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若い俺は人間関係について考察する

作者: 手未詞

 眠りから覚めると、視線の先には見慣れた天井が広がっていた。

 俺は筋肉が固まったかのような体の上半身を起こし、畳の上に転がる目覚まし時計を掴む。午前十時ちょうど。今日は日曜日だ。バイトもない。今週もまた、安眠誘発装置が如き授業や、怒鳴るたびわずかに残った頭髪が微かに揺れる、口うるさいバイト先の店長に振り回された。今日くらい、午睡を貪るまで眠り続けても罰は当たらないだろう。そう思って、体温がそのまま移ろったかのような布団を頭までかぶり、再び夢の世界へ誘われるべく、眼を閉じた。


 しかしその時、静寂が包む俺の部屋に、場違いな甲高い音が響いた。俺は反射的に体を起こしかけたが、考え直し再び横たわる。はっは、呼び鈴め。たかだか賃貸物件の備品に過ぎない身分で、俺様の優雅な休息を妨げようとは、恥を知れ! 罵詈雑言を心の中で浴びせつつ、無視を決め込むことにする。新聞か宗教の勧誘に決まっている。放っとけばいずれ立ち去るさ。

 ところが呼び鈴は鳴りやむ気配を見せず、二回目、三回目と続いた。まったく、こんなおんぼろアパートにまでしつこく勧誘活動か。ご苦労さまですこと、と呑気に考えていると今度は扉がドンドン、と鈍い音で叩かれ始めた。そこでようやく俺は、招かれざる客の正体に思い当たった。

 ちくしょう。俺は今日一日ぐうたらに過ごすんだ。貴様ごときに俺の悠々自適ライフを壊されてたまるか。俺は半ばむきになってだんまりを続ける。しかし部屋の中には、無情にも啓太のドスを利かせた声が響き始めた。

「押井基文。そこにいるのはわかっているんだ。大人しく人質を解放し、姿を見せたらどうだ? 田舎の母ちゃんが泣いてるぞ」

 何十年前の刑事ドラマだよ、と無言で悪態をついている最中にも、扉を叩くテンポのいい音と、啓太の声が室内を騒がす。

 五分ほど無言の抵抗を続けた。しかし奴の生み出す騒音が静まる気配はない。知らぬ間に三三七拍子となっていた扉を叩く音が、無性に気に障る。籠城を続けるべきか、はたまた投降するべきかを、思案する。……だめだ。投降するしかないだろう。あいつのしつこさは換気扇の裏にこびりついた頑固な汚れに匹敵する。放っておいたら日が沈むに違いない。俺は休みが一日つぶれる悲しみに打ちひしがれながら体を起こし、玄関まで向かい、扉を開けた。と、待ってましたと言わんばかりの素早い身のこなしで体を室内へ滑り込ませ、啓太は言った。

「本日の田池さんによる一曲は、ドリカムの『決戦は日曜日』です!」

 日曜日じゃなくて金曜日だろ、とか、朝から騒いで迷惑と思わないか、田池さん、というより俺に、とか言い返す気には、もうならなかった。


 啓太が、俺の部屋の隣室に住む田池さんに一目惚れをしたのは、夏が終わりを迎えかけた、三か月ほど前のことだ。

 啓太は呼びもしないのに、しょっちゅう俺の部屋に上がり込んでくる。酒盛りに来たり、サボった授業のノートを借りに来たり、新作のAVを見せに来たり、酒盛りに来たり、サボった授業のノートを借りに来たりと、用件は様々だ。しかし迷惑であることだけはほぼ一貫している。

 そしてその夜も案の定、飲みに来ていた訳だ。啓太は俺の予定も聞かず勝手に部屋に上がり込んできて、勝手にビール缶を卓袱台の上に並べ始めた。話の通じる相手でないことはわかっているので、つべこべ言うようなことはない。しかし俺はその翌日が早朝からバイトだったため、ツルゲーネフの『初恋』について延々語る啓太に「うんうん」と適当に相槌を打ち続け、日付が変わる前には部屋から追い出した。

 さあ、邪魔者はいなくなった。寝よう。清々しい気持ちで俺は布団に潜り込んだ。しかし、それと同時にドンドンと、扉を叩く音がした。全く、さっき締め出したばかりだというのに、懲りずに何なんだ、あの男は。俺は鏡を見ながらできるだけ迷惑そうな表情を作って、その顔のまま、扉を開けてやった。そして同時に啓太は言った。

