表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

私を追放し資料を盗んだ元婚約者たち、私からの質問に全く答えられず失脚しました【ランキング入り感謝】

作者: 相野端摘
掲載日:2026/03/13

 重厚なオークの扉が、背後で低い音を立てて閉ざされた。

 鉄の錠が噛み合う無機質な響きが、背骨の芯まで伝わってくる。馬車が走り去る音が遠ざかり、辺境の静寂だけが後に残された。


 膝から、力が抜けた。

 冷たい石床の感触が、薄い靴底を通して足裏に沁みてくる。灰色のドレスの裾が、埃の積もった床に触れた。長旅のあいだ、ろくに水も喉を通らなかった体が、ずしりと重い。

 ここが、私の終着駅。身代わりとしての役目を終え、壊れた道具として廃棄された場所だ。


 耳の奥で、父の声が蘇る。


 「ミラ、身の程を、わきまえなさい」


 この国では、教育と知性がすべてを決める。男爵家の長女である私は、常に「完璧な影」でなければならなかった。華やかな妹エレアが犯した学術的な誤りを、自分の無知として夜会で認め、深く頭を下げたあの夜。今は元婚約者のユーリ様が向けた、氷のような視線。


 「事実を歪める無能を妻に迎えることはできない」


 彼が守りたかったのは、私ではなく派閥の名声だった。妹エレアの論文の誤りも、引用を間違えた古詩も、すべて私が「教え間違えた」ことにされ、私は都から、この人里離れた書庫へと送られた。


 喉の奥が、きつく絞られるように痛んだ。

 涙は出なかった。もう、とっくに枯れている。指先が冷たく、自分の手なのに他人のもののように感覚がない。

 泣いても、誰も私の言葉を拾ってはくれない。事実はすでに書き換えられたのだから。


 ふと、鼻腔をくすぐる匂いがあった。

 古い羊皮紙の、わずかに甘く乾燥した匂い。酸化したインクの、鉄錆に似た香り。王都の鼻を突く香水でも、顔色を伺って漂わせる香油でもない。沈黙の中で静かに朽ちていくものたちが放つ、誠実な匂いだ。

 冷え切っていた鼻先に、じんわりと血が巡るのを感じた。


 吸い寄せられるように、書架の間へ踏み出す。

 整理を諦められた書物の山。背表紙の革が剥げ、綴じ糸が切れて中身が溢れかけている写本たち。王都のアカデミーでは「要保存」の建前で箱に詰められ見向きもされない、無惨な姿の本たちだ。

 けれど私には、その姿が痛々しく、愛おしかった。


 私は、膝をついた。淑女が床に座り込むなど、実家であれば一晩中罵倒される行為だ。だが今の私には、監視する父も、侮蔑するユーリ様もいない。

 足元の紙片を拾い上げる。端はボロボロに欠け、虫食いの痕がある。それでも指先で撫でると、草の繊維を漉いて作られた古い紙特有の、ざらりとした温もりが伝わってきた。

 氷のようだった指先に、少しずつ感覚が戻ってくる。紙の厚み、繊維の流れる向き。指の腹が覚えている、懐かしい手触り。


 胸の底で、何かがほどけた。凍りついていた肺が、ようやく深い息を許してくれたような感覚。


 本は、人間と違って嘘をつかない。正しく接し、正しく補強すれば、失われた言葉を再び語り始めてくれる。身代わりの嘘を強いられる日々の中、夜中に一人、図書室でページの破れを繕う時間だけが、私の心を繋ぎ止めていたのだ。


 「膠の割合を調整すれば……。あ、でもこの時代の煤インクは水に弱いから……」


 独り言がこぼれた。自分でも驚くほど、弾んだ声だった。罪人として沈んでいなければならないのに、口元が勝手に緩んでいる。胸の奥で死にかけていた鼓動が、ドクンと大きく跳ねた。

 気づけば私は、埃まみれの床に腹ばいになって、資料の山に顔を埋めていた。ドレスが汚れることも、髪が乱れることも、どうでもよかった。一頁、また一頁。指先が紙を捲るたびに、乾いた音が静寂に波紋を広げる。


