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恋に落ちる、音がしたんだ  作者: こうしき


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8.二つの約束

 嬉しかった。けれどそれを言葉にすることは許されるはずなどなくて。

 ベランダの戸を締め切り、膝を立てて縮こまる。六つも歳下の生徒からの求愛を素直に受け入れる教師など、あってはならない。彼を一人の男として見ているだなんて、口が裂けても言えるわけがない。


 彼がどれだけの勇気を振り絞って気持ちを伝えてくれたのか──考えただけで、胸の奥のほうが苦しくなった。こんな感覚は初めてのことだった。良介はあんな風に、気持ちをはっきりとは伝えてくれなかったから。


 だから惹かれてしまったのかもしれない。誰からも愛されている自覚のなかった私には、彼の言葉はとびきり心地の良いもので。


 きっと──多分──いや、違う。私も彼が好きなのだ。もう、認めるしかない。


「好き……なのね……彼が……凌介くんのことが」


 声に出してしまえば案外すっきりとするもので、心のモヤが晴れたようにスッと胸が軽くなった。


 しかし問題は山積している。良介から逃げることができるとは思えないし、凌介くんが私から離れていかない保証なんてどこにもなかった。多感で年上の女に憧れる時期だ。大学に行ってしまえばきっとすぐに他の子を好きになる。

 

 それでも、待っていて下さいという言葉が本当に嬉しかったのだ。


(明日……もう少し話してみようかな)


 凌介くんの赤く染まった顔が目に浮かんだ。


 頬の肉が緩んだその時、玄関の戸がガチャリと開いた──良介だ。機嫌が良ければ殴られずに済むが、機嫌が悪ければ殴られる。こういう時はベッドに滑り込んで寝たフリをするに限る。


「おい文歌、起きてるんだろ?」


 慌ててベッドに潜り込んだ私の上に、良介が覆い被さった──酒臭いったらない。眉間に皺を寄せながらゆっくりと目を開けると、歪んだ唇が私の視界を支配した。



 翌朝。


 きっと凌介くんのことだから、私が貸した枕草子を一晩で読み終わるだろうと予想していた。そうすれば恐らくは返しに来る……音楽準備室まで。


 期待しながら待っている自分があまりにも恥ずかしかった。私は生徒からの求愛を受け入れようとしているのだ、あまりにも馬鹿馬鹿しい話だ。

 

 けれど昨夜良介に抱かれて改めて思ったのは、一刻も早くこの環境から抜け出したいということだった。何度警察に相談しても駄目だった。逃げたって追いつかれていつも終わる。意味なんてなかった。それならば──あまりにも他力本願すぎるけれど──……誰かが助けてくれるのと待つしかないじゃない。