「おい! お前、隣の部屋、女、それで、ええと……」

「……は?」

 単語続きで支離滅裂な言葉の羅列から、しょうがなく意味を汲み取ってやる。

「ええと、俺の隣室の女性がどうした?」

「だから、その、俺、さっき、見て……その、だから……」

 くだらない暗号の解読に、貴重な睡眠時間を十分も削ってしまった。そしてどうやら啓太が言いたいのは、「さっき、外廊下で信じられないほど美しい女性を見たんだ。それで俺が見惚れていると、なんと、基文……お前の隣の部屋に入っていくではないか! おい、あの女性は誰で、どんな人なんだ! お前の知っていることを教えてくれ! 俺はあの人とどうにかして親しくなりたい!」ということらしい。

 ああ、これが一目惚れというやつか。そんなことを考えながらも俺は、友人の恋路に対する必死さに笑いをこらえていた。

「名前は……田池さん。下の名前はわからない。俺が入居した時にはもう住んでいた。顔を合わせたら会釈する程度の関係だから、彼女について詳しいことは、わからない」

 俺はそう教えてやった。啓太の体がその場に崩れ落ちた。口からは「あああ……」と低いうめき声がこぼれ落ちる。放っておくか、それともこいつの家まで引きずっていってやった方がいいのか、。とにかく部屋の中に入れないためにどうするべきなのか。笑いをかみ殺しつつ、俺はしばし考えた。

 よし、とりあえず家まで連れてってやるか、そしてあとは放置、という結論に行きかけた時、啓太は急に立ち上がり、言い放った。

「基文。俺、お前の部屋から田池さんの生活を紐解いてみる!」


 そういう訳で、その日以来、啓太は今まで以上のハイペースで俺の部屋にやって来るようになった。迷惑極まりない。

「田池さんがドリカムを好きだとは……。ミスチルと宇多田ヒカルが好きなのはわかっていたが……。新発見だ」

 俺の横で啓太が嬉しそうに呟いている。そこで俺は、彼女が口ずさむ鼻歌の話をしているのだということに気付く。

 俺の住んでいる木造アパートは、はっきり言ってかなりぼろい。だから鼻歌なんて、薄い壁から筒抜けで、隣の部屋にいれば丸聞こえ、という訳だ。住んでいる身分としてはこの構造が有難い訳ないが、啓太のように特殊な事例、というか生物には、願ったり叶ったりということだ。

「あのさあ、お前、人の快適な安眠をぶち壊しておいて何ニヤニヤしてる訳? 俺は今日、久々の一日オフをのんべんだらりと過ごそうと思っていたの。そしたらエロ男爵、即ちお前の不快な声が轟いてきたって訳……。お前、人の話聞いてる? ……ていうか俺、前々から思ってたんだけど、お前自分のやってることわかってる訳? これ、いわゆるストーカーだよ。ス・ト・オ・カ・ア! は・ん・ざ・い! 生活音を赤の他人に聞かれて嬉しい訳ないよね?」

 俺は啓太に向かって一気に捲し立てた。しかし啓太はどこ吹く風と言わんばかりに、壁に耳を押し当てながら答える。

「あのさあ、基文くん。俺とお前の仲じゃん? 親友の純真な恋心を応援しようという気はない訳? 部屋にいさせて貰うだけなんだから、ケチなこと言わないの」

 何回聞いたかわからない台詞を再び聞かされ、俺は呆れ返った。俺の口から、溜息がこぼれる。俺はきっと、世界一溜息の似合う男だ。

 横に目を向けると、姿勢を変え仰向けになった啓太が「あああー、セックスしてぇー!」と叫んでいる。どこが純真なものか。というか啓太、向こうの声が丸聞こえということは、こちらの声も丸聞こえだということに気付かないのか? そう思ったが、口には出さない。


 問題の田池さんがどういう人物なのかというと……まあ……かなりの美人である。

 身長は百六十センチ程度。日本人らしい整った顔立ち。肩まである髪は、自然な茶色に染まっている。大所帯のアイドルグループの中にいても、おそらく違和感はないだろう。一目惚れした啓太の気持ちも、わからなくはない……かな。