 その時だった。

 背後で、地響きのような音が轟いた。


 「おい、ここの担当官はどこだ! 資料の分類が追いつかんぞ!」


 鼓膜を直接揺さぶる、力強い声。私は弾かれたように顔を上げた。心臓が喉元まで跳ね上がり、指先から紙片がひらりと落ちる。


 逆光の中に、巨大な影が立っていた。遠慮のない足音が石の床を鳴らす。王都の学者が見せる忍び足の優雅さとは無縁の、嵐のようなリズム。

 さっきまで温かかった血が、一瞬で引いていくのを感じた。床に這いつくばって資料を漁っていた醜態を見られた。身代わり令嬢としての淑女教育はどこへ行ったのか。こんな姿では、ここからさえも追放されるかもしれない。


 「申し訳ございません! 罪人として送られてきたミラと申します! 不審な者では……っ!」


 頭を深く下げ、目を閉じた。怒号を覚悟して、奥歯を噛み締める。

 だが、返ってきたのは沈黙だった。


 恐る恐る顔を上げると、見上げるほど背の高い男がいた。乱雑な髪に、ずり落ちた銀縁の眼鏡。腕いっぱいに埃まみれの巻物を抱え込んでいる。その男は、私の謝罪など耳に入っていない顔で、私の足元に落ちた紙片を凝視していた。


 「君」


 「は、はいっ」


 彼は、身を乗り出した。あまりの距離の近さに、彼の衣服に染みついた古いインクの匂いが鼻先をかすめる。


 「今、その紙の繊維の方向を確かめていただろう。薬品の漂白ではなく、水洗いの回数で透明度を出している、あの時代の特徴を」


 「え……あ、はい。そう、ですが……」


 「最高だ! 王都の老いぼれどもは文字の面ばかり追って、紙の叫びを無視しやがる。だが君は最初から本質に触れていた!」


 彼は資料を机にドサリと放り出し、舞い上がった埃の向こうから、私の瞳をまっすぐに見据えて破顔した。そこには、ユーリ様のような打算も、父のような冷酷さも、一欠片もなかった。

 頬が、熱くなった。胸の奥で、さっきとは違う種類の鼓動が速まる。この熱さの正体がわからず、私は瞬きを繰り返した。


 「俺はカシアン。辺境書庫の調査官だ。真理は山積みだが整理する手が足りん。君、今すぐその知識を貸せ。俺と一緒に、この沈黙した過去を呼び覚ますんだ!」


 インクで汚れた大きな手が、差し出された。窓からの一筋の光が、その指先を照らしている。

 都では、誰も私に意見を求めなかった。私が何を知っているかなど、誰も興味を持たなかった。けれどカシアンと名乗ったこの男は、私の技術を、当たり前のように肯定している。


 「……ミラ、と、申します」


 かすれた喉を押して、それでもはっきりと名乗った。壊れた道具として捨てられたはずの場所。けれどここには、私が求めていた嘘のない紙とインクの匂いが満ちていた。


 「いい名前だ! よし、作業開始だ!」


 カシアン様の笑い声が、高い天井に響き渡る。

 私の心の中に、一滴、鮮やかな色のインクが落ちたような。小さな、けれど確かな始まりの音がした。


     ◆ ◆ ◆


 窓から差し込む秋の陽光は、微かに濁った蜂蜜のような色をしていた。

 宙に舞う微細な埃が、その光の道に沿って静かに踊っている。数ヶ月前、この書庫の門を潜ったときには、これほど柔らかな光がここに存在することさえ知らなかった。石床の冷たさも、書架から漂うインクの匂いも、今では私の肌の一部のように馴染んでいる。


 「……良し」


 私は小さく息を吐き、指先に極限まで集中させていた力を解いた。固まっていた肩の筋肉が、安堵と共にじわりと解れていく。

 作業机の上には、欠落した繊維を一本ずつ拾い上げるようにして補強した一頁の羊皮紙が横たわっている。香草の微かな香りが残る膠と、極小の骨角器。それらを用いた数時間の修復は、ようやく終わりを告げようとしていた。


 都での日々は、常に背筋を凍らせる緊張の中にあった。誰かのための仮面を被らされる時間。だがここでは、ただ本と私自身があればいい。

 カシアン様が淹れてくれた香草茶の、爽やかな香りが鼻先をくすぐる。このひと手間を、彼はいつから私のために当たり前のように淹れてくれるようになったのだろう。湯気の向こうに視線を上げると、少し離れた机で、ぼさぼさの頭を抱えて唸っている男の姿があった。


