第9話 娘は、疫病神に戻る。
「夫と芸妓の縁を切って欲しいのです」
穏やかさはそのままに、礼子ははっきりと言い切った。
「芸妓や言いますと、つまりは」
「ほとんど愛妾と言っていただいてもよろしいですわ。昨年の頭頃から座敷に通って囲っているようでして」
彼女は淡々と続ける。
「あの女に入れ込むようになってから家にも寄りつかなくなって、ほとほと困っておりますの。私と話もしてくださらないし、どうにかしていただきたくて」
つまりは浮気。
巽の言う通り、やはり縁切り依頼は男女のもつれが多いらしい。未知の世界に桜子は圧倒されるばかりなのだが、対する巽は慣れた様子で身を乗り出していた。
「事情は分かりましたんで、電話口で頼んでました旦那さんの私物って、今日持ってきてはります?」
「こちらに。先日主人が家に帰ってきた際に着ていたものになりますわ」
礼子が鞄から一枚のシャツを取り出した。巽が受け取って机に広げると、ふわりと濃密な香りが鼻先をくすぐる。桜子の場所からでも分かる、これは女性が好みそうな香の匂いだ。
礼子は疑わしげに目を細める。
「こんなもので本当に縁切りがお願いできるのですか?」
「まあいけるとは思いますけど、とりあえず視てみましょか」
ふいに巽が桜子を振り返る。
「手ぇ貸して」
「あ……はい!」
彼の意図することが読めて、桜子は素早く手を差し出した。手を握ると、瞬く間に輝く糸が眼前に現れる。
けれど、可怪しい。桜子は周囲を見渡す。礼子の周りをゆったりと揺蕩う糸は、桜子の時よりもずっと本数が少ないのだ。ざっと数えても両手で足るほどしかない。
「これが普通やで。君が多すぎるんよ」
桜子の表情を読んだのか、巽が先んじて口を開く。
普通の人は糸玉のようにはなっていないのか。無差別に縁を結んでいる状態と言われたことがようやく納得できた。これを見ると、自分がいかに異常な状態だったのか痛感する。
「ではあの……これは」
礼子がテーブルに置いたシャツに視線をやると、糸が二本、絡み合うようにして伸びているのが見えた。どちらの糸も白く輝いており、悪いものには見えない。
「一本は旦那さん、もう一本がその芸妓さんの縁やな」
「なんだかとても、固く結ばれているような」
「まあ……そうなんやろな」
巽が濁す。このふたりは縁を見る限り、悪い縁でもなさそうな気がする。桜子は互いに寄り添うようにして淡く発光する二本の糸をじっと見つめる。
「だったら、切ってしまうのは――」
言いかけて、向かいから突き刺すような視線を感じ桜子は慌てて口をつぐむ。そろりと顔を上げれば、礼子が取り繕うように笑顔を張り付けた。
「それで、お二方から視てどうなのでしょうか。切っていただけそうなのですか?」
礼子の意志は固そうだ。どう巽が対応するのかと桜子が窺っていると。
「ま、特に切ったら悪さするような縁でもなさそうなんで。切れ言われたら切りますけど」
あっさりと言い切る巽に、桜子はぎょっとしてしまう。巽の袖を引き、声を落とす。
「にじょ、えっと巽さん、本当に?」
「それが依頼人の希望なんやから。なんや問題あるか」
「問題って」
他人の人生を左右することを、巽はこうも簡単に決めてしまえるのか。一葉の結ぶ力は別として、縁の糸は切ってしまえば二度と同じ糸は繋げないと聞く。今旦那と芸妓の糸を切れば、ふたりは遠からず疎遠になることだろう。
縁を見る限り、不貞関係とはいえこんなに互いを必要としているのに。
それと桜子が賛成しかねる理由は、もうひとつあった。
「まあ本当ですか! 切れるのでしたら是非に」
向かいのソファでは、礼子がほっとした表情で肩の力を抜いていた。
「これでやっと煩わしい悩みから解放されますわ」
そう言う彼女から伸びる糸のうち、シャツへと絡む糸――それが黒く淀んでいることに、桜子は気づいていた。