 年は二十代後半。毎朝七時ごろに家を出る。見かけるときはいつもスーツ姿である。おそらく会社勤めの社会人であろう。

 彼女について予測できることは、この程度である。


 啓太は、俺の小学校時代からの友人だ。啓太は五年生に進級すると同時に、俺の通う学校へと転校してきた。元々明るい性格で、運動の得意な啓太はすぐクラスに馴染んだ。だからあいつはいつも友達に囲まれていたはずだ。が、しかし、数週間が経過したころ、あいつは俺に纏わりつくようになった。

 俺はどちらかと言えば目立たないタイプの人間だ。勉強はそこそこできたが、運動は苦手。学習能力よりも運動能力が羨望の対象となりがちな小学時代には、つまらない人間の代表みたいに見られていたかもしれない。

 そんな俺にどうして、啓太のような人当たりがよく、口も上手い人間が近づいてきたのだろう。きっと、本人もわかっていない。

 自分にとってお気に入りのモノって、みんなそれが好きな理由を言えるんじゃないかと思う。服なら「着心地がいい」、パソコンなら「デザインが気に入った」のように。でも、人間ばかりはそうもいかない。同性とか異性とかじゃなくて、人に対して惹かれるものがあったりする。ただその分、モノよりも裏切られる確率が高い。それが残酷であったり、面白かったりもするのだが。

 その後、俺と啓太は同じ中学、高校へ入学し、卒業した。その間、度重なるクラス替えがあったのにもかかわらず、俺たちは常に、一つの教室に机を並べ続けた。俺は「そんな理不尽がこの善良な社会に蔓延ったままでいいのか!」と、クラス替えのたびに心の中で咆哮し、友人たちからは、この奇遇が原因でゲイ疑惑をかけられた。迷惑千万。行動を起こさずとも俺の心を不愉快にするとは、末恐ろしい奴め。

 そうして今に至る。で、なぜ今、俺の部屋に啓太がいるのかというと、無論、大学まで一緒になってしまったからである。学部、学科まで一緒。俺にとっては合格安全圏内の受験だったが、啓太にとって、俺と同じ大学に籍があるというのは、はっきり言って奇跡だ。全く以て、悪運が強いとしか言いようがない。そして啓太は俺のアパートから徒歩三十秒の下宿に住んでいる。当然、揃えたりなんかしていない。

 つまり、小学校五年生時代から大学二年生の現在まで、ほぼ一緒にいるということだ。因みに今年は出会ってから十周年のアニヴァーサリーイヤー。もしかしたら、俺たちは来世あたりで大恋愛に落ちるかもしれない。まあ、それでもいい。その代わり、現世でもう少し縁浅くしていただきたい。


 一応言っておくと、俺は、啓太とあまり一緒にいたいとは思っていないが、奴のことを嫌っているようなこともない。こんなこと言うのは照れ臭いが、もし、啓太が本当に悩んでいるようなことがあったとしたら、俺に出来ることはしてやりたいと思う。

 でも、それは純粋な優しさとは違う気がする。相手の言動に反応する全てがあたりまえになってしまって、冷めたようでも、温かいようでもある。お互いを空気と認識している熟年夫婦の関係と、何の疑いもなく卒業アルバムに「一生友達だよ」と書ける女の子同士の関係が入り混じったかのようなもの。それはたぶん、大切にすべきものなんだと思う。もしかしたらそう感じるのは、俺がまだ若すぎるからなのかもしれないが。

 もし俺が啓太に対して抱いているものが世にいう「友情」っていう奴だとしたら、こんな不可解なものはないかもしれない。「恋」って、その感情が高まるほど、会いたい、側にいたい、と思う。これはある意味でしごく真っ当だ。でも、そういう意味で「友情」はとても複雑だ。悲しいときや辛いとき、真っ先に友の言葉が欲しくなるとしたら、それは「友情」と呼べると思う。でも、俺が啓太に対して「休みの日まで顔見たくねえよ」と思っていても、それが「友情」ではないと言い切ることはできないはず。

 さらにややこしいことに、男と女の間では「友情」という言葉の意味が違いすぎる。俺の言ったことはたぶん、男にしか通じない。全く以て、人は奇也。


 おい、基文! 田池さんが、たぶん、外出する! 俺……今日こそ後をつけることにする!」

「ふーん……え?」

 トンチンカンな啓太の言葉のせいで、俺はつい、マンガみたいな返答をしてしまった。確かに隣室からは、クローゼットを漁るかのような音や、ハンガーが壁を伝い床に叩きつけられた音が届いてきている。

