第4話 疫病神は、拉致される。
巽に半ば抱えられるようにして屋敷の門を出ると、街路は土と雪解け水が混じり酷い有様であった。彼の艶やかな靴が瞬く間に汚れていく。桜子は声を上げる間もなく、道脇に停まっていた黒塗りのフォード車へ押し込まれた。
「えっと、あの、私はこれからどこへ行くのでしょうか」
離れていこうとする巽の腕を掴むも、やんわりと解かれてしまう。
「ええから。とりあえず口閉じ。舌噛むで」
「……舌?」
遠くで両親の悲鳴にも似た声が聞こえていたが、巽は止まらない。悠々と運転席に着いて――まさか彼自身が運転するのかと思っているうちに、車体が急発進した。勢いよく後部座席に背中が張り付いた。
「ひえぇ……」
車とはこんなに揺れるものなのだろうか。桜子は必死に窓枠に張り付く。今人生で初めて車に乗っているので正確なことは言えやしないが、この人は運転が下手なのでは――いや、たぶんそう。
桜子は幾度となく座席から転げ落ちそうになりながら、鼻歌でも歌い出しそうな巽の後頭部を眺めているしかなかった。
車は帝都の中心部を猪のように走り抜け、気づけば賑々しい大路を外れた閑静な通りに出ていた。
「悪いなあ。無理やり連れてきてもうて」
次に巽が口を開いたのは、車のエンジンが止まり、一軒の邸宅の前に着いたときだった。
「だ、大丈夫、です」
何が大丈夫なものかとも思うが、今の桜子はそう答える他ない。目まぐるしく変わる状況に、頭が置いていかれている。あと、身体が揺れすぎて少し気持ち悪くもあった。停まる直前、かの有名なビザンチンのニコライ堂を通り過ぎたので、ここは神田の何処かであることは確かだ。
車から降りた巽の左手には、桜子の草履があった。屋敷を出る直前、落ちている何かを引っ掴んでいるなと思ったが、これを取っていたのか。「どうぞ」と突き出されたそれを、桜子はあわあわと受け取る。
目の前の立派な棟門の門柱には、二條という木札が掛かっていた。二條本家は大阪にあるはずなので、ここは巽の屋敷なのだろう。
ふたりして家の門をくぐると、前庭からひとりの男性が駆けてきた。
「巽坊っちゃん!」
「英治? まさかずっと外で待っとったんか」
巽よりやや歳下だろうか。英治と呼ばれた男性は、暖を取ろうと長着から覗くシャツを何度も掌で擦っていた。全体的に薄着なせいで骨張った身体つきに目がいく。
「そりゃあそうですよ!」
英治は短く刈り込んだ短髪をガシガシと掻く。
「ただの新年の挨拶回りだって言うのに、聞いていたより随分と帰りが遅いじゃないですか! 雪で自動車が動かなくなったんじゃないかと思って……って、この方はどなたです?」
言いながら、彼は巽の背後にいた桜子の存在に気づいたようだった。まるで品定めするかのような視線に、桜子は居心地悪く目をそらす。ぐずぐずに着崩れた着物をまとった自分は、さぞ怪しい女だろう。
巽が取りなすように桜子の背に手を回してくる。
「僕のお客さん。しばらくうちにおるから世話頼むで」
「あの、私そこまでご迷惑をお掛けするわけには」
聞いていない。てっきり連れ出してくれた後は、何処かに預けられるのだとばかり思っていた。
驚いて巽を見上げるも、彼はどこ吹く風。同じ様に目を丸くしていた英治であったが、すぐに声の調子を落とす。
「また、女性を引っ掛けてきましたね?」
「ハハ、お前余計なこと言うなや」
巽が笑顔のまま英治の背中を叩く。桜子がちらりと見れば、取り繕うように口角を持ち上げられる。
「君はそういうんやないから、安心してな」
「は、はあ……」
君は、とかいうあたりに一抹の不安を感じないでもないが、内心納得してしまう。
男性と並んでも頭ひとつ飛び抜けそうな長駆に、涼しげな面立ち。西の言葉というのも帝都では目を引きそうだ。世の女性の方が彼のことを放っておかないに決まっている。
桜子は未だ納得しきれていない英治に向かい、深々と頭を下げる。
「はじめまして、英治様。私は道枝桜子と申します」
「道枝? ……あの道枝ですか?」
代わりに巽が頷くと、英治の顔色がみるみる悪くなる。
「まさかとは思いますがけど、嫁入り前の娘さんを連れてきているんじゃあ」
「そのまさかやな」
一瞬の間が空き、英治がしおしおと顔を覆った。
「私じゃ庇い切れないんでちゃんと説明してください。事によっては官憲(警察)が来ますよ」
「大丈夫やろ。天家のやりとりに公僕は手ぇ出されへん。僕らに目つけられたらかなわへんの、分かっとるからな」
天家とは、天眼を持つ家のことを指す。にんまりと笑う巽に桜子は固まった。
――成る程? 自分は正しく道枝邸から拉致されたようであった。