 「……カシアン様。また行き詰まっているのですか?」


 彼は銀縁の眼鏡をずらし、片手で髪を掻き回しながら顔を上げた。


 「ああ、ミラ。ここの一節だ。中央アカデミーの連中が何十年も議論しているが、どうしても前後の脈絡が合わん」


 大きな指で、古文書の一箇所を乱暴に指し示す。かつての私なら、彼のそんな仕草にさえ怯えていたかもしれない。けれど今は、それが学問への真摯な熱量だと知っている。

 不思議なことに、私はこの男の粗野さを怖いと思ったことが一度もない。それどころか、裂けそうになるまで古文書と格闘する彼を見ていると、胸の内側が小さく温まるのを感じた。この熱の名前を、私はまだ知らない。


 私は作業の手を止めず、視線だけを彼が示す資料に向けた。

 

 「……その綴り方。帝国の正則ではなく、東方の古い書記法に近い気がします。別の読み方で解釈すれば、意味が通るのでは」


 「なに……?」


 カシアン様の動きが止まった。彼は弾かれたように椅子を押し、私の隣へと歩み寄った。


 「今のを、もう一度言ってくれ」


 気づけば、彼は肩が触れんばかりの距離にいた。

 太陽の光をたっぷり浴びた布の匂いと、清潔な石鹸の香り。そして、彼という存在そのものから放たれる圧倒的な熱。それが私の薄いドレスの先まで押し寄せてくる。

 急に体温が上がったのだと思った。胸の奥で、何かがトクンと弾けた。さっきまで安定していた自分の体が、まるで別人のもののように言うことを聞かない。


 説明しようとして顔を上げた瞬間、私の視界は彼の逞しい胸元で覆われた。資料を覗き込むために、ぐいと顔を寄せてきたのだ。彼の髪筋から昇る体温が、私の鼻先をかすめる。

 肺が、不器用な呼吸を繰り返し始めた。喉の奥がぎゅっと締め付けられ、声が上手く出てこない。インクを浸していた指先が、今日初めて、わずかに震えた。


 「……これだ! まさかそんな盲点があったとは!」


 カシアン様は私の動揺に気づく様子もなく、歓喜の声を上げた。大きな手で机を叩き、弾かれたように私の顔を覗き込んでくる。彼の目には、他の何も映っていない。ただ、純粋な知的興奮と、私への敬意だけが燃えていた。


 「ミラ、君は天才だ! 有能な都の連中ですら、既存の枠組みに囚われて見落としていた。だが君はそこに手を伸ばせるんだ」


 「私、なんて……。ただ、昔読んだ本を思い出しただけで……」


 咄嗟に目を逸らしたが、頬が裏切るように熱い。自分の体がこれほどまでに主張してくるなんて、都にいた頃の私には信じられなかった。彼の称賛が嬉しくてたまらないのに、それを素直に受け取ることが怖い。


 都で向けられたのは、常に「身代わり」としての評価だった。私の本質を、私自身の価値として真っ直ぐに称えてくれたのは、この男が初めてだった。

 私は震える手で、修復を終えた一頁を彼に差し出した。羊皮紙を受け取る際、彼の指先が私の指に触れた。ほんの一瞬のことだったのに、その熱だけが火傷のように肌に焦り付いて消えない。


 「それより、こちらを。洗浄が終わりました」


 カシアン様はそれを受け取ると、夕陽に透かした。そこには、これまで「ただの乱雑なメモ書き」として見落とされていた微細な墨の定跡が浮かんでいた。

 

 ページの上を追うカシアン様の指が、次第に震え始める。


 「……信じられん。これは、精製法だ」


 「旧帝国時代、公文書にのみ使用が許された……品格と耐久性を兼ね備えた、あの『不滅のインク』の。……ミラ、君の洗浄がなければ、この隠し定跡は永遠に汚れの下で眠ったままだった」


 彼の声は低く、それでいて深い敬意に満ちていた。都の主流派が数十年探し続け、辿り着けなかった「失われた正解」。それが今、辺境の書庫で、二人の手によって白日の下に晒されたのだ。


