春雷
このまま雪に解けて消えてしまいたい。
何度も雪に足を取られながら、桜子は朝靄に煙る白銀の庭を駆ける。
「お願い誰か……っ」
逃げなければ。誰にも見つからないところへ。捕まる前に。
耳の奥にまだ異母妹の嘲笑がこびりついていた。足袋に雪水が染み込んで、あっという間に足先の感覚がなくなっていく。
門まであと少し――桜子が切れる息を吐き出した、その時。
「なあ、お嬢さん。その結婚、止めとった方がええよ」
やおら掛けられた声に桜子はびくりと肩を震わせる。
見れば目の前、雪で濡れる棟門の陰に見知らぬ男が立っていた。
歳は二十代中ごろか。すらりとした痩身に洋装がよく映える、目を惹く美丈夫だった。気怠げな目許に掛かる、癖のある前髪が妙に艶めかしい。
「ど、どなたですか」
男の羅紗の外套が寒風に揺れる。桜子が怖じて後退れば、婚姻のためにと着込んだ色打掛が扇のように雪の上へ広がった。
「まともな人間やったら、そないな縁談、普通受けへんよ」
西の言葉――ゆったりとした耳馴染みのいい声が鼓膜を揺らす。男の色素の薄い茶がかった瞳が、驚愕に見開かれる桜子の目を無感情に射抜いていて。
「どうして、それを」
桜子なんて春めいた名前を嘲笑うかのように、自分の人生はいつも冬の中にあった。
いつも独り、居場所なんてどこにもなくて。
だから今回の結婚で、ようやく人生に春光が差すのだと思っていた。こんな自分でも少しは幸せになれるのだと信じたかったのに。
桜子は震える喉を引きつらせる。
「無理なのです。知っていたとしても、私ではもうどうにもならないんです。だから……っ」
「ああ成る程、気付いてはったんや。どないしたん。婚前逃亡でもしはったん?」
男はおかしそうに肩を揺らした。
「助けてほしいんやったら、その縁の糸、僕が全部切ったろか?」
外套に隠れて気づかなかったが、よく見ると男は腰に太刀を佩いていた。
この文明開化のご時世に刀を持てる人間がいるとすれば、それは――。
気づけば男が目の前に迫っていた。口を開くいとまも与えられず、鞘から引き抜かれた白刃がすらりと桜子の眼前で煌めいた。
桜子は太刀を振り上げる男の姿を、ただ呆然と見上げることしかできない。
これが全ての終わりであり、全てのはじまりだなんて――この時の桜子は知る由もなかった。
新作になります。
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