7.愛の告白
私には、人を見る目がなかったのだと思う。
だからあんな男の本性も見抜けずに、同棲までしてしまって。あの男の本当の目的の一番はうちの実家の資産で、二番目は私という玩具を好きにすることであると知った時にはもう手遅れだった。
全てを諦めるにはまだ若いと自分に何度も言い聞かせた。大学を卒業してまだ二年。一人でも生活がしていけるように教員免許だってとった。頭を下げれば、実家の親も少しは助けになってくれるかもしれないけれど、望みは薄かった。
そんな時、引っ越した先で面白い少年と出会った。顔だって知らない、最初は名前すら知らなかった。私が知っているのは彼の優しく気遣いのできる声と、低くて包み込むような笑い声だけだった。
たったそれだけのことだというのに、気がついた時には彼に惹かれ始めていた。理由は簡単だ──私の心が酷く弱っていたから。昔、良介に言い寄られたときもそうだった。親から受けた愛情の乏しい私は、心が弱ると誰かに依存してしまう。それが積み重なる頃には相手に心底惚れ込んでしまっているのだから、我ながら本当に救いようがない。
彼が年下の学生だって、最初からわかっていたのに。良介の支配から逃れたくて……現実から目を逸らしたくて、私は隣家の彼にどんどん惹かれていった。
それがまさか自分の生徒だったなんて。
教師が生徒と、だなんて駄目だということくらい理解している。私だってそこまで子供じゃない。それなのに、この身体の痛みと胸の苦しみを知っているのは彼だけだという事実が、私の胸の奥で疼き熱を持つのだ。
良介から受けている暴力については、誰にも話していなかった。それを思いがけず知られてしまったということになんとなく安堵してしまった。
──もしかしたら、この地獄から私を救ってくれるかもしれない、だなんて意味もない期待を隣家の年下の男の子に持つのは間違っている。わかっている。わかっているはずだったのに……あんな風に助けられてしまえば、惚れるなと言われても難しい。単純でおめでたい自分が嫌になる。
彼は私の悲惨な現状を理解してくれようとしている。それが伝わってきた時、バカバカしいことに……どうしようもなく胸が踊ったのだ。跳ね除けることは簡単なのに、できなかった。自分の弱さを恨んだ。
ずっと、私のことを理解してくれる人なんていないと思ってた。けれど彼の目は真っ直ぐに私の内部までをも見つめて、包みこんでくれているようで。
けれど──いくら手を差し伸べてくれても、もう手遅れなのだ。良介は私に逃れられない呪いを植え付けたのだから。
この呪いは断ち切れない。恨めしさは日に日に募るが、私は自分の腹を撫でることしかできない。
◇