 カシアン様は資料を慎重に机に置くと、私の両目を真っ直ぐに見据えた。

 「君の手が、歴史の断絶を繋ぎ合わせたんだ。……これは、君の功績だぞ」


 不意に、目頭が熱くなった。鼻の奥がツンとし、まぶたが熱い液体で溢れそうになる。

 捨てられたはずの私の手が。誰にも見向きもされなかった修復技術が。今、この瞬間に証明された。

 その事実が、凍りついていた心を内側からじわりと溶かしていく。


 「……私は。ここに、いてもいいのでしょうか」


 カシアン様は太陽のような眩しさで破顔した。


 「いてもいいどころか、俺が放さん。……よし、ミラ。書庫のみんなにも知らせて、精査するぞ。都にも報告を送らなくてはな」


 彼はペンを取り上げて報告書を書き始めた。忙しなく動くその大きな背中を見つめながら、私は自分の胸にそっと手を当てた。

 心臓が、静かで、けれど確かなリズムを刻んでいる。偽りの自分ではなく、私という人間を認められた証。

 ……そして、あの温かい指に触れた瞬間の熱が、まだ指先の中で消えずに残っていた。


 私はその指をそっと反対の手で包み込んだ。その熱を、こぼれ落としたくなかったから。


     ◆ ◆ ◆


 大急ぎで書き上げた第一報を送ってからおよそ半月後。辺境の静かな書庫に、ひどく不釣り合いな車輪の音が響き渡った。

 王都から届いた豪奢な馬車が、土埃を巻き上げて書庫の前に停まる。窓越しにその紋章と降り立った二人の姿を見た瞬間、私の指先は芯から凍りつき、血の気が引いていくのが分かった。


「久しぶりだな、ミラ」


 外の塵を払うこともせず乗り込んできた、元婚約者のユーリ様の声は、かつてと同じように酷薄で冷ややかだった。彼の隣には、流行の最先端を纏った妹、エレアが立っている。

 彼らが書庫の応接室に足を踏み入れた途端、本を守る虫よけのハーブの香りは、二人の纏う計算された強い香水によって暴力的に上書きされた。濃密な薔薇と麝香が鼻腔を塞ぐ。

 呼吸が浅くなる。喉がきつく締め付けられ、かつて王都で浴びせられ続けた「無能な身代わり」という言葉の刃が、古傷の痛みを引き連れて蘇る。肌が泡立ち、膝の裏に嫌な汗がにじんだ。


「あなたが送ったという速報を見たよ。辺境に追放された当てつけのつもりか」


 エレアはさっさと座ったが、ユーリ様は粗末な木製の椅子を忌々しげに見下ろしたまま、立った状態で要件を切り出した。


「あの『不滅のインク』の発見は、エレアの功績として王都で発表する。お前はただ、全ての資料を差し出し、発見の権利を放棄する書類に署名すればいい」


「……え?」


「お姉様、当然でしょう?」


 エレアが甘ったるい声で笑う。その微笑みは小鳥のように無邪気で、だからこそ残酷だった。


「いつもそうしてきたではありませんか。お姉様が夜通し古文書を修復して、下読みと解説のメモを作って。わたくしはそれをお茶会で読み上げるだけで、皆様に褒めていただけた。……お姉様がいなくなってから、わたくし、とても困っているの。だから早く、いつも通りにしてくださらない?」


 エレアの声の端が、わずかに震えていた。それが彼女の本質だった。奪っているという自覚すらない。ただ泉のように湧くはずの水が止まったことに、焦り、苛立っているだけだ。

 幼い頃から親に、妹に、元婚約者に言われてきた命令が頭を回る、私に逃げ道はない。「身代わりが貴女の役割」という呪縛が、凍った膝をガクガクと震わせる。息ができない。


「……ふん、黙って時間を稼ぐつもり?」


 エレアが優雅に扇を広げた。


「ユーリ様、私はこの古い書庫を見て回るわ。お姉様が他に隠し事をしていないか、監視しておきませんと」


 そう言って、彼女は私に蔑むような視線を滑らせ、広間を出ていった。妹の「監視」という重苦しい言葉に、私は抵抗の気力すら削ぎ落とされ、空虚な心でその背中を見送った。


 エレアの足音が遠ざかった直後。

 応接広間の古い木の扉が、蝶番を引きちぎれんばかりの轟音と共に蹴り開けられた。


「ふざけるなッ!」


 怒号と共に乱入してきたのは、ぼさぼさの髪を乱したカシアン様だった。

 私の前に立ちはだかり、ユーリ様を鋭く睨みつける。彼の広い背中から放たれる圧倒的な熱と、馴染み深い石鹸の香りが、呪縛のような香水の匂いを強引に散らしていく。止まっていた私の肺が、浅く、けれど確かに動き始めた。


