第20話 娘は、特別を知る。
「巽さん!」
立ち上がって桜子がそばに寄れば、巽が呆れたように桜子の手に触れる。
「すーぐ外に出る。せめて上着くらい羽織らんと。手ぇ真っ赤やん」
ずっと室内にいた彼の手はとてもあたたかった。
「ごめんなさい。宗介さんがお怪我をなさってて、少し手当てを」
「手当て?」
巽が桜子の背後へ視線をやると、宗介が固い表情で会釈を返す。と、巽の背後から数歩遅れて壮年の男性が姿を現した。
「悪いね、巽くん。うちの若いもんがお嬢さんに迷惑をかけたみたいだ」
まるで壁と見紛うほどに恰幅のいい人だ。宗介は彼を見るなり、飛び上がるようにして立ち上がる。
「お、お帰りなさい」
「宗介、ちゃんと礼はしたんか」
「勿論です、叔父貴」
叔父貴と呼ばれた男性は、柔和な笑みを浮かべて桜子の肩を叩く。
「ごめんなあ、お嬢さん。宗介が面倒かけて」
「い、いえ。私が勝手にしたことですので」
「そうかそうか。優しいな」
男性は「見送りはいらない」と巽に告げると、玄関口へと鷹揚に歩いてゆく。その後ろを宗介が追おうと駆け出すも、なぜだか途中でピタリと立ち止まる。
「……桜子さん!」
宗介はくるりと振り返り、こちらへ向かって律儀に頭を下げる。
「手ぬぐい、どうもです。また洗って返します」
そこまでのものではないのに。桜子は大丈夫だと手を振る。
「お気になさらないでください。たいしたものではないですから」
「いや、でも」
宗介が食い下がる。
本当に手拭いなんぞ気にせずともいいのだが――桜子が困惑していると、それまで黙っていた巽がおもむろにこちらへ手を伸ばしてきた。なんだろうと思う間もなく、後ろから手を回され、ぐっと肩を引き寄せられた。急に縮まった距離に、自然と身体が強張る。
「た、巽さ――」
「ソースケくん」
頭上から巽の声が降ってくる。
「石渡さん、先に行ってまうよ。置いてかれんで」
その声音は先ほどよりも低く、抑揚を欠いていた。気圧されて、桜子まで口をつぐんでしまう。目の前の宗介もさっと顔色を悪くしていた。
「それじゃあ……失礼します」
宗介は一度こちらを振り返ると、足早に去っていく。桜子がそろりと巽を見上げると、宗介の後ろ姿をじっと見つめていた。感情の読み取れない横顔に、温度のない瞳。初めて見るその表情に、背筋がひやりとする。
「巽さん」
呼びかければ、巽の瞳が桜子を捕らえる。けれど、いつものような笑みがない。
「なあに?」
「その、何か怒ってます、か」
「怒ってる? なんで僕が怒らなあかんの」
けれど、どう見ても機嫌はよくなさそうで。屋敷に勝手に上げようとしたことや、付添人に声を掛けたのがよくなかったのだろうか。
「なんでって……巽さんの雰囲気が、いつもと、違うから……」
桜子は理由が分からず、しょげてしまう。巽からの返答もなく、ふたりの間に気まずい沈黙が落ちる。
「……大人げなかったわ。ごめん」
先に沈黙を破ったのは、巽の方であった。
「僕が応接間に近寄るなしか言わんかったのが、あかんかったわ。部屋にこもっとくよう言えばよかった」
巽が低く吐き出す。桜子は肩を抱かれたまま、室内へと連れて行かれる。
「今日の依頼人はああいう世界の人らやから、桜子さんをあんま近づけたなかったんよ」
そうか、巽の気遣いを無駄にしてしまったからいい顔をしていなかったのか。桜子はようやく得心した。ならばと、巽を安心させようと口を開く。
「宗介さんは悪い方ではありませんでしたし、お話ししていただけなので大丈夫ですよ」
すると、巽が物言いたげに眉を寄せる。
「なに、あの人にオトモダチになろとでも言われたん」
「友達になるとは、特に」
「じゃあ、何言われたん」
「たいした話では……普通の世間話ですとか、気を遣っていただいて社交辞令とか……」
兄の話や、桜子が変わってるやら可愛いやら。色々言われた気がする。すると肩に置かれていた巽の手の重みが増す。
「社交辞令、なあ?」
「や、やっぱり怒ってるのでは」
「怒ってへんて。……いや、怒っとるんかな」
巽が額の髪をかき回す。
「なんやろな。ちょっとおもろないなて思てる自分に気づいたというか」
つまりは、どういうことなのだろう?
うまく理解できず、桜子は間近にある巽の顔を見上げる。
「虫除けが必要なんは、僕やのうて桜子さんの方かもしれへんな」
「どういう意味ですか」
「桜子さんが可愛ええなて話」
桜子の頬に朱がさす。この人は可愛いやら似合ってるやら軽く口にできる人だと知っているし、これまでも何度か言われたことがあるはずなのに。
「どう、反応したらいいのでしょうか」
今日に限って言えば、宗介に言われてもなんとも思わなかった言葉が、巽の口から出ただけで全く違う言葉のように聞こえてしまう。
「……僕に聞かんといてよ。変な感じになるやん」
巽の視線が頼りなさげに揺れる。
と、襖の隙間から小さな人影が顔を出す。
「見ーちゃいました。わたし見ちゃいましたよう?」
掘り出し物でも見つけたかのように、目を輝かせた伊里がひょっこりと顔を出す。その後ろには気まずそうな英治の姿もあった。
「伊里さん……はっ!」
そこで、桜子はようやく伊里を放置してしまっていたことを思い出した。
「ごめんなさい! 私すっかりお伝えすることを忘れていて」
「全っ然平気ですっ。代わりに面白いものが見れましたからねっ」
伊里はご機嫌に桜子と巽を見比べている。その視線の先が、桜子の肩に乗る巽の手であることに気づき、慌てて彼と距離をとる。
「桜子さんはまだまだですけど、案外おにいさまの方が……あたっ」
巽が通り過ぎさまに伊里の頭をはたいていく。その表情は、伊里とは対照的にむっすりとしていた。
「見世物ちゃうぞ」
「すみません、坊っちゃん。伊里さんに居間にいようと説得しても聞いてもらえなくて」
「しっかりせぇ英治。このじゃじゃ馬の手綱握るんはお前の仕事やろが」
「いやそんな、いつから私の仕事になったんです!?」
とても微笑ましいやりとりなのだが――桜子は伊里の顔を見て、ふっと縁の糸のことを思い出す。宗介を前にして、ほつれを治せたことを。
――そうだ、巽に報告しなければ。
桜子は疲れた様子で自室に戻ろうとする巽の腕を掴む。
「巽さん。さっき宗介さんの――」
「その子の話はもう分かったから。ちょお頭冷やさせて」
「私、少しだけ糸を結ぶことができたんです!」
勢い込んで伝えると、巽の動きが止まる。
「……それホンマ?」
「はい、一度見ていただきたくて」
これできちんと巽の役に立てるようになるかもしれない。そう思うだけで、桜子はどんなことでも頑張れるような気がした。




