9.怪しい影
ああ、やってしまったと凌介は頭を抱えながら教室へと駆ける。文歌の大人の対応に対し、自分はあまりにも子供過ぎた。
(だって、仕方がないじゃないか……!)
文歌を今の環境から救うには、正面からぶつかるしかないと思ったのだ。あそこまで正義感に満ち溢れた人に、小細工は通用しない。そう判断した結果が正面からの告白だった。
「へへ……」
それにしたってニヤけてしまう。文歌は最後に言ったのだ──自分も、凌介のことが好きだと。揶揄われているのかもしれない。けれど、別にそれでもよかった。彼女を劣悪な環境から救うことができるのなら、騙されたまま卒業し、俵からの逃亡の末に捨てられても。
きっと文歌はどこに行っても引く手あまただろう、逃亡の末──いや、待たせてしまっている間にもふさわしい人を見つけて自分から離れて行く可能性だってある。できれば自分の手で彼女を幸せにしたい。けれど凌介は文歌を待たせる身。彼女が離れていっても文句は言えない。
つまるところ、文歌が幸せならばそれでいいのだ。
廊下にはもう誰もいない。やっとの思いで教室に辿り着くと、荒い息のまま席についた。振り返って時間割を確認すると、一限目は古典だった。至福の時間の始まりだ。
◇
一限目開始時間になると、颯爽と現れた文歌に教室内がざわめき立つ。これは授業の度に起こる現象だった。どうやら彼女の笑顔は誰でも平等に心を奪うらしい。
文歌の授業はわかりやすかった。彼女の性格や容姿も手伝って、授業のあとには必ず生徒に囲まれるほど、彼女は人気者だった。
「先生〜! ここの現代語訳がわかりません」
「そこ、今授業でやったばかりよ?」
「先生に見惚れて聞き逃したのかも」
「先生は彼氏とかいるんですか?」
際どい質問に凌介はぎょっとして顔を上げる。壇上の文歌は表情を崩すことなく、笑顔で男子生徒の質問を受け流していた。
「先生に彼氏がいないんなら、俺立候補してもいいでですか?」
「なら俺も!」
「俺もっ!」
「はいはい」
数多の告白を片手で制しながら、時間がないからと言って文歌は教室から出て行った。彼女の姿が見えなくなると、囲っていた男子生徒たちは教室の隅の方で談笑を始めた。
「文歌先生マジで可愛いよな」
「可愛いしエロいよな」
凌介の席は最後尾の隅だ。教室内の内緒話が耳に入って来やすい、嫌な場所だった。英単語帳を捲りながら、男子生徒たちの話が終わるのを黙って待つしかない。
「細いのに胸はあるよな」
「尻もな」
「大人の女って感じでいいよなあ」
惚れた女性が性的対象として見られることが実に腹立たしいが、凌介自身も声に出さないだけで彼らと似たようなものだった。文句は言えない。
「付き合いたいよな〜」
「わかる」
「ヤリて〜」
「わかる〜!」
人気者に惚れた身は辛い。後ろで盛り上がる下品な話はどんどん盛り上がり、三人は放課後に文歌を呼び出すことを決めたようだ。適当に嘘をついて呼び出す作戦を、あれやこれやと意見を出して練っている。
(先生、部活があるから会えないと思うんだけどな)
凌介の記憶が正しければ、この三人は部活動に所属していない。吹奏楽部の練習が終わるのは遅いと聞く。
(こんな中途半端な気持ちの奴らが、遅くまで待てるわけない)
部活前の文歌に断られて終わるに決まっている。そう決めつけて、凌介は英単語帳から顔を上げなかった。
◇
凌介が早々に下校した直後のこと。文歌を呼び出す算段を立てていた生徒の一人──安藤は、音楽準備室へと向う文歌の背を見つけて声をかけた。
「先生! 佐崎先生!」
「どうかした?」
立ち止まり、くるりと振り返った文歌の長い髪が揺れる。眼帯は取れないままなので、しっかりと振り返らねば呼び止めた生徒の顔が完全に見えないのだ。
