わたしと彼と(上)
セミの鳴き声に、わたしは目を覚ました。八月下旬。季節の変わり目はもうすぐそこまで迫ってきている。このうだるような暑さともそろそろお別れ。
わたしは、枕にしていた資料集を一箇所に積み重ねると、図書館の本棚に一つ一つ戻して回る。
わたしの参加しているサークルでは、毎年秋初めにちょっとした劇を公演することになっていた。そして今回わたしはその脚本を任されている。皮肉なことに、演劇好きが集まったこのサークルでは舞台の上で浴びる脚光に酔いしれた若者達が殆どで、その点評価はされても実際にライトに照らされることのない裏方の脚本を率先して作ろうなんて人はいなかった。
わたしの書いた脚本は、そうやってサークルの審査を通ったのだ。きっと、他に脚本を持ち込んだ人なんていなかったのだろう。
競い合う相手のいないレース。優勝は確実。
それでもわたしは、この脚本に力を入れていた。
このサークルだからこそ、なのかもしれない。脚本家に恵まれないこのサークルでは、過去に多くの人を呼び込んだ先輩方の脚本を使いまわすことも珍しくない。わたしの作った脚本も、またその循環に乗ってゆければいいなと思うのだ。
最後に残った【七人のシェイクスピア】は、劇作家や詩人として有名なウィリアム・シェイクスピアという人物を作者の知識と想像をもって描き上げた一種のオマージュ作品だ。わたしの脚本もシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』に強く影響を受けているところがある。
わたしはそれを元あった本棚に戻そうと背伸びをして、一人寂しく落胆した。本棚の1段目に、――手が届かない。
低身長という密かなコンプレックスがわたしの背中に重く伸し掛ってくる。最悪だ。
そういえば――。借りる時には足元に脚立が置いてあった。だけど、今はそれらしき物も見当たらない。
もしかしたら、他の人が持って行ったのかもしれない。
どうしたものかと頭を抱えていると、いつのまにか両手を塞いでいた本の質量が消えていた。手放した覚えはないけれど、それとなく足元を確認してから頭上を掠めた何かをわたしは見上げた。
「――みずいろ」
窓辺から差し込む光に当てられて薄く透けるそれは、薄地のシャツの袖に見える。袖から胸元、襟元へと順々に目で追っていると、ふいに彼と視線がぶつかった。
「あわっ、ごめん。困ってそうだったからさ。あぁー、……だからそんな怖い顔しないで?」
「いえ、べつに怒ってなんていないですよ。ただ眩しいだけです」
「うそ……本当?」「失礼ですね。それより、ありがとうございます」
彼を見上げたその先から降り注ぐ光に堪らず右手で日陰を作りつつ、軽い会釈をしてみせる。
「ありがたみが……、感じられない」
「そうですかね」
わたしは、とくにそう思わなかった。
「でも、先輩さんが来るなんて珍しいですね」
ここ数年間毎日のように図書館に入り浸っているわたしだけど、彼らしき人物を見た記憶はなかった。いやでも――ここでは読むか寝るかの二択だったわたしが、周りの人を覚えているかはとても怪しいところだけど。
「たまにくるけど。そうだね、君はいつもいる気がするよ」
「本は好きですからね」
「あぁ、そうだね。……これ、シェイクスピアかぁ。今度の脚本、書いているんだっけ?」
彼の視線は一瞬泳いでから、またわたしのところへ戻ってくる。きっとわたしが持ち歩いていた本のタイトルを読んだのだろう。しかし彼が振ったその話題には、当の本人が一番乗るきでない気がした。
「はい。まさかわたしのが、選ばれるなんて思ってもいなかったですけどね」
「そんなことはないと思うよ。ただ俺は演技派じゃないから、また木か雑草か市民Aあたりになりそうだけど……精一杯やらせてもらうよ」
「それじゃ、草木の出番を多めにしてみますね」
「あははー、ありがとう。やりがいがありそうだ」
「いえいえ」
それとなく手を振って、わたしは彼の行動を静かに待つことにした。だけど彼は、たまに微笑むだけで口を開こうとはしない。そうしてお互いに言葉を使わないから、ただただ静寂に包まれた時間だけが流れていく。
普段はまったく気にしないような図書館の小さな雑音が、今ではとてもよく聞き取れる。この空間は嫌いではないけれど、人の行き交う図書館で男女の大学生が向き合ったまま何も喋らない、というのはとても不自然に感じられた。
だから、結局のところ次に会話を切り出したのもわたしだった。
「その、ここでは何なので近くの喫茶店で話しませんか?」
「そうしよう」
彼はぽんっと、一つ相槌を打った。
前回とは打って変わりやんわりとした話になっているでしょうか?
季節は夏の終わり頃。ちょっと時間が飛びすぎているような気もしますが、下の方で前回との話を合わせて行きたいと思います。
それでわ!