第12話 疫病神は、外出する。
二條邸を出発すること三十分。
自動車が止まり、桜子が顔を上げると、目の前には煉瓦造りの建物が並ぶ大通りが広がっていた。
「わあぁ、人がこんなに」
桜子は目を丸くして自動車から降りる。色とりどりの洋装に身を包んだ断髪の女性たちが、驚く桜子を珍しそうに流し見ていく。
遅れて運転席から出てきた巽が、こてんと首を傾けた。
「日本橋は初めて?」
「初めてです! と、いうよりも」
そもそも外出自体、これまで数えるほどしかしたことがない。そう伝えると、彼はしばし言葉を失っていた。
桜子はそんな彼の様子には気づかず、石畳の街路と瓦斯燈の立ち並ぶ街並みに目を奪われてしまう。桜子の目には、洋装の男女が行き交う景色は異国の街のように映っていた。
「わ、巽さん。あれは何ですか?」
横を向くと、一際背の高い建物が目に入る。一階部分が硝子の箱になっており、中にワンピースや帽子でめかし込んだ人形がいくつも立っていた。
見惚れたまま数歩前へ出ると、早足で通り過ぎていく通行人の群れに突っ込みそうになった。
「ちょっ、危ないて」
いち早く巽が肩を引っ張ってくれたお陰で、ぶつからずにすむ。
「ご、ごめんなさい」
慌てて謝ると、巽が吹き出した。
「ハハ、初めて散歩に出した子犬みたいやな。迷子にならんよう手ぇでも繋いどくか」
「えっ!? 大丈夫です!」
ぶんぶんと首を振って辞退すると、「冗談やん」と返された。……分かりにくい嘘はやめてほしい。
「さっき桜子さんが見とったアレは、百貨店のショーウインドウな。今からそこ行くから」
「百貨店……」
噂には聞いたことがあるが、あんなに大きな建物だったのか。感嘆の息を漏らしながら、巽の後ろにくっついて百貨店へと入る。マネキンとかいうらしい箱の中の人形は、ちょっと不気味で早足で通り過ぎてしまった。
桜子は彼が買い求める万年筆やインクを物珍しく眺め、煌々と輝く電球を見上げて。昇降機に乗った時は、奇術みたいだと悲鳴を上げて巽の袖を掴んでしまい、大笑いされてしまった。
けれど、桜子の目には全てのものが綺羅綺羅として映っていた。見たことがないものばかり、まるで宝石箱をひっくり返したよう。自然と心が躍る。
「……今んとこ僕についてきとるだけやけど。こんなんで楽しい?」
巽が興味深そうに桜子の顔を覗き込んでくる。
「はい! とっても!」
勢いづいて返事をした後で、あまりに子供っぽかったかと思い「珍しいものが多くて勉強になります」などと言い訳を付け足してみる。自分ばかりが世間知らずな気がして、巽に対して背伸びをしたい気持ちもあった。
「そうかそうか。素直でええな」
ワシャワシャと頭を撫でられ、桜子は呆けてしまう。多分、全部見抜かれている。見れば、巽はもう次の目的地へと足を向けており、特に気に留めた様子もない。
桜子は乱れた髪の毛を整えつつ、熱を持ちそうな頬をパタパタと扇ぐ。巽にとって今の自分は、見て面白い子犬のようであり、妹のような庇護対象なのだろう。
悪い気分ではないが、幼子のように扱われるのはなぜだかちょっとだけ嫌だった。
「今のとこ、他人の縁に引きずられたりはしてへんね」
巽がそう訊いてきたのは、百貨店を出た時だった。桜子も今までより自信を持って頷く。
「はい、大丈夫そうです。意識しない限り、うまく糸を躱せているような気がします」
「ええ兆候や」
巽が品物を入れた紙袋を抱え直す。桜子がよくよく目を凝らせば、その荷物含め彼に何本も糸が絡んでいるのが見えた。
――ああ、そういえば。桜子は自身の手に視線を落とし、ずっと引っかかっていることを思い出す。
「私、自分の糸がずっと視えないのですが……これはやはり技量不足なのでしょうか」
巽は車に戻らず、大通りを進んでいく。その脇を、カンカンと鐘を立てて帝電が路面を走り抜け行った。
「ちゃうよ。視えへんのが正常やで」
「正常……でも、巽さんがお手伝いしてくださった時は、私のぐちゃぐちゃの糸が視えていました」
「あれは僕の目を貸してあげた状態やから。普通、天眼は他人の縁を視るためのもんで、自分の糸は視えへんもんなんよ」
へえ、と桜子は自身の手を見つめる。自分自身のものが何も視えないなんて、考えるととても不思議だった。
「自分の糸が視えてもうたら、好き勝手し放題やん。自分の運命丸見えなんと同じなんやから」
「確かに。そうかもしれないです」
「天眼は神に近しい眼ってだけで、カミサマとは違う。はっきりした線引きやな」
神のごとき扱いを受けるが、万能ではない。難しい力なのだなと改めて考えさせられる。