「追っかけるって……おい! どこ行く? ちょっと待て!」

 言いながら玄関を振り向くと、啓太はちょうどスニーカーの紐を固く結び、ドアノブに手をかけたところだった。普段の横着な啓太からは想像もできないほどの俊敏な動作は、今にも走りださんとする勢いだ。俺の問いかけに応じる気はないらしい。ならば力ずくでと、俺は扉から半分ほど身を出しかけた啓太に飛び掛かった。

「ぎゃー! やめろ、離せ。止めないでくれ! 俺の、この情熱的な慕情を……」

 叫び続ける啓太の体を無理やり部屋の中へ押し戻し、扉を閉める。それと同時に、隣室の扉が開く音がした。扉が閉まり、カチャリと鍵のかかる音と、外廊下の床をコツコツと叩くハイヒールの音がそれに続く。この茶番劇による騒音ばかりは止められなかったが、大の男二人による悲惨な醜態を見られるという最悪の事態は、どうにか免れることができた。俺は啓太に向き直る。

「あのさあ、お前にもう少し道徳観というものはない訳? お前が今日までやってきたことは決して褒められた行動ではないけど、でも俺にだって啓太が少しは本気だっていうのが通じていたから、一万歩譲って黙認してあげてたよ。でも、これで本当に田池さんを付き回したりしたら、お前、本当に気持ち悪い奴だぞ。いや、すでに十分気持ち悪いけど、それに一層磨きがかかる。そのこと、わかってるの? 田池さんのことが本当に好きなら、正面からぶつかっていけよ。本当のこと言って、それから『一目惚れしました! 付き合ってください!』って叫んで来い。それが一番健全なやり方だ。今のお前はただの臆病者でしかない。それに相手の気持ちを少しは考えろ。第一、お前は昔から……」

「うるさい! 人並みの説教なんかいるか!」

 いきなり啓太が叫びだした。突然のことに、俺は一瞬たじろぐ。

「……わかってるよ。俺のやり方は、気持ち悪いし間違ってる。それに俺は臆病者で、俺の心は屈折している。でも、それなら話もしたことないような相手にどうしようもなく恋しちゃって、そんなとき冷静に対処できる奴なんて、どれだけいるんだよ? いや、冷静な行動できたら、それはもう恋なんかじゃない! ……そう決まってる。冷静じゃないんだよ。恋なんかしたら、誰だって。馬鹿みたいに大胆なことができちゃったりするかもしれない。逆に、笑っちゃうほどナイーヴで神経質になったりするかもしれない。……俺の場合、そっちに傾いたってだけなんだ。お前だって、田池さんみたいなすっげー美人の高嶺の花に惚れたら、鼻の穴膨らませた馬鹿面下げて、人のこと言えないような羞恥プレイやらかすんだよ! きっと……いや、絶対!」

 言っていることが滅茶苦茶だ。それに、後半はただの悪口になっている。でも……啓太の気持ちも、少しだけ、わかる。


 異性に対し自分がどれだけ愛情をもっているつもりだったとしても、それの始まりは、どうしても自分勝手な一方通行の慕情になってしまいがちなものではないか。美しいほど汚れた感情が、いつしか本当に美しいものへと変わる。もしかしたら、それが「恋」という奴なのかもしれない。だから、純な汚れを否定する権利なんて、実は誰にもないのだ。

 啓太が田池さんとセックスしたいと思うのだって、本当は全然忌むべきものなんかではないのではないか。好きな相手に触れたいと思うのは、しごく自然なことだ。いたいけな赤ん坊が無条件に自らの母を欲するのと同じで、あまりにも無垢だ。しかしその無垢は、一歩間違えれば、たちまち鋭利な刃物へと変貌する。だから「恋」は時に人を苦しめ、時に恍惚とさせる。


 俺は一つ深い溜息をつき、言った。

「……わかったわかった」

 啓太の横に腰を落ち着け、さらに続ける。

「ごめんなさい。俺の口が過ぎました。反省します。その代わり、啓太君もこれからは健全な青少年らしい行動を心がけてください。健康的に恋してください。あと、できることなら俺の部屋に入り浸るのもやめてください」

