第一章:光の台風、あるいは記憶の走馬灯
森に入った瞬間、上下の感覚が消滅した。
そこは、物理法則が適用されない「事象の地平線」だった。
木々の代わりに、巨大なホログラムの柱が林立している。空には、過去・現在・未来の全ての時間がミックスされた極彩色の嵐が吹き荒れていた。
誰かの結婚式の映像が鳥のように飛び去り、太古の恐竜の咆哮が電子音となって地面を揺らす。10年前にルナが解き放った「世界中の記憶データ」が、出口を失ってこの森で渦巻いているのだ。
「ぐっ……うぅ……!」
ルナは頭を抱えて膝をついた。
森に満ちる膨大な「他人の感情」が、彼女の脳を直接殴りつけてくる。何億人もの喜び、悲しみ、絶望、愛。それらがノイズとなって彼女の自我を侵食する。
(私を責めているの? それとも、助けを求めているの?)
彼女は世界を救うつもりで、世界を壊した。
自由を与えようとして、混沌を与えた。
その罪悪感が、銀色の結晶となって彼女の肺を締め上げる。
「やあ。また遅刻だね、ルナ。君はいつだってタイミングが悪い」
不意に、嵐の音が遠のいた。
視界の端で、ノイズが収束し、小さな影を形作る。
つぎはぎだらけの紳士服。割れた片眼鏡。そして、どこか悲しげなアライグマの顔。
「チックタック……!」
ルナの声が震えた。
そこに立っていたのは、かつて彼女が壊し、そして不格好に修理した「時の庭師」だった。だが、彼には実体がない。半透明のゴーストのように、光の粒子で構成されていた。
「君の修理のおかげでね、体はなくなっても、データだけでしぶとく残業していたのさ」
チックタックは、透き通った手で、幻のシルクハットを脱いだ。
「おかえり、ルナ。随分とボロボロになったね」
「……ええ。見ての通りよ。私は英雄になれなかった。ただの、世界を散らかした子供のまま」
「フム。だが、散らかしたおもちゃを片付けに来たんだろう? それは立派な大人の仕事だ」
チックタックが指を鳴らすと、周囲の混沌としたデータ嵐がモーゼの海のように割れ、一本の道が現れた。
その道の先には、圧倒的な「静寂」が待っていた。