思えば異母妹の翠も、学業の合間を縫って天眼を持つ巫師として父とともに依頼を請け負っていた。巽のように切ることはできないが、縁から吉凶を判じて依頼人に助言を授けていたと聞く。
まだ幼い身ながらこの力を使いこなしていた翠は、優秀な子なのだ。傍若無人な振る舞いは許されたものではないが、桜子は純粋に彼女のことをすごいと思った。
「――桜子さんは、甘いもん好き?」
突然の巽からの質問に、思考に沈んでいた桜子は意識を引き戻す。
「……は、はい! 好き、です?」
咄嗟に返事をすると、ようやく自分たちが一軒の店の前に立っていることに気がついた。モルタルの白壁が目を引く、瀟洒な外観の建物だ。
「よっしゃ。なら入るか」
巽が飴色の扉を押し開け、中へと入っていく。ついていく桜子が扉を見上げると、目に入ったのはパーラーと書かれた吊り看板。
パーラー。
雑誌でちらりと目にしたことはあるが、とてもお洒落な場所だということくらいしか分からない。店員に案内されるまま席に着かされ、お品書きを手渡される。
「パルフェ、ケエキ……シ、シュークリイム?」
どうしよう知らない食べ物ばかりだ。載っている内容で分かるのは、善哉ただひとつ。謎の横文字の羅列に桜子が唸っていると、お品書き越しに頬杖をついてじっとこちらを見ている巽と目が合った。
「あ、ごめんなさい。早く決めます」
「桜子さんて、女学校出てはるん?」
思わぬ方向の質問に、桜子は言葉に詰まった。
「え? あ、いや、私は……」
視線が泳ぐ。道枝ほどの家柄に生まれながら、尋常小学校で終わってしまった自身の学歴が、あまりにもちぐはぐで。その事実が、ずっと桜子の引け目だった。
「そういや難しい文字も読めてるなと思て。屋敷の本や新聞なんかも普通に読んどるし……独学?」
「……はい。本くらいしか、部屋ですることがなかったので」
薄闇の中、父の書斎からこっそり持ち出した本を読み漁っていた日々が遠い昔のようだ。今はこんなに綺麗な着物を着て明るい場所にいるというのに。膝の上の手をきゅうと握ると、巽が首を反らす。
「腐らんとずっと真面目にやってきたんやなあ。僕には無理やわ」
彼の感心にも似た声音に、桜子はくすぐったく身じろぎする。
「でも、恥ずかしながらお裁縫やお料理は触る機会がなかったので、全くできないのです」
巽は「ふうん」と呟くと、テーブルの下で足を組み替えた。
「それ、気になるん?」
純粋な疑問らしく、巽は黙って桜子の返答を待っている。どう伝えたものかと、桜子は目を伏せる。
「ほ、他の人にどう見られるんだろうとか、ちゃんとしてないって思われるんじゃないかとか、考えてしまうといいますか。私はずっと習いたかったので、余計に考えてしまって」
道枝に籠もりきりだったので、こんなことを考えるようになったのは最近になってからだ。桜子がごにょごにょと伝えれば、巽が小さく息を吐き出した。
「……ま、人が自分をどう思うかは気になるわな。そこは分かるわ」
「え?」
何事にも自信がありそうな彼の口から出てくるには違和感のある発言だと思った。けれど聞き返す間もなく、巽が手を打った。
「せや、やりたいんやったら英治に教えてもろたらどない」
「……いいんですか?」
いくら婚約者もどきとはいえ、現時点ではただの居候。勝手に人様の厨に入るのはいかがなものかと、初日に英治に手伝いを断られて以来立ち入るのは控えていたのだ。
「あいつも世話好きやから、お願いしますて頼られたら嫌とは言わんと思うで。僕は料理とか、からっきしやから」
「本当ですか! 嬉しいです。これで――」
これで一人前の女性になれると言いかけて「あれ?」と瞬く。
誰のために一人前になるのかと言われれば、未来の旦那様のためで。――それは、目の前のこの人のこと?
そこまで考えて、桜子は形容しがたいむず痒さを覚えた。婚約といっても、巽にとっては桜子の能力目当てのものなのだから、変に構える必要もないはずだ。不要なことは考えてはいけないと、桜子が言い聞かせていると。
「今、何考えてるん?」
目線を上げると、頬杖をついていた巽がわずかに身を乗り出していた。
「顔色、赤なったり青なったり。見てて飽きんわ。床屋のアルヘイ棒みたいやな」
「ア、アルヘイ棒」
髪切り処の軒先に置いてある、あの赤と青のくるくるした棒? 自分の顔色が同じように変わっている姿を想像して、桜子はしなしなと眉を下げた。
「それって絶対に褒めていないですよね」
「そ? 可愛らしくてええやん。で、注文どないするん」
迷いに迷い、桜子はケエキとやらを、巽は珈琲を頼むこととなった。店員が下がり一息ついていると、一つの人影が桜子たちの卓に近づいてきた。