悪縁は不幸をもたらす汚れた糸。知識がろくにない桜子でも分かる、旦那と礼子を繋ぐ糸はお世辞にも良い糸とはいえないものだ。
巽も気づいているはずだろうに、何も言わないのはどうしてなのだろうか。桜子は巽の様子をうかがいつつ、おずおずと口を開く。
「あの、礼子さま」
「あら何かしら」
「だ、旦那様と直接お話なさってみてもよろしいのではないでしょうか。今のままでは、縁切りだけしても礼子様がちゃんと幸せに……」
話もせずに相手の縁だけを切り捨てて。その先に持つ関係の中で、彼女は旦那様と向き合えるのだろうか。
必死な桜子の姿に、礼子が声を立てて笑い出した。
「うふふ、お若い貴女には分からないでしょうねぇ。こんなに素敵な殿方がいて、一緒に仕事ができるモガの貴女には」
「そ、それは」
「ご心配いただかずとも、わたくしは主人と仲睦まじい夫婦でいるつもりはございませんの。わたくしは今の生活ができればいいだけなのよ」
うっそりと笑う礼子に、桜子は言葉を失った。
つまり――芸妓を排除するのは、旦那の心を取り戻すためではなく、向こうになびいて礼子を捨てないようにするため? 夫婦として生活をしていても、情は湧かないものなのだろうか。
「それで、礼子さまは本当に――」
「申し訳ありませんね奥様。まだまだ不慣れな子なもんで」
桜子の言葉を遮るように、巽の手がぱっと手を離した。彼の補助を失った桜子の視界から、全ての糸がかき消えていく。口をつぐんだ桜子を巽は一瞥し、礼子に穏やかな笑みを浮かべる。
「それで? 切るっちゅー方向でええんですか」
「ええ。お願いしますわ」
巽がソファの脇に立てかけてあった太刀を手に取り、抜刀する。何も視えない桜子は、ただ置物のように突っ立っていることしかできない。
巽のように糸が視えない。礼子のように人生経験もない。
今の桜子は、彼らに口を出す権利など何一つ持ち合わせていないのだ。
理解してしまうと、桜子は急に自分が恥ずかしくなった。屋敷の中にいた時の無力感とは違う、外や人を知らないことへの羞恥だった。腹の中をぐるぐると苦いものが渦巻いていく。
目の前では、太刀を軽く振り抜いた巽が礼子に向き直っていた。
「今切ったんで、しばらく様子見てもろていいですか」
「ありがとうございます、二條様」
「ほな、依頼料の方なんですけど」
納刀しかけた巽が突如動きを止めた。しばし空中を見ていたかと思うと、ハッとした顔で桜子を振り返る。
「桜子さん! ソレあかん!」
「……え?」
巽に腕を掴まれる。
プツン、と。
自分の中で何かが切れるような感覚があった。と同時に、前触れなくテーブルの上の湯飲みが派手な音を立てて砕け散った。礼子が悲鳴をあげ、ソファから立ち上がる。
「い、今なにが!?」
怯えと混乱に染まった礼子の視線が、落ち着きなく宙をさまよう。桜子は顔から血の気が引いていくのを感じた。
「あ……ごめん、なさい……」
「やあ、驚かせてしもて申し訳ありません。縁の糸切ると、たまーにこういうことが起こるんですわ」
巽が取りなすように礼子へ頭を下げている。巽の声音は一見落ち着き払っているが、桜子には場を取り繕うためのものにしか聞こえなかった。
――疫病神。
身体が芯から冷えていく。『またあの子のせいで』『厄介者のくせに』――かつて自分を罵った人たちの声が、頭の中を黒く塗りつぶしていく。
なぜだか、巽のそばでは悪いことは起きないような気がしていた。道枝を出たのだから少しは変化があるのかもしれない。強い力を持つ人のそばにいればきっと大丈夫だ、と。
すれ違いざまに巽がちらりと視線を寄越してきたが、彼がどんな顔をしているのか、桜子は見る勇気が湧かなかった。
自分が本当に変わらないと、何も変わらない。勘違いをしてはいけない。今も自分は誰にも触れられない冬の中にいるのだ。
桜子は唇を噛み締めて俯いた。