(この子……確か)
授業をまともに聞いていない印象が強いのに、授業の終わる度に熱心に質問をしてくる不思議な男子生徒だ。
(教師としては、もう少し授業を聞いてほしいのよね……)
今日も安藤は授業のあと文歌を囲ってきて、「見惚れていて聞いていなかった」とわけのわからないことを言っていた。
「仲村先生が、呼んでいます。第二選択教室で手伝ってほしいことがあるって」
「そう、ありがとう」
「部活動には遅れるって伝えて来ましょうか? 俺、吹部の奴と友達なんで」
「助かるわ」
前を向いて歩き出した文歌は、安藤の顔がにやりと歪んだことに気が付かない。
第三校舎にある第二選択教室は、第一校舎の音楽室からは遠い。一つ二つと階段を降り、校舎を抜ける。第三校舎は使われていない教室が多く、人けがなく暗い。今現在使われている教室は無さそうなほど、静まり返っていた。
(トランペットの音……)
吹奏楽部は練習を開始したようだ。文歌がおらずとも今日は顧問もいるので、心配することはなさそうだった。
「仲村先生、佐崎です」
呼び出された第二選択教室の戸をノックするが返事がない。廊下に人けもなく、中で待てばよいと判断した文歌は戸を開けた。
「仲村先生?」
カーテンが閉じられ、電気もついていない室内は薄暗く埃っぽい。綺麗に並べられた長机の上には埃が薄っすらと積もっていた。
「……っ!?」
室内に踏み込んだ瞬間、戸が閉められ後ろ手に拘束された。一人が腕を抑え、一人が布のようなもので文歌の手首を縛り上げる。
「あなた達……!」
見覚えのある生徒だ。三年一組──凌介と同じクラスの伊藤と岡藤という男子生徒だ。
「先生、勉強を教えてほしいんです」
縛り上げた文歌を壁際へと引っ張りながら口を開いたのは伊藤だ。
「勉強? 勉強を教えるのに腕を縛り上げる必要はあるのかしら」
「ありますよ。抵抗されたら困ります」
「抵抗?」
伊藤は正面から文歌の肩を押し、岡藤が後ろから肩を引いて教室の隅へと追いやった。小柄な文歌を見下ろすように、二人の男子生徒は嫌な笑みを浮かべている。
「私が教えられるのは古典か音楽……現国ってところよ? これは何のつもり?」
「本当にそれだけですか?」
伊藤は鞄から複数の教科書を取り出し、順々に文歌に見せつけた。
「現国……古典……数学……化学に物理……英語……音楽……それに……保健体育」
最後の一冊のページが、大きく開かれる。文歌の目の前に突きつけられたページを、後ろの岡藤が凝視した。
「あ〜これこれ! 先生、ここを教えて欲しいんです」
「そうそう。教科書だけじゃわからないことってありますよね」
「あなたたち……!」
怒りのせいか、文歌の顔が赤く染まってゆく。それを面白がった岡藤が、文歌の頬を片手で鷲掴みにした。
「先生、教えてくれますよね?」
「やめなさい、受験前なのに……まだ引き返せるわよ」
「先生が黙ってくれてれば問題ないですよ」
「あのね──っ!?」
髪の毛が引っ張られている。文歌の髪を乱暴に掴んだ伊藤が、毛先を鼻に押し当てて香りを嗅いでいた。
「やべえ、めっちゃいい匂い」
「俺も!」
「ちょ……!」
悪寒が走り、文歌の全身が硬直する。良介に殴られる時と同じ、嫌な悪寒だ。
「誰か!」
こんな人けのない場所で声を上げても無駄なことはわかっている。二人は文歌の大声に怯んで逃げる様子もない。
「あれ、先生泣いてます?」
「かわい〜!」
「大丈夫です、優しくしますから」
「いや……!」
伊藤の手が文歌の体に伸びる。指先が触れた、その時だった。
「何やってんだ!」
教室の扉が開き、外で見張っていた安藤が床に転がった。助けに来てくれた人物の姿が、文歌の目に飛び込む。




