そうして語られぬ歴史は幕を閉じ
「また来てね!」
ミーアが明るく手を振って言う。
レンティシアは、一度、動きをとめて、ゆっくりと微笑む。
「楽しかったわ。ありがとう」
女王になるものとして、出来ない約束はしないのだ。
レンティシアは手を大きく振った。
その手首に輝くのはアクアマリンの腕輪。
もうきっと二度と来ることのない町を眺めて、レンティシアは馬を走らせた。
ギルがその後に続く。
二人は意外にも無言だった。
最後の時を前に、かける言葉が見つからなかったのかも知れない。
ただただ馬を走らせて、初日に来た泉にまでたどり着く。
二人は何を言うでもなく、そこで馬を降りた。
レンティシアが、泉の前に立ち、その隣に、自然な動作でギルが立つ。
そして二人は向かいあった。
「若いうちは、感情に従って生きてみるのもありなんだとさ」
ぽつりと話しはじめたギルに、レンティシアは面白そうに、口の端を吊り上げる。
「へえ……それで? 感情のままに、私を連れて逃げたいなんて思ったことは?」
その答えをレンティシアは知っていたが、あえて問いかけた。
なんとなく、そうすべきだと思ったからだ。
「ないな。お前もないだろう?」
即答だった。
気持ちのいいくらいには。
「……無いわ。物語のセオリーに従うのなら、ここで手をとって、逃げ出さなきゃいけないのにね」
「レンティシアは王女で、俺は子爵家の長男であり、お前の騎士だ。王女と騎士は、最も近くて、最も遠い。それが、俺たちの現実だ」
その碧い瞳には、なんの迷いも見られない。
それは、レンティシアだって同じことだった。 レンティシアは王女なのだ。そして次期女王でもある。
「私は王女として、次期女王として、あなたの手を取れないし、取る気もない。物語のように、都合の良い世界じゃない」
一度そこで言葉を切る。
「たまには都合のいい世界を、夢見させてほしいと思ったりするけどね」
「その先に待つのが幸せなら、な」
「現実的ね」
二人はいつだって、現実的だった。
手を伸ばせば、触れられる距離にいるのに、王女と騎士という立場が邪魔して、それすらも叶わない。
「……それでも、お前が王女でなければと思ったことなんて、数知れないぐらいある」
だから、驚いたのだ。
初めて、歩み寄りを見せたから。
平行線だった二人の距離は、わずかながらに縮まる。
蒼い瞳は、真剣だった。
「帰れば、お前は二十日後に即位式、そのひと月後には結婚。俺は、三か月後には結婚する」
突きつけられた現実は、確かにつらいけれど、それでもレンティシアが受け入れているものだった。
「わがままは、もう、終わりか?」 それでも、そうやって、幼い日のように、挑戦的な笑みを浮かべて、それでも、どこか優しい微笑みで、問いかけられたら、レンティシアはもう、黙ってはいられなかった。
「あなたはずっと傍にいて。私の騎士として。本当の意味であなたと結ばれなくたっていい。ただ、傍にいてほしい。それでも、私は、あなたが、あなたの人生を生きてくれることを望んでる。結婚して、子供ができて……。それでも、私は、あなたに傍にいてほしい。私の、ただのレンティシアの、最後で、最大のわがままよ」
この言葉がどれだけギルを縛るか、理解はしているというのに、止まらなかった。
レンティシアの本心だった。
王女として、ギルと結ばれることは望めない。それでも、ただ、傍にいてほしい。この気持ちだけは、ただ、自分の中で大切にしていたい。
「レンティシア……」
ギルがレンティシアの名を呼ぶ。
それと同時に、ギルはレンティシアの腕を掴んで、そのまま抱き寄せた。
ギルの腕の中で、ギルの体温を感じる。
王女と騎士になってから、一度も触れていなかった二人は、これ以上ないほど、近づいていた。
「お前の最後のわがままに付き合ってやる」
耳元で囁かれた言葉に、もう、泣きそうだった。
「だから、聞けよ」
それなのに、ギルはさらに言葉を重ねたのだ。
「この先、結婚して、そして子供ができたとしても、俺の一番は変わらない。俺にとっての一番は、この先、一生、お前だけだ」
ぽたり。
熱いものが、頬を伝う。
”王女“になってからは、一度も流したことのない涙。
とめどなく流れる涙は、ギルの服を少しずつ濡らしていく。
「……女王としては、あなたを一番に考えるわけにはいかないわ」
声が、震える。涙声が、さらに聞きにくいものになる。
「でもね、ただのレンティシアとしては……」
ゆっくりとギルの顔を見上げて、その碧い瞳と目があった。
「ギルが好き。このさき一生、誰よりも、あなたのことを想いつづけるわ」
レンティシアはゆっくりと瞳を閉じる。
それに合わせて、ギルがゆっくりと近づいてくる気配を感じた。
そして……。
ミオ・シュトレリッツは、シュトレリッツ王国の三代女王として即位し、その後、ノア・ヴェントスと結婚し、三人の子供に恵まれた。
ミオ女王は、シュトレリッツ王国の稀代の名君として、後世に名を残した。
即位前のギルバード・ストケシアとの十日間の国内視察は、ミオが名君となるための通過点だったとして、それすらも彼女の功績として語り継がれることになる。
彼女は国をその目で見て、物事を判断できる女王だった、と。
ギルバード・ストケシアは、彼の功績により、ストケシア家は、子爵家から侯爵家となる。
そうして、ミオ女王の優秀な騎士として、生涯彼女に仕え続けたという。
ギルバードの二人の子供は、二人とも王家に忠誠を誓い、これ以降、ストケシア家は、最も王家に忠実な武家として、シュトレリッツ王国全土に名を馳せることとなる。
これは誰もが知っているお話。
しかしそんな歴史の裏で、誰も知らない十日間がある。
レンティシアとギルの、二人で過ごした十日間は、二人の胸にだけ、生き続けた。
透明な世界をイメージした、ちょっと綺麗めなお話……のつもりです
お読みいただいた皆様、ありがとうございました!




