うー、と笑っていた。
「さ、そろそろ帰ろっか」
母親はそう言って子供を抱くと帰って行った。
長い時を過ごしてきた山桜にとって、ほんの一瞬の出来事だったが、母親の言った『綺麗だね』という一言が無性に嬉しかった。
だから、風に身を委ねて少し多めに花びらを散らした。「さようなら。また来てね」という想いを込めて。
○ ○ ○
春に花を咲かせ、夏には青々とした葉で光を受ける。秋の枯れ落ちた葉は大地の肥やしとなり、冬の寒さをしのぐ。
最後に人が訪れて幾年が経ったであろうか。長い時に身を任せる山桜には判らない。
山桜の根元に一人の少年が立っていた。学生服を着ている。
会った覚えなど無いけれど、山桜は不思議と少年に懐かしさを感じた。
「……ここで、母さんと花見をしたのか」
満開の花びらを見上げながら、ぽつりと少年が呟いた。その言葉を追うように少年の頬を涙が伝う。
「うっ……母さ、ん…………母さん……」
一度言葉を溢してしまった少年の涙は止まらない。しかし、それでも少年は山桜を見上げている。いや、もしかすると桜の向こう側に広がる青空を見ているのかもしれない。
山桜は戸惑っていた。見知らぬ少年が泣いているのだから。
けれども山桜には少年を抱きしめる腕も、優しい言葉を紡ぐ口もない。迷った末に山桜は風に身を委ねた。花びらで慰めようと思ったからだ。
「……綺麗」
どれほどの花びらを散らせただろうか。少年の涙がいつしか止まっていた。山桜の心に安堵がひろがる。
山桜は思い出した。少年はかつて母親に抱かれて、ここを訪れていたことを。思えば確かに面影がある。
「なあ、聞いてくれよ……」
あの日と同じように根元に腰を下ろした少年が、山桜に語りかける。もちろん少年の独り言だが、山桜はしっかりと聴いていた。
少年の母親が亡くなった事を。その母親と最後に交わした言葉から、ここを訪れた事を。本当なら家族で花見に来るはずだった事を、少年は語る。
山桜は相づちの代わりに風を受けて葉を擦り鳴らす。
青く澄んだ空が茜色に染まり始めた頃、少年は立ち上がった。
「さようなら。また来るよ」
いつかの山桜に応えるように、手を上げて去って行く。山桜もあの日を思い出して、また花びらを散らせた。
○ ○ ○
冬を越えると春になる。溶けない雪はなく、咲かない花もない。
少年は青年となり、山桜のもとを訪れた。見知らぬ女性を連れて訪れた。
「この桜?」
「ああ。綺麗だろ?」
「うん、綺麗」
青年は結婚するのだと山桜に語った。肉体労働で腰が痛い事を、彼女が最近料理の腕を上げたことを、嬉しそうに語った。
二人の笑顔は咲き誇る花が霞むほど綺麗だと言うように、山桜は花びらを散らす。
○ ○ ○
また、幾度か季節が過ぎ去った頃に青年はやって来た。少しふくよかになった妻と、その子供を連れて。
母に抱かれた子供は、小さな手をいっぱいに広げて花びらへ伸ばす。それを見て微笑む夫婦の笑顔は、やっぱり綺麗だ。
子供の伸ばす手のひらは、まるで可愛らしい花のよう。
レジャーシートの上でおにぎりを食べ、錆びた遊具で目一杯遊び、他に誰もいない公園内を走り回る。夫婦の子供は、元気に満ち溢れていた。
帰り際、青年は鞄からカメラを取り出した。レンズを山桜へ向けて、一枚。愛する妻と子へ向けて一枚。そして最後に山桜をバックに全員で一枚。
本当に幸せそうだ。
また来てほしいと、山桜は願った。
○ ○ ○
青年は思っていた以上に早く来た。写真を撮った年の秋だ。
作業着を着ている。見慣れぬ男達に混じって、やって来た。
学生服を着ていた頃と同じ顔をした青年は、懺悔するように語り始めた。
「ごめんな……」
青年は山桜を切り倒しに来たそうだ。寂れて人の来ない公園は潰して、この辺り一帯に家を建てるのだと。
青年は反対したが、若い自分の言葉に力は無かったと涙ながらに語る。
何度も何度も、「ごめん」と山桜に謝る青年。
違う。
山桜の聞きたい言葉は「ごめん」ではない。
枯れた葉を揺らして山桜は訴えかける。でも、青年には届かない。
やがて、うるさい音を立てながらチェーンソーが山桜に食い込んだ。
最期に「綺麗だ」と言ってもらいたかった山桜は、枯れ葉しかないんじゃ駄目だよね、と自嘲する。
さようなら。もう会えないけれど、お幸せにね……
○ ○ ○
「じゃあ、ここに置く?」
「うん!」
声が、聞こえる。女性と少年の声だ。
聞き覚えのある声。でも、誰の声だったろうか。
「ただいまー」
「あ、パパだ!」
「こら! 洗濯物を飛び越えないの!」
声が一つ増えた。聞き覚えのある、よく知っている声が。
かつて山桜だったものは、ゆっくりと意識を取り戻した。
見慣れた青空も、錆びた遊具も無い。だが、部屋に入ってきた“パパ”の顔はとてもよく知っている。
「お、そこに写真立てを飾ったのか」
「ええ、家族三人で撮った写真だもの。あなたのお母さんの隣の方が良いでしょ?」
「そうだな。それにしても、やっぱりこの桜は綺麗だな」
「ええ、綺麗ね」
「きれいー」
譲ってもらった山桜の木材で作られた写真立てに微笑みを浮かべる家族。
それにつられて、写真立ても心の中で微笑んだ。
タイトルは山桜の花言葉