「彼女の手の震えすら読み取れない無能な輩が、学問を語るな!」


「なんだ君は。無謀にも罪人を庇い立てするのか?」


「歪曲された浅薄な知識に何の価値がある!」


 カシアン様はユーリ様の冷笑を真っ向から跳ね返す。インクの発見がいかに高度な修復技術と柔軟な知識の上に成り立つか、専門的な事実のみを用いて論破していく。


「この発見はミラの、血の滲むような手仕事の結晶だ。貴様らの薄っぺらなメッキにしていいものではない!」


 彼が怒鳴るたび、その声の振動が空気を伝わって私の肌を打つ。心臓がドクンと大きく跳ね、頬に熱が登ってくる。

 彼が私のため、中央の権力者を敵に回すリスクすら投げ打って激怒してくれている。身体の芯が震えるのは、もう恐怖のせいだけではなかった。この人の隣にいたい、という切実な願いが、凍えた胸の奥で小さく、けれど確かに脈を打ち始めていた。


「……後悔させてやる。罪人の言葉など、発表会で誰が信じるものか」


 正論の嵐に反駁できなくなったユーリ様は、苦虫を噛み潰したような顔で捨て台詞を吐き、足早に去った。

 静寂が戻った広間で、カシアン様がゆっくりと振り返る。先ほどの獰猛さが嘘のような、不器用な瞳だった。


「……怖がらせてすまない、ミラ。だが、君の仕事をあんな奴らに渡してたまるか」


 少し間を置いて、彼は低い声で付け加えた。


「……君が、ここからいなくなるのも」


 その言葉を聞いた瞬間、限界まで張り詰めていた緊張がぷつりと切れた。目から熱い涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。私はまだ独りで立ち向かえるほど強くない。震える両手で顔を覆いながら、声を振り絞った。


「私も……っ。私はもう、私を……手放したく、ありません……」


 ただの願望だった。弱り切った私がすがるように絞り出した、初めての我が儘。

 カシアン様は黙って大きな手を伸ばし、私の震える手を両手で包み込んでくれた。厚い掌の熱が、凍えた指先をじわりと溶かしていく。こんなに温かい手に触れたのは、この書庫に来てからが初めてだった。


 だが、その安堵は長くは続かなかった。

 ユーリ様たちの馬車が立ち去った後、二人で執務室に戻った私たちは、信じられない光景に言葉を失った。


「……ない」


 私が修復した古文書の原本と、配合表。机の上から消え失せていた。

 カシアン様の顔が、さあっと青ざめる。


「俺が、君の元に駆けつけようとして……ここに資料を、置きっぱなしにして……」


 途中で離席したエレアがやったのは間違いなかった。

 私のために駆けつけてくれたから生じた隙。彼が悪いわけじゃないのに、再び全身の血の気が引き、膝から崩れ落ちそうになった。努力しても全てを奪われる。あの王都の暗い日々の記憶が、再び私の背中を底へと引きずり込もうとする。


 しかし、冷たい床に崩れ落ちる前に、カシアン様の分厚い手が私の腕を強く掴み上げた。


「ミラ!」


 視線が絡む。その眼差しに迷いはなかった。包み込むような彼の手の熱だけが、意識を手放しそうな私を繋ぎ止める命綱だった。


「資料は奪われた。……だが、君のその細い指が覚えている『感覚』までは、絶対に奴らには奪わせない」


 真っ直ぐに私の濡れた瞳を見つめ、力強く宣言した。


「俺が証明する。君の仕事が本物であると。……行こう、王都へ」


 私は小さく、何度も頷いた。その熱い手にすがるように身を寄せながら、奪われた誇りを取り戻す道のりを、この人と共に歩き出すのだと、震える心の中で祈るように決意していた。


     ◆ ◆ ◆


 王都に到着したのは、発表の数日前だった。


 その数日を慌ただしく過ごし、そして今日、その時は来た。

 中央アカデミーの大講堂。石造りの半円形の会場は、古代劇場のようになだらかな階段状の席がそびえ立ち、王国中から集まった学者や貴族たちの熱気で膨れ上がっていた。

 高い天井と計算し尽くされた石壁の反射が、登壇者の声を隅々にまで運ぶ学問の殿堂。

 私はカシアン様の隣で、旅の汚れを隠すための質素な外套に身を包み、後方の一般客席の隅に座っていた。


「……ミラ」


 不意に名前を呼ばれ、私はびくりと肩を揺らした。かつて「影」として妹の背後ですり減っていたこの場所。蝋燭の焦げる匂いと冷ややかな石の残響が肌を刺し、こめかみの血管がきつく脈打つ。周囲を埋め尽くす華美な衣装の群衆。彼らが纏う香油の甘い匂いが濃密に漂い、息を吸うたびに喉の奥がひりつく。自分がまた透明な存在に戻されてしまうような恐怖が、足の裏から這い上がってくる。背中に冷たい汗が伝い、膝の裏が嫌に震えた。