「よくわかった。今度から気を付ける」

 絶対わかってない。いつもこうなのだ。俺が説教するとすぐ啓太が不貞腐れて、で、しょうがないから俺が悪者になってやると、すぐ元通りになる。こいつの「わかった」は枕詞だ。「茜さす」と言ったら「昼」が出てくるように、俺が小言を言うと「わかった」と言う。三歳児レベルだ。本当に無駄な会話。成長がない。

 でも、それもいいんじゃないかと思う。お互いを高め合ったりするような熱い関係じゃなくて、くだらないことを言い合って、貴重な若さと時間を無駄に消費する馬鹿馬鹿しい関係も、それはそれで意味がある。「恋」ばかりしていたらきっと、相手に好かれたいとか、そういう思いばかり強くなって、身も心も疲れ切ってしまう。そんなとき、くだらない友達とくだらないことして、「ま、別にいっか」と、そんな気持ちに、ほんの少しでもなれればいい。友達同士で熱くなって、沈みかけた夕日に向かって全力疾走するのも「友情」なら、俺と啓太みたいな怠惰な関係だって、「友情」だ。もしかしたら、「恋」と「友情」って、とてもバランスよくできているのかもしれない。

 もし、同じようなことを啓太が考えているのだとしたら、俺は嬉しい。


「じゃあさ、基文。お前、外廊下でわざと田池さんに肩ぶつけてよ。それで『あ、ごめんなさい。……失礼ですが、隣室の方ですよね? 何とまあ、近くで見るとお美しさが一層際立ちまえね。それと……あなたが持っているその紙袋、駅前にできた新しいケーキ屋のものじゃないですか? あそこの店長、私の友人なんですよ』見たいな感じで無理やり共通の話題見つけて、で、お前が親しくなれ。そして、時期が来たらお前が田池さんに俺を紹介する。『田池さん、こちらは、僕の友人の啓太くんです。高校時代スイスに留学していたバイリンガルで、お父様は資産家で、お母様はデザイナーをやってらっしゃいます。それと、啓太くんは西洋の美術とクラシックにとても造詣が深いんですよ』ってな。どうだ。これがお前の言う『健康的に恋』するということだろ? 俺ってば、どうしてこう、物わかりがいいんだ」

 確かにお前は物わかりがいいよ。例えるなら、不機嫌なアメンボと同じくらい物わかりがいい。俺は心の中で悪態をつく。前言撤回。やはり学習能力ぐらいは向上させねば。

 でみ、啓太……。そんな回りくどいをしなくたって、俺は今すぐにでもお前と田池さんの仲立ちができるんだよ。


 だって、田池さんは俺の姉ちゃんだからな。


 まず、彼女の本当の名前は「田池さん」なんかじゃない。俺と家族なんだから、姓も俺と同じ「押井」に決まっている。「田池」という名前は、俺が啓太から姉ちゃんについて聞かれたとき、「ケイタ」という名前をひっくり返して速攻で考え出した偽名だ。あいつのことだから「俺の名前を逆から読むと『タイケ』になる! これは運命だ!」なんて言ってすぐに騒ぎ出すと思っていたが、気付く気配は、今以て、てんでない。

 姉ちゃんについて俺が知っていることは、当然だが、啓太よりもはるかに多い。第一に啓太へ朗報。現在彼氏ナシ。年齢は二十九歳。血液型はB型。都内の生命保険会社に勤務。趣味はカラオケ。因みに、ドリカムとミスチルのファンではあるが、宇多田ヒカルはたぶん、好きなドラマの主題歌に影響されただけだ。それと……部屋の中は、壮絶に汚い。俺が姉ちゃんの部屋の隣に住んでいるのも、来客があるときに、俺に部屋の片づけを手伝わせるためだ。おれが物件探しをしていたときに、「私の住んでるとこ、安くて駅も近くていいよ。おいで」と言ってきたのは、単なる姉としての気遣いかと完全に油断してしまったものだ。もし啓太が姉ちゃんの部屋に足を踏み入れたら、感動と絶望で卒倒するに違いない。

 俺が今ちょうど二十歳だから、姉ちゃんとは九歳差。啓太が転校してきたとき姉ちゃんはすでに大学生で、東京で一人暮らしを始めていた。だから啓太は俺に姉ちゃんがいることも知らずにいたのだ。

