彼とわたしの
わたしのしっている彼は、何処にでもいる普通の大学生。同じサークルの、二つ年上の先輩。
わたしが見てきた彼は、誰にでもやさしくて、誰にでも好かれる。いつもいつも会話の中心には彼がいて、そんな時わたしはいつも本を読んでいる。
その日は夏も中盤だというのに空は分厚い雲に覆われていて、サークルの面々も早々に帰る仕度を始めていた。軽く嵐になるそうだよ、と誰かが言っていた。きゃーきゃーと黄色い声で騒いでいるのは女子グループだ。わたしは、静かに本を読むことにした。
朝に母と喧嘩をして、そのまま逃げるように家を飛び出したわたしは、これから来る嵐よりも家で待ち構えている母の怒った顔が怖かったのだ。
誰かが、わたしの名前を口にしていたきがする。すっかり本の世界に浸ってしまっていたわたしは、今部屋に残っているのがわたしを呼ぶ彼と本を読み終わってしまったわたしだけとなっている事に気付いた。あれから何時間たったのだろうか? 壁に掛けられた丸時計を見ようと顔を上げると、彼の体がその視界を遮った。
「なにか?」
我ながらそっけない対応だという自覚はあった。別段彼に嫌悪を感じているというわけではなくて、ただたんにそれが普段の他人に対するわたしの顔であったというだけである。案の定彼は言葉に詰まってか、深く黙り込んでしまった。
その沈黙があまりにも長かったので、わたしは耐え切れずに彼の顔を恐る恐る見上げる。怒らせてしまったのかもしれないと思って、軽く言い訳を考えながら。
小さな椅子に座るわたしと彼とでは、大人を見上げる子供となんら変わりがない。しかし、子供がやっとの思いで見上げた大人の表情は今にも泣きそうな子犬のようだった。
「あっ、えっ――」
「ごめん」
わたしが返す言葉に困っていると、彼はそれをどのように察してか深々と頭を下げた。それでもわたしより頭の位置は高くて、いつも遠くにある彼の顔が今はわたしの目と鼻の先まできている。この空間はとても落ち着かない。わたしは思わず椅子ごと後退りをしてしまった。床を擦る音が静かに響いた。
「……ごめん」
「あ、あのね? 違うの、べつにそういうわけじゃなかったの」
伏せられた彼の顔が今どうなっているのか知る由もないが、その声はいっそう頼りなくなっている気がしてわたしはどういう訳でもない弁解を取ろうと立ち上がった。
「ほら、ちょっとびっくりしちゃったというか、なんというか――ね?」
「いや、さ。本、……じゃましちゃったかなって。だとしたらそんなつもりじゃなくてさ……、悪かったのは俺だよ」
彼はまた「ごめん」と言う。その後に彼が続けた彼なりの落ち度をわたしに説明する過程で、彼はさらに二度「ごめん」と言った。
どうやら彼は、自分が話しかけたタイミングがわたしの読書を邪魔してしまったのだと考えたらしく、さらに言えば数時間前一度声をかけたときには返事が貰えなかったので律儀な事にわたしが本を読み終わるまで待っていたのだという。
あぁ、すべてはわたしに原因があったわけだ。
彼に対する罪悪感がわたしの心をちくりと刺した。過去の自分はすべてにおいて間違った道を進んでいる。正しい道を模索しているのは、いつもいつでも未来のわたしなのである。
でも、なぜ彼はわたしを待っていたのだろうか? ――とくに心辺りのないわたしは、静かに彼の顔を見つめる事しかできなかった。そうしていると、時々彼の顔が迷子になった子犬の顔と重なって見えるから不思議だ。もしかしたら、彼はわたしではなく自分を責めているのかもしれない。普段人間観察を趣味としているわたしには、なんとなくそう見えた。
そうして二人がだんまりを決め込んでいると、窓の向こうで待ちわびたと言わんばかりに夏の雷雲が雷を轟かせた。時計の針は午後七時二十五分を指していて、そろそろ大学も閉まる時間だ。彼とは明日また落ち着いて話す時間を作ればいい。わたしは帰りの仕度を始める前にその旨を伝えると、彼は一つ頷いて立ち上がった。どうやら、彼はわたしを送ってくれるらしい。その日傘を持ってきていなかったわたしは、鞄に入ったノートや本を濡らしたくなかったので彼のその好意に素直に甘える事にした。
人気のない大学は静寂に包まれていて、窓ガラスの向こうから聞こえてくる雨音にどこか切なさを感じる。わたし達の間に会話は一つもなく、大学の門をぐぐった時に初めて彼が口を開いた。
「雨すごいな」
「風も凄いですね」
彼が開いた傘は大きかったけれど、それでこの雨風を凌ぎきれるとは到底思えなかった。わたしは自分の鞄を両手で抱きしめると、「駅前のスーパーまでお願いできますか?」と聞いた。スーパーで傘を買うためだ。彼は今一度頷くと、ゆっくりとした足並みで大学を後にした。
そしてそれは丁度交差点を目の前にした時だった。傘とはなんだったのか、四方八方から叩き付けてくる雨風の前にわたし達は濡れ鼠となっている。横断歩道の端で悠長に赤く点滅している信号機が憎らしかった。
「あの――さ。今度一緒にご飯食べに行かない? 美味しい所を見つけたんだ。あっ、いや、時間が空いてるときでいいからさ。本当いつでもいいから。――もちろん二人で……」
最後の方はなんだかぼそぼそとしていて儚くも吹き荒れる雨風の中に消えていった。
思えば彼のこのよく言えば破天荒、悪く言ってしまえば場の空気をまったく読まない告白はこの時からもう始まっていたんだな、とわたしは思った。
むーかしに作っていた詩が元になってます。個人的になかなかよく出来ていたと思ったのですが、悲しい事に執筆中の一番下に眠っていました…(笑)
なんかもったいないので、このたび普通の小説として書き直しているところです。