「大丈夫だ。俺がここにいる」


 カシアン様が、私の冷え切った手をそっと覆った。

 分厚い掌の確かな熱が、凍えた指先を一本ずつ溶かしていく。辺境の書庫で私を見つけ出してくれた時と同じ、救いの温度。触れた瞬間、止まりかけていた心臓がとくんと再び動き出す。頬のあたりがじわりと熱くなるのを感じながら、私は浅い呼吸を必死に整え、小さく頷いた。

 ――この手に触れていると、息ができる。彼の指越しに脈拍が伝わってくるような気がして、私は恥ずかしいほどの安堵に唇を噛んだ。


 壇上に、ユーリ様が現れた。

 続いて白銀のドレスに身を包んだエレアが、惜しみない拍手の中で登壇する。すべての光を一身に集めたような輝かしさ。慈愛に満ちた微笑み。

 ユーリ様が朗々と語る。辺境での地道な調査の結果、失われた不滅のインクが発見されたこと。それが王国の歴史においていかに価値あるものか。

 続いてエレアが演壇の前に立った。


「わたくしがこの資料で対峙したのは、数千年の時を越えて語りかけてくる、言葉の重みでした」


 彼女の透明な声が、石壁に反射して美しく響き渡る。

 内容は、私が夜通し目を腫らしながら解読したインクの組成ではなく、インクが記された時代背景や歴史的権威についての壮大な物語だった。ユーリ様が書き上げた隙のない原稿を、エレアは自分の魂から湧き出た言葉のように、見事な演技で語り続ける。


 会場の誰もが「若き天才」に魅了されていた。

 私は、ケースの中の原本を遠くから見つめる。あの夜、蝋燭の灯りだけを頼りに、指先を汚し、神経を尖らせて一片一片繋ぎ合わせた紙。その手触りを、私の指はまだ鮮明に覚えている。それが今、嘘にまみれた飾りにされている。胃の底が冷たく沈み、奥歯を噛みしめた口の中に鉄の味が広がった。拳の中で爪が掌に食い込む痛みだけが、辛うじて私を冷静に繋ぎ止めていた。


 だが、その怒りよりも私を揺さぶったのは、隣のカシアン様だった。

 普段なら即座に怒鳴り込むはずの人が、奇妙なほど静かに座っている。

 横目で見やると、彼の拳は膝の上で白くなるほど握り込まれ、その指先が微かに震えていた。


 心臓が、痛いほど跳ねた。

 学問にあまりに真っ直ぐで、世渡りなど露ほども知らないこの人が。ここで暴発すれば私の最後の機会を潰すと、必死に理解している。私を救うために、猛々しい魂を、捩じ切るような思いで押し殺しているのだ。その横顔の、歯を食いしばった顎の筋が、痛々しく浮き上がっている。


 彼の横顔を見た瞬間、目の奥が焼けるように熱くなった。喉がぎゅっと詰まり、呼吸が震え、鼻の奥がつんと痛む。

 この人を、こんな顔にさせていいはずがない。彼が自分を犠牲にして耐えている姿を、ただ隣で見つめているだけなんて、もう耐えられない。

 感謝でも尊敬でもない。名前をつけるなら、この感情は――愛だ。


 この人のことが、好きなのだ。


 その自覚が胸の奥で脈打つように広がった瞬間、全身の血が一斉に沸き立つような熱が走った。守られるだけではなく、彼の隣に並んで、一緒に戦いたい。彼の痛みを引き受けたい。鼓動が速くなり、頬が焼けるように熱い。指先がじんと痺れ、掌に汗がにじむ。


 辺境での日々が蘇る。紙の繊維を一本ずつ繋ぎ合わせた指先の記憶。カシアン様が淹れてくれた香草茶の温かさ。

『君の指が覚えている感覚までは、奴らには奪わせない』

 彼の言葉が背筋を貫く芯になった。資料は盗まれた。けれど、あの文字の一画に必要だった筆圧や、インクを定着させるために息を殺した瞬間は、私の指の中だけに宿っている。ユーリ様の原稿にもエレアの演説にも、それは存在しない。