 しかし不思議なものだ。啓太は、会話すらしたことのない俺の姉ちゃんの全てを知りたいと思っている。それなのに、すでに十年の付き合いになる俺の家族構成すら知らない。いや、もしかしたら、姉ちゃんの存在くらいは何気なく話したことがあるかもしれない。でも啓太はきっと、そんなことは気にも留めていない。これが例えば大学で初めて出会った相手ならば話は変わってくるのかもしれないが、近すぎる関係の中では、そういかないこともある。「恋」を自分自身が「恋」だと思っている間は、近い関係になれないということだろうか。

 それにしても人間同士の関係は実に多種多様だ。「友達」や「姉弟」のように一言で説明できるものから、「友達のようで友達じゃない知り合い」とか「付き合っているのかどうかよくわからない異性」みたいなものまで。そしてそこに、「好き」とか「嫌い」とか「好きとは一概に言えない」といった感情が加わる。

 でも、一方通行の思いで成立する関係は「恋」だけだ。

 啓太が姉ちゃんに一目惚れしてから時々考えるようになったのだが、人にとっての一言で説明できる関係性って、どれほど重要なものなのだろうか。例えば、地球から冥王星くらいまで話が飛んでいる気はするが、万が一、啓太と姉ちゃんが結婚したとする。そうしたら無論、啓太は俺の「義兄」ということになる。しかし、もしそうなったとして、俺たちの関係に変化なんて、絶対に何もない。きっと俺は、彼らの子供に「お前のパパは昔からおバカさんなんですよー」なんてことを言うようになるだろう。

 そして、これが一番大切なことなんだが、俺が啓太に、啓太にとっての「田池さん」が俺の姉ちゃんだと隠しているのは、決していじわるなんかじゃない。二人のためを思ってこそなのだ。

 弟の俺が言うのも少し照れるが、姉ちゃんは美人だ。少なくとも、一目惚れされる程度には。しかしそのせいで、俺がここに住むようになってからだけでも、姉ちゃんは欲の塊みたいな薄汚い男たちに言い寄られている。それで苦労もしてきたようだ。時々汚い部屋に呼び出されては、延々愚痴をこぼされ、しまいには泣き出す。しかし美人の泣き顔は美しいから、そんなもの見せられると俺まで非常に辛くなる。俺は血のつながりとか、「姉弟」という枠組みとかは関係なしに、姉ちゃんを大切な一人の「人」だと思っている。だから姉ちゃんにとって一番身近な俺が、姉ちゃんから害虫を追っ払ってやらねばならん訳だ。

 もちろん、啓太のことを害虫だとは思っていない。しかし奴がどれほど本気なのかまでは、俺にはまだわからない。少なくとも、俺の代わりに害虫から姉ちゃんを守ってくれ、且つ、危険区域と化した姉ちゃんの部屋を目の当たりにしても愛が冷めやらぬほどの気概がなければ、姉ちゃんのスウィートハニーは務まらない。

 だから、俺がこれからも、啓太の心根を確かめるべく、監視をしていかなければならない。「美人の恋人」という大役を任せられるのかを、そして何より、姉ちゃんのことを本気で愛してくれるのかを。


「なあ基文。やっぱり、美術とクラシックっていうのは、ちょっとベタすぎるかなあ……。哲学に明るいっていう設定はどう思う? 一番知的なイメージがあるでしょ。『田池さん、ご存知ですか? かの有名な、政治家であり作家でもあった、ドイツの哲学者ゲーテは、こう言ったと伝えられています。〈あなたの心の底から出た言葉でなければ、他人の心に響くことなどないのです〉と。……田池さん。もしこの言葉が真実なら、私があなたをお慕い申し上げる気持ちも、私の口からあなたに伝えられ、あなたの心を指で弾かれた細い弦のように震わすでしょう。……ああマドモアゼル! どうか私の心の琴線に触れてください!』なんて言ったら、もう、メロメロでしょ。俺に。知的アピールも完璧だし。ああ、めっちゃ甘いわぁ……」

 俺の横では、相変わらず啓太が出会いシミュレーションを無意味にも続けている。

 しかし俺はこの無意味さを愛す。そして、この無意味さを愛しく思わせてくれるこの若さを愛す。

 でも、それ以上に何より、今の俺は、様々な関係の中にいる「人」を、愛していきたいと思う。

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