第15話 娘は、不安になる。
道枝邸にいた頃の夕食といえば、家族とは別に部屋に運ばれてくる食膳を食べるのが当たり前だった。洋燈の明かりを頼りに、「いただきます」と独り手を合わせて。食事は、ご飯の味を楽しむよりただ空腹を満たすためだけの行為だと思っていた。
それに比べて。
「いただきまーすっ」
弾んだ声で伊里が手を合わせ、白米を頬張った瞬間、居間にぱっと花が咲いたようだった。
二條邸の食卓は、なんて賑やかで温かいのだろう。
隣の伊里が美味しそうに白米を頬張る姿につられ、桜子も手を合わせて箸をとる。今日の夕食は鯵の開きに、里芋の煮物、具沢山の味噌汁。湯気とともに魚の香ばしい匂いが部屋中に立ちこめていた。
「あり合わせでなんとかやりくりしただけですが……」
英治が盆を抱え、恨みがましそうな目で巽を見下ろしている。彼は、桜子と巽が日本橋へ行く直前に伊里が来ることを巽から聞いたらしい。出立直前の耳打ちはそれだったのかと納得する。
桜子の向かいに座る巽が、英治の脛を小突く。
「伊里はそないなこと気にせぇへんよ。食えれば何でもええて。な?」
「はい!」
伊里が喜色満面、大きく頷く。
「あたし気にしませんよ! 英治さんのご飯はいつでも何でも美味しいので!」
「そ、そういう問題じゃないですよ」
英治が照れを隠すようにしかめ面で顔をそらした。
桜子は三人のやりとりを微笑ましく見つめる。夕食はいつも巽と桜子の二人きり。会話はあっても、騒がしいとまでは流石にいかない。英治は使用人としての立場から頑なに食卓を共にしないので、こんなに賑やかな食卓は本当に珍しかった。
「……美味しい」
と、思わず漏れる。鯵の身がふわふわだ。二條邸に来てからは、いつもちゃんとご飯の味がする。
「そらよかった」
視線を上げると、巽が目を細めていた。
「伊里ほど食えとは言わへんけど、もっと食べや。そのままやといつかポキっと折れてまうで」
ポキッの音に、桜子の頭にはあの棒状のものが浮かんだ。
「ア、アルヘイ棒みたいに、ですか……?」
あの青と赤の。
思ったままに返せば、声を上げて笑われる。
「いやめっちゃ根に持ってるやん。せやから悪い意味で言うたんちゃうて」
「うぅ、だって」
桜子が箸を持って眉を寄せていると、横に座っていた伊里が手を止めてじっとこちらを見つめていることに気づいた。
「……桜子さんは、本当に巽おにいさまの恋人なのですねえ」
伊里はどこか唖然としたふうだった。彼女にも体のいい理由として、恋人だと伝えているらしい。
「にしても、今までの女性の方への接し方と、ちょっと違うような……?」
今まで――桜子は聞かなかったことにする。
「なんやねん。僕はいつやって誰にも優しいやろ」
向かいから巽の鋭い声が飛んでくる。
「えー……その点は審議が必要ですよう」
伊里が桜子の顔を覗き込んできた。彼女の猫に似た丸い目がぐぐっと近づく。
「実はおにいさまが婚約なさったってお話、あたし本家からまだ聞いていないんですよね。だから、お会いするまで半信半疑だったんです」
「あの、えっと」
「勇おじさまからも聞いていないし、志塚が知らないなんてあり得ないのにって」
「伊里、近い。桜子さんが怖がっとる」
「あ、ごめんなさい」と言って伊里が身体を引く。桜子は頭の中で巽と伊里の親族関係を整理しようとする。
「伊里さんは巽さんの従妹で、勇さまは……」
「勇おじさまは、おにいさまのお父上ですよ。あたしは、勇おじさまの弟の娘です!」
成る程。伊里は、巽にとって父方の従妹、つまり二條に連なる親族となるのか。とすれば、志塚家は――と、そこまで考えて、桜子は「あれ」と首をひねった。
「巽さんは二條家のご次男……えっと、なら志塚家と勇さまのご関係は……?」
「え? 生家ですけど」
桜子はきょとんと伊里を見つめ返す。伊里もまた、面食らったように桜子を見ている。
どういうこと?
桜子は向かいの巽へと顔を向けるも、返答はない。ややあって、見かねたのか英治が助け舟を出してくれた。
「あのですね、坊っちゃんのお父上は、志塚家から二條家へ婿入りなさったんですよ」
「婿入り……」
「今の二條家は二條静香さまがご当主です。坊っちゃんのお父上はご当主のもとに婿養子として入られたんです」
ああ、やっと理解できた。そうすれば志塚家は確かに勇の生家だ。
桜子は伊里の立ち位置をようやく掴んで納得した――のだが。
「なーんか、可怪しくないですか?」
伊里は声の調子を落としていた。
「なんで二條の当たり前の事情を桜子さんはご存知ないんですか? もしかして本家は桜子さんのことご存知ないんじゃ?」
桜子は表情に出ないよう、口を引き結ぶ。本家など全くの無関係で恋人など嘘八百。ただ取引して巽が取り決めただけの婚約者候補だなんて、どう説明したらいいものか。
すると、それまでだんまりであった巽が茶碗を置いてあっけらかんと言ってのけた。
「心配せんでも、ちゃーんと本家には紹介してんで」
一体何を言い出すのだ。桜子はハラハラと箸を置く。
「まだ正式には発表してへんのよ。一葉の茶会に出て桜子さんが向こうさんの養子に入ってから公になる予定やから、それまでは二條も黙認してくれとる」
そんな話、聞いたこともないのだが。もしかして裏で巽が根回しをしてくれているのだろうか。
「ふうん?」
伊里ははじめ納得しきれていない様子だったが、しばらくすると「それもそうか」と合点がいった顔をする。
「桜子さんって、縁の糸の状態からして見るからに訳アリっぽいですもんね。天眼を持ってるのにうまく使えないって聞いてますよ。あと、結びもできるとか」
「それは、その」
曖昧に頷けば、伊里は大仰に手を打った。
「成る程! きちんと使いこなせるようになってから、発表なさるってことなんですね。あたしが呼ばれたのも、そのお手伝いって感じですか!」
「せや。流石伊里やな、理解が早くて助かるわ」
「へへへ、ありがとうございますう。あ、英治さん! おかわりいただいてもよろしいですか!」
桜子がちらりと巽へ視線をやれば、彼の口が音もなくパクパクと動いた。なんだろう。伊里は再び食事に意識が向いたようで、彼の行為には気づいていない。
たった二文字――う、そ。
……「嘘」? ここまでの話、全部嘘なのか。
桜子はどうしたらいいか分からなくなってしまう。巽の後ろでは、英治が天を仰いでいた。その顔は桜子への心配の色も滲んでいるように見えた。
親しそうな伊里にまで事情を伏せる必要があるのだろうか。そもそも、家から認められた人間でない以上、桜子はただの他人……いや、それ以下なのではないだろうか。
二條家の事情も、何も知らされていないのだから。
桜子は急に、自分の足元にぽっかりと大穴があいたような気分になった。居場所を見つけ始めたような気になっていたのは自分だけで、本当は居てはいけない存在なのでは。そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。
桜子は、この場所にすでに愛着を持ち始めている自分に気づいてしまったのだった。