 音楽準備室の椅子に座り、ぼんやりと窓の外を眺める。登校してくる生徒はまだ疎らだ。そうこうしている内に、音楽準備室の戸がノックされた。


「はい」

「須々木です」

「どうぞ」


 期待している自分に心底吐き気がした。教師失格だ。


「そっか……失格なら、辞めればいいのね」

「え?」

「おはよう、凌介くん」


 名前を呼ぶと、凌介くんは耳まで真っ赤に染まった。頭のてっぺんから湯気が出そうなほどに赤い。私、これじゃあ生徒を誑かす悪い女教師ね。


「……おはようございます」

「何か用かな」

「昨日の話の続きに来ました」


 どうやら凌介くんは入口の戸を内側から施錠したようだ。初回といい、随分と用心深い子だ。


「まだ続きがあったんだ」

「先生、俺の進路知ってますか?」

「いいえ?」


 私の受け持ちは一年生の副担任だ。全学年の古典の授業は受け持っているが、進路までは把握していない。


「A大学の医学部を受験します」

「へえ、すごい」

「将来は医療関係を志しています」

「立派ね」


 私の淡々とした答えが気に食わないのか、凌介くんは私との距離を詰める。机の目の前で立ち止まると、真剣な眼差しで見つめてくる。


「先生、さっき辞めればいいのねって言いましたよね」

「そうね」

「俵から逃げるためにも、教職を辞めるのは有りだと思います。二人で県外に逃げて……俺、先生のこと養います。だから──」

「頭はいいのに随分と楽観的ね」


 ああ、傷つけてしまった。大きく見開かれた凌介くんの目に絶望の色が差す。


「……あの男からどうやって逃げるというのよ」

「それは……」

「あの人、どうやってもDVを認めないいわよ」

「でも、このままじゃ先生が……! そうだ、俺が両親を説得します。大人の味方が増えればDVだって──」

「君のご家族を巻き込むなんてできるわけないでしょう?」


 良介とのことは私個人の問題。他人の家族を巻き込むだなんてできるはずがない。


「それでも俺は……先生の味方でありたいんです!」


 伸びてきた両手が私の肩を掴む。大人みたいに大きな手……振り払うのは難しそうだ。


「どうして私にこだわるの?」

「好きだからに決まってます」

「一時の気の迷いかも」


 教育実習でお世話になった学校でも、前に勤めていた学校でもこういう生徒はいたのだ。恋人になってほしいと告白してくる生徒を何人追い返しただろう。全員が全員、無理矢理体に触れようとしたり、脅してきたり。


 けれど凌介くんは、私を脅すどころ救おうとしてくれている。それが堪らなく私の胸を温めた。


「そんなことありません。ここで見て見ぬふりをしたままなのは、後悔すると思ったんです。その時気が付きました」

「何に?」

「先生のことが、好きだって」


 今まで、凌介くん以外からこんな目で見つめられたことがあっただろうか。記憶にない熱烈な告白に、私の心はあっさりと傾いてしまう。


「後のことはどうにでもなる。一緒に逃げましょう、先生」

「……そうね」

「先生?」

「本当はね……嬉しかったの。今の環境から逃げ出せるかなんて、考えたこともなかったから。でもね……」


 私の肩に乗ったままの凌介くんの手を、そっと握りしめた。ほんのり温かくて、ちょっとだけ乾燥した、男の子の手だ。


「君が救いたって言ってくれたのが……嬉しくて」

「本気ですよ、俺。ちゃんと約束します……先生を守ります。ずっと傍にいます」

「……信じて、待ってもいいのかな」


 我ながら、なんて酷い返事。私は教え子の甘言に甘えて、最悪な環境から逃げようとしている駄目な教師だ。


 凌介くんは意味がわからないといった様子で、固まってしまった。無理もない。私だって生徒からの求愛を受け止めることになるだなんて、考えたこともなかったのだから。


「本気で言ってます?」

「あら、告白してくれたのは嘘だったの?」

「んなわけ──!」


 身を乗り出した凌介くんの顔が不意に迫った。慌てた様子の彼は大袈裟に後退した。


「約束します。卒業するまで、俺が触れるのは先生の手だけです」

「随分と紳士的ね」

「こんな関係、バレたらどうなるかくらいわかっています。それに……」

「それに?」

「一度触れたら、歯止めが利かなくなる」


 一瞬だけ垣間見えた男の顔に、飲み込まれてしまいそうになる。今のは、男子高校生がしてもいい表情ではなかったと思う。


「絶対に触れませんから」

「学校でも、家でも?」

「当たり前です」


 交際初日に無理矢理私を組み敷いた良介とは大違いだ。真っ直ぐで綺麗な凌介くんの瞳は、私を泥沼の地獄から引き上げてくれる神のように見えた。


「そろそろ教室行きますね」

「ええ。あ……枕草子は読めた?」


 お願いもう少しだけ。もう少しだけ声を聞いていたい。普段堪えてばかりいるのだから、お願い……わがままを許してほしい。


「それが……冒頭は読んだんですけど、先生のことを考えてたら集中できなくて」

「……そ。ゆっくり読んでいいから」

「ありがとうございます」

「それからもう一つ」


 立ち上がり、凌介くんの正面へ。不思議そうな彼の肩にそっと触れ、耳元に唇を寄せて囁いた。


「私も君のこと、好きだからね」


 ああ、言ってしまった。許されない言葉に、口の中が苦くなる。


 出会った時、私たちは教師と生徒ではなかった。お互いの関係を知らないまま、惹かれ合ったのだ。そんな言い訳を並べたところで、この罪が許される訳ではないのだけれど。


 予鈴が鳴り響く。私の手をそっと払った凌介くんは、顔を伏せたまま準備室を飛び出していた。


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