8.二つの約束
嬉しかった。けれどそれを言葉にすることは許されるはずなどなくて。
ベランダの戸を締め切り、膝を立てて縮こまる。六つも歳下の生徒からの求愛を素直に受け入れる教師など、あってはならない。彼を一人の男として見ているだなんて、口が裂けても言えるわけがない。
彼がどれだけの勇気を振り絞って気持ちを伝えてくれたのか──考えただけで、胸の奥のほうが苦しくなった。こんな感覚は初めてのことだった。良介はあんな風に、気持ちをはっきりとは伝えてくれなかったから。
だから惹かれてしまったのかもしれない。誰からも愛されている自覚のなかった私には、彼の言葉はとびきり心地の良いもので。
きっと──多分──いや、違う。私も彼が好きなのだ。もう、認めるしかない。
「好き……なのね……彼が……凌介くんのことが」
声に出してしまえば案外すっきりとするもので、心のモヤが晴れたようにスッと胸が軽くなった。
しかし問題は山積している。良介から逃げることができるとは思えないし、凌介くんが私から離れていかない保証なんてどこにもなかった。多感で年上の女に憧れる時期だ。大学に行ってしまえばきっとすぐに他の子を好きになる。
それでも、待っていて下さいという言葉が本当に嬉しかったのだ。
(明日……もう少し話してみようかな)
凌介くんの赤く染まった顔が目に浮かんだ。
頬の肉が緩んだその時、玄関の戸がガチャリと開いた──良介だ。機嫌が良ければ殴られずに済むが、機嫌が悪ければ殴られる。こういう時はベッドに滑り込んで寝たフリをするに限る。
「おい文歌、起きてるんだろ?」
慌ててベッドに潜り込んだ私の上に、良介が覆い被さった──酒臭いったらない。眉間に皺を寄せながらゆっくりと目を開けると、歪んだ唇が私の視界を支配した。
◇
翌朝。
きっと凌介くんのことだから、私が貸した枕草子を一晩で読み終わるだろうと予想していた。そうすれば恐らくは返しに来る……音楽準備室まで。
期待しながら待っている自分があまりにも恥ずかしかった。私は生徒からの求愛を受け入れようとしているのだ、あまりにも馬鹿馬鹿しい話だ。
けれど昨夜良介に抱かれて改めて思ったのは、一刻も早くこの環境から抜け出したいということだった。何度警察に相談しても駄目だった。逃げたって追いつかれていつも終わる。意味なんてなかった。それならば──あまりにも他力本願すぎるけれど──……誰かが助けてくれるのと待つしかないじゃない。
音楽準備室の椅子に座り、ぼんやりと窓の外を眺める。登校してくる生徒はまだ疎らだ。そうこうしている内に、音楽準備室の戸がノックされた。
「はい」
「須々木です」
「どうぞ」
期待している自分に心底吐き気がした。教師失格だ。
「そっか……失格なら、辞めればいいのね」
「え?」
「おはよう、凌介くん」
名前を呼ぶと、凌介くんは耳まで真っ赤に染まった。頭のてっぺんから湯気が出そうなほどに赤い。私、これじゃあ生徒を誑かす悪い女教師ね。
「……おはようございます」
「何か用かな」
「昨日の話の続きに来ました」
どうやら凌介くんは入口の戸を内側から施錠したようだ。初回といい、随分と用心深い子だ。
「まだ続きがあったんだ」
「先生、俺の進路知ってますか?」
「いいえ?」
私の受け持ちは一年生の副担任だ。全学年の古典の授業は受け持っているが、進路までは把握していない。
「A大学の医学部を受験します」
「へえ、すごい」
「将来は医療関係を志しています」
「立派ね」
私の淡々とした答えが気に食わないのか、凌介くんは私との距離を詰める。机の目の前で立ち止まると、真剣な眼差しで見つめてくる。
「先生、さっき辞めればいいのねって言いましたよね」
「そうね」
「俵から逃げるためにも、教職を辞めるのは有りだと思います。二人で県外に逃げて……俺、先生のこと養います。だから──」
「頭はいいのに随分と楽観的ね」
ああ、傷つけてしまった。大きく見開かれた凌介くんの目に絶望の色が差す。