 私はもう、誰の影にも隠れない。

 この人が守ってくれた私の誇りを、自分の声で証明する。

 それが、彼への愛の答えだから。


 エレアの演説が終わり、万雷の拍手が講堂を揺らした。司会者が問いかける。


「それでは、何かご質問のある方は?」


 ユーリ様が余裕の笑みで会場を見渡す。

 カシアン様が決死の覚悟で手を挙げようとした。その筋張った腕を、私はきっぱりとした力で制した。

 驚いて私を見る彼に、まっすぐに視線を返す。


「大丈夫です、カシアン様」


 静かに微笑んだ。声は震えていたかもしれない。けれど、彼のために立ち上がりたい。彼という光の隣にふさわしい私でありたい。その一念だけが、私の全身に力をくれた。

 カシアン様の目が見開かれ、やがて誇らしげな、ひどく熱い笑みが浮かんだ。その表情を見た瞬間、私の鼓動が一つ跳ねて、胸の奥がじんと甘く痺れた。


 私は、自分の足で立ち上がった。

 壇上のエレアの顔がひきつり、ユーリ様の視線が末席の「影」だったはずの私を驚愕と共に捉える。

 私は、通るような声で会場に響かせた。


「発表者の方に、お尋ねいたします」


 それは、修復の苦労を知る者にしか発することのできない、重厚な実感を伴った宣戦布告だった。


 大講堂を支配する静寂は、まるではりつめた薄氷のようだった。末席から立ち上がった私に、数百対もの鋭い視線が突き刺さる。


 喉の奥が砂を噛んだように乾き、一度唾を飲み込むのさえ痛みを伴った。心臓が肋骨の裏側をドク、ドクと不規則に叩くたび、耳の奥で自分の血流が鳴る音が不気味に響く。肺に吸い込む空気は、周囲の貴族たちが纏う香油の厚苦しく甘い匂いで濁り、呼吸をするたびに胸の奥が焼けるように疼いた。


 けれど、隣で私の指先を包み込んでいるカシアン様の熱だけは、一点の曇りもなく本物だった。彼の大きく節くれだった掌、その指の腹から伝わる力強い拍動。その確かな熱の塊が、恐怖にすくみ、意識が散じそうになる私をこの地面に繋ぎ止める、唯一の楔となっていた。


 演壇を掴むエレアの指先が白く強張り、ユーリ様の怜悧な瞳が殺意に近い、昏い光を宿して私を射抜いた。


「原本の右上にあった、あの脆い繊維。あれを修復する際、補強液の濃度はどう調整されましたか? 補助剤が紙の奥底へ馴染んでいく瞬間の、あの独特な変化を、どう捉えられましたか?」


 会場の空気が動いた。それは実際に原本の「呼吸」を聴き、指先の腹でその途切れがちな命を感じ取った者でなければ発することのできない、具体的で血の通った問いだったからだ。学者たちの間に困惑のさざ波が広がり、重苦しい静寂が削られていく。


 壇上のエレアは、唇を戦慄かせたまま一言も発することができない。彼女は、ユーリ様が用意した「完璧な物語」は暗記していても、深夜に私が指先に神経を集中させ、筆を走らせたあの瞬間の絶望を知らない。朽ち果てようとする紙から立ち上る、湿った墓穴にも似た咽せ返るような死臭を、彼女は一度も嗅いだことがないのだ。


「それは……その……適切な手順に従って、最善を……」


 霧散していく彼女の声。そこへ、カシアン様が大地を鳴らすような低い声を響かせた。


「付け加えさせてもらおう。欄外の独自の古量単位を変換する際、当時の地域差による誤差をどう補正した? どの資料を根拠に、その特異な数値を導き出したのか、この場の賢者たちに納得のいく説明を頂きたい」


 ユーリ様が首筋に青筋を浮かべ、「そのような些末な実務は、本質を損なうものではない!」と声を荒らげた。その瞬間、最前列の長老が、巨岩が動くような重々しさで席を立った。


