その隣で見守るのは騎士
初めて言われたのはいつだっただろうか。
「ミドルネームは、人に教えてはなりません」
自分を育ててくれた乳母の言葉。
「どうして?」
「ミオ様の婚約者、ノア様の生家、ヴェントス家では、ミドルネームを告げることが、そのままプロポーズとなります。つまり、ミドルネームは、一番大切なひとにだけ、告げることが許されるものなのだそうです」
「私もその習慣に合わせるのね?」
「そうでございますよ。流石、ミオ様は賢くていらっしゃいますから、理解も早いのですね」
その時決めたのだ。
ミドルネームは、一番大切な人にだけ渡すのだと。
町に着いて、御者をとりあえず医者に診てもらう。
ギルの応急処置もよかったらしい、どうにか一命を取り留めたようだった。
「妹の家族を助けていただき、本当にありがとうございました!」
そのあと、助けた家族に連れられて、宿についたら、真っ先に宿の主人に頭を下げられた。
「さあ、お部屋に案内します。それと、服もこちらで洗わせていただくので、こちらの服を着ていてください」
有無を言わさず部屋に通され、着替えさせられ、二人同時に、それぞれの部屋から血に汚れた服を持って出たら、一瞬で持って行かれてしまった。
「夏ですから、おそらく明日までには乾きますよ」
にこにこと宿の主人に言われては、レンティシアもギルもそこまでしてもらわなくても良いとは言えなくなっていた。
部屋を二部屋貸してくれただけでなく、服の洗濯代も、その際の新たな服も、ついでに夕食と翌日の朝食まで、無料で提供してくれるということになった。
宿の主人は、妹の命が助かったのだからと、さらに上乗せしようとしていたが、それは流石にレンティシアが止めた。
王女が国民を助けただけで、そんなに礼をされても、正直言って困るのだ。
王女が国民を助けることは、義務なのだから。
「では、夕食のご用意をさせていただきますので、あちらのお席で」
すいていたこともあり、二人が通されたのは、四人掛けの席だった。
レンティシアとギルは、向かい合って座る。
二人の距離は、テーブル分しかないはずなのに、どこか、遠い。
「あの……さっきはありがとう!」
さきほど助けた小さな女の子が、ようやく落ち着いたのか、無邪気な笑顔で礼を言いに来た。
その様子に、ふとほほえましくなって、自分が守った物なのだと実感して、レンティシアもその少女に微笑みかける。
「どういたしまして。お名前は?」
「ミーアっていうの。お姉ちゃんは?」
「私は……シア。シアって呼んで」
視界の端で、ギルがわずかながら動揺を見せる。
それもそのはずだ。
とある理由から、レンティシアという名は、いまはまだ、公にされていないのだから。
レンティシアがシアと名乗る必要はないのだ。本当は。
「シアお姉ちゃん、すっごく強いのね」
目をキラキラさせて、尊敬のまなざしで見つめてくるミーアに、自然と笑みがこぼれてくる。
「私もお姉ちゃんみたいに、騎士になる!」
「あら、ミーアが騎士になったら、お父さんが心配で夜も眠れなくなるわよ」
食事を運んできてくれたミーアの母が、たしなめるように言う。
「ごゆっくり召し上がってくださいね」
そういって、食事を運び終えたあと、ミーアを連れて、二人は席から離れていく。
ギルと目が合い、そして、二人はとりあえず食事を食べ始めた。
「おいしい」
レンティシアは、何度かお忍びで王都に出かけたことはあるが、王都から出てのお忍びは流石に初めてだった。
この宿の料理は、庶民の家庭料理のようなもので、レンティシアにとっては、珍しい者でもあった。
「なんか、幸せそうに食うよな。お前は」
「え? でも、そうね。私、幸せよ。ギルと二人で宿のお料理を食べてるなんて」
「……俺も、楽しいよ」
少しだけ視線を反らして、ギルはつぶやく。
そんな一言をくれるギルは、とても好きだけれど、ずるいといつだって思う。
その一言が、どんなにレンティシアの助けになり、どんなにレンティシアの苦しみになるのか、彼はきっと知らないのだ。
「そういえば……なんでシアなんだ?」
「ああ、それね……」
予想通り、きっちりと突っ込んできた。
本当は、確固とした理由がある。
しかし、正直に彼に言ってしまってもいいのだろうか。
「レンティシアの名も、いつかは世に知られるでしょう。その時に、私が王女だったと気づかれては困るでしょう?」
またレンティシアは嘘をつく。
建前に本音を隠して、そうやって、大切なことは、本人に言えずにいるのだ。
「そう……か」
ギルはどこか納得したような、納得していないような、微妙な表情を浮かべながらも、最終的には頷いてくれた。
ギルとの物理的な距離は、テーブル一つ分。
しかし、彼との距離はどれだけなのだろう。
ギルが騎士になってから、騎士と王女の関係になってから、ギルは一度もレンティシアに触れることはない。
それはレンティシアが、自分の身をきっちり守れて、自分のことはなんでもできて、ギルの世話になる必要がないという、可愛げのない、それでいて、王女としてはとびきり優秀であったということもある。
しかし、きっとそれだけではないのだ。
ギルとレンティシアは、あくまでも騎士と王女。二人は堅実にその関係を守り通してきた。
遠い日のように、ただの幼馴染として、二人仲良く手をつないだりなんかしない。
幼いころの自分が、レンティシアにはうらやましかった。
無邪気に、自分の責務を考えずに、遊んでいた、幼少時の自分が、とても。
「大丈夫か? なんか、手が止まってるけど」
言葉づかいも、レンティシアに対する扱いも、どこか粗雑だけれど、いつだってこうやって気遣ってくれる。
「大丈夫。ちょっと、考え事よ」
その無造作な金髪も、静かな碧い色の瞳も、全てがギルであり、レンティシアにとっては、とてもとても愛おしい。
「ただのレンティシア」
「え?」
突如ギルがつぶやいた言葉に、はっとして顔を上げる。
「お前は言ってただろ? 女王になるために、国を知りたいともいったが、それ以上に、十日間は、ただのレンティシアでいたい。王女でなく、ただ、一人の人間でいたいって」
このわがままな十日間計画をノアに認めてもらった後、ギルに報告した際に、そういえばそんなことを言った気がする。
それは紛れもなく本心だったが、今はそれを忘れていた。
「今ぐらい、忘れろよ。確かに、国を見るっていうのは、必要で、調べることも必要だけど……ご飯のときぐらい、考えるのを止めて、王女からただの一人になれよ」
その一言一言が、自分のためにあるのが感じられて、彼のまなざしが、とても心配そうにこちらを向けられているのを見て、レンティシアは小さく首を振る。
今、レンティシアは、ただのレンティシアだった。
ギルのことを考える、ただのレンティシア。
「……ありがとう。やっぱりギルは……優しいわ」
「ばーか。お前にそんなこと言われると調子狂うんだよ」
ふいっと視線を反らして、それでも心なしか頬が赤い。
王女と騎士の一日目は、こうして終わっていった。