貸し借りの家
アユは、額に印を持って生まれた。
それは赤い点で、じっと見つめると数字が現れる。
生まれたときは「1」だった。
大人になるにつれて増えていき、二十歳の頃には「739」になっていた。
この数字は「貸しの数」と呼ばれている。
誰かに親切をしたり、重い荷物を持ってあげたり、道を譲ったりすると、数字が一つ増える。
増えれば増えるほど、その人は尊敬され、重んじられる。
なぜなら、この国では「貸しの数」がそのまま信用であり、地位であり、存在の証明だった。
反対に、「借りの数」は背中に現れる。
誰かの助けを受けたり、頼ったり、甘えたりすると、背中に青い数字が浮かぶ。
これは本人には見えないが、他人にはよく見える。
誰もが、前の数字を増やし、後ろの数字を隠すことに必死だった。
鏡では見えない。だから、誰も自分の「借り」の数を知らない。
それを知るには、他人に尋ねるしかない。だが、尋ねる者はいない。
皆、振り返らないようにして歩く。真っすぐ、前だけを見て。
ある日、アユは村の外れにある「貸し借りの家」を訪ねた。
そこには、ある老女が住んでいた。名は誰も知らない。
ただ「帳簿婆」と呼ばれていた。
帳簿婆は、生まれたときからすべての貸しと借りを記録してきたという。
誰に、いつ、何をして、どう思われたか。すべてが紙に書いてある。
それは、正確すぎて恐れられていた。
誰も自分の帳簿を見たがらなかった。そこには、あまりに些細な「借り」が書かれているからだ。
アユは言った。
「私の貸しは739。けっこう多いですよね?」
婆は首を傾げた。
「多いか少ないかは、比べる相手によるな」
「じゃあ、私の借りは?」
「それは、見たいのか?」
アユはためらいながら、頷いた。
帳簿婆は、黄ばんだ紙束をめくり、一本の細い筆で数字をなぞった。
「742だ」
アユは絶句した。
「でも、私、人のためにたくさん動いたし、優しくしてきたし、感謝もされた…」
婆は頷く。
「そうだな。だが、人の優しさを受けた分もある。道を譲られたこと、名前を呼ばれたこと、水を飲ませてもらったこと、笑ってくれたこと…そのひとつひとつがお前の借りだ」
「でも…貸しのほうが見えるんです。みんな、それで評価してくれる」
「それは前にあるからな。背中の数字は、自分では見えん」
アユはその場で、地面に座り込んだ。
739の額を手で覆い、何かを思い出そうとした。
だが、記憶は前に進むようにしか組まれておらず、背中で受けたことは輪郭が曖昧だった。
「この数字は減らせますか?」
「貸しも借りも、増やすことはできるが、消すことはできん」
「じゃあ、私は…どうすればいいんですか?」
「それを決めるのも、お前ではない」
「え、誰が?」
「それは、これからお前に貸される者たちだ」
その夜、アユは村に戻らなかった。
額の数字を包帯で隠し、背中を向けて歩いた。
その姿を見て、誰かが言った。
「あれ、貸しゼロじゃない?」
誰も近づかなかった。
誰も彼女の背中を覗こうとはしなかった。
アユは歩き続けた。背中に何かが擦れる音を聞きながら。
それが紙か風か、自分の影かは分からなかった。