「その『些末な実務』こそが、真実を繋ぎ止める楔となるのだ」


 長老の手には、この数日の間に提出した資料盗難の告発状と、書庫の仲間総出で作成した調書があった。講堂は凍てつくような静寂に包まれる。


「功労者として謝辞を述べるのであれば、情状酌量の余地があるかと思っていたが。遠方で発見された資料を無断で持ち出して、なぜ許されると思ったのか。理解に苦しむ」


「だ、だって、姉がそれを……」


「資料を見つけたのが誰であっても、資料は書庫の保管物だ」


 エレナの言い訳を、長老は切り捨てた。


「お前たちの発表は改めて調査する。資料の盗難もそうだが、そもそも『分析した者』が別人のようだからな」


 私たちの方を見ながら、長老の宣告が冷ややかに響き渡った。ユーリ様とエレアはその場に座り込み、原本はその場で没収された。

 欺瞞を許さない学問の沈黙が、彼らを冷たく包み込む。私とカシアン様は、互いの掌にじわりと滲んだ汗の熱を確かめ合いながら、喧騒の始まりを背に講堂を去った。


     ◆ ◆ ◆


 ――数週間後。

 発表会の後、改めて私とカシアン様も聴取を受け、そして私たちは、あの日々を過ごした辺境の書庫に戻っていた。


 夕暮れの執務室は、斜陽を浴びて琥珀色に染まっている。埃の匂い、古びた皮表紙の香り。そして、二人で精製した不滅のインクが放つ、かすかな芳香。


 王都での騒動は収まりつつあった。ユーリ様たちは権威を失い、調査が進められている。けれど、ここに流れる空気だけは、以前のどの時間よりもずっと透き通っていた。


「ミラ、少し、いいか」


 棚の整理をしていた私は、背後の声に振り返った。カシアン様が、不器用な表情で私を見つめている。彼の大きな手が、私の手首をそっと包み込んだ。

 掌の熱が、私の肌を焼く。これまで以上に近い、吐息が届く距離。彼の瞳の奥に、隠しようのない真っ直ぐな想いが揺れている。肺が深く空気を吸い込む音が、静かな室内で、私の耳のすぐそばで鳴った。


「王都の発表会。俺が君をあそこまで連れて行ったのは、君の才能を守りたかったからだ。……だが、それだけじゃない」


 カシアン様の声が、今までより低く、重く、私の鼓動の芯を揺らした。指先が微かに跳ね、耳の裏が焼けるように熱くなる。全身の血が心臓へと一気に逆流し、呼吸を忘れてしまいそうだった。


「俺は、君という人間が、たまらなく好きなんだ。学問に誠実な君も、脆い古文書を慈しむ君も、すべてが愛おしい。君を誰の身代わりにもさせたくないし、どこへも行かせたくない。……ずっと、俺の隣にいてくれ。君がいなければ、意味がないんだ」


 一切の婉曲を廃したその言葉が、凍てついていた胸の奥に直接突き刺さった。

 視界が熱いもので滲み、金色の雫となって頬を伝う。


 ただの道具ではなく、何かの代わりでもない。私自身の、この泥臭い生き方を、彼は丸ごと肯定してくれた。カシアン様は私の手をさらに強く、けれど慎重に握り直した。彼の厚い指が私の掌を沈黙の中でなぞるたび、その摩擦さえも、静かな痺れとなって心へと溶けていく。


 言葉にならず、私はただ何度も頷いた。

 彼の胸にそっと顔を寄せると、厚い外套越しに、私と同じように激しく鳴り響く心臓の音が聞こえてきた。その音が、私の歩んできた日々への唯一の答えのように感じられて、私は震える指先で、彼の腕を掴み返した。


 夕闇が、優しく書庫を包み込んでいく。

 私は、新調した日記帳を机の上に広げた。

 ペン先に、不滅のインクを含ませる。

 紙の繊維に、墨色の雫がしなやかに沈み込んでいく心地よい手応え。私は一文字ずつ、これからの日々を刻むための言葉を書き入れた。


『私たちの調査記録』


 一頁目を書き終え、ペンを置く。

 カシアン様は私の少し後ろに立ち、同じ星空を見上げていた。

 ただ同じ空間に彼という確かな熱が存在している。それだけで、私の指先はもう二度と凍えることはないのだと分かった。


 もう、この熱さえあれば、どんなに千切れた過去も、温かな光へと綴じ直していける。

 窓の外には、穏やかな星空が広がっている。私たちが修復したばかりの歴史と同じように、それは静かに、私たちの行く先を照らし出していた。


 アイディアが降りてきたので投稿してみました。


 この物語を必要としている方へ届けるために、皆さまの星をつけるリアクションや、SNSでのご紹介で力を貸していただけませんか。

 皆さまからいただく一つひとつの反応が、この作品がより遠くへ歩んでいくための道標になります。


 この物語の良き理解者として、作品の行く末を共に支えていただければ幸いです。

 このたびは、拙作を見つけてくださり、ありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