「……あの男からどうやって逃げるというのよ」
「それは……」
「あの人、どうやってもDVを認めないいわよ」
「でも、このままじゃ先生が……! そうだ、俺が両親を説得します。大人の味方が増えればDVだって──」
「君のご家族を巻き込むなんてできるわけないでしょう?」
良介とのことは私個人の問題。他人の家族を巻き込むだなんてできるはずがない。
「それでも俺は……先生の味方でありたいんです!」
伸びてきた両手が私の肩を掴む。大人みたいに大きな手……振り払うのは難しそうだ。
「どうして私にこだわるの?」
「好きだからに決まってます」
「一時の気の迷いかも」
教育実習でお世話になった学校でも、前に勤めていた学校でもこういう生徒はいたのだ。恋人になってほしいと告白してくる生徒を何人追い返しただろう。全員が全員、無理矢理体に触れようとしたり、脅してきたり。
けれど凌介くんは、私を脅すどころ救おうとしてくれている。それが堪らなく私の胸を温めた。
「そんなことありません。ここで見て見ぬふりをしたままなのは、後悔すると思ったんです。その時気が付きました」
「何に?」
「先生のことが、好きだって」
今まで、凌介くん以外からこんな目で見つめられたことがあっただろうか。記憶にない熱烈な告白に、私の心はあっさりと傾いてしまう。
「後のことはどうにでもなる。一緒に逃げましょう、先生」
「……そうね」
「先生?」
「本当はね……嬉しかったの。今の環境から逃げ出せるかなんて、考えたこともなかったから。でもね……」
私の肩に乗ったままの凌介くんの手を、そっと握りしめた。ほんのり温かくて、ちょっとだけ乾燥した、男の子の手だ。
「君が救いたって言ってくれたのが……嬉しくて」
「本気ですよ、俺。ちゃんと約束します……先生を守ります。ずっと傍にいます」
「……信じて、待ってもいいのかな」
我ながら、なんて酷い返事。私は教え子の甘言に甘えて、最悪な環境から逃げようとしている駄目な教師だ。
凌介くんは意味がわからないといった様子で、固まってしまった。無理もない。私だって生徒からの求愛を受け止めることになるだなんて、考えたこともなかったのだから。
「本気で言ってます?」
「あら、告白してくれたのは嘘だったの?」
「んなわけ──!」
身を乗り出した凌介くんの顔が不意に迫った。慌てた様子の彼は大袈裟に後退した。
「約束します。卒業するまで、俺が触れるのは先生の手だけです」
「随分と紳士的ね」
「こんな関係、バレたらどうなるかくらいわかっています。それに……」
「それに?」
「一度触れたら、歯止めが利かなくなる」
一瞬だけ垣間見えた男の顔に、飲み込まれてしまいそうになる。今のは、男子高校生がしてもいい表情ではなかったと思う。
「絶対に触れませんから」
「学校でも、家でも?」
「当たり前です」
交際初日に無理矢理私を組み敷いた良介とは大違いだ。真っ直ぐで綺麗な凌介くんの瞳は、私を泥沼の地獄から引き上げてくれる神のように見えた。
「そろそろ教室行きますね」
「ええ。あ……枕草子は読めた?」
お願いもう少しだけ。もう少しだけ声を聞いていたい。普段堪えてばかりいるのだから、お願い……わがままを許してほしい。
「それが……冒頭は読んだんですけど、先生のことを考えてたら集中できなくて」
「……そ。ゆっくり読んでいいから」
「ありがとうございます」
「それからもう一つ」
立ち上がり、凌介くんの正面へ。不思議そうな彼の肩にそっと触れ、耳元に唇を寄せて囁いた。
「私も君のこと、好きだからね」
ああ、言ってしまった。許されない言葉に、口の中が苦くなる。
出会った時、私たちは教師と生徒ではなかった。お互いの関係を知らないまま、惹かれ合ったのだ。そんな言い訳を並べたところで、この罪が許される訳ではないのだけれど。
予鈴が鳴り響く。私の手をそっと払った凌介くんは、顔を伏せたまま準備室を飛び出していた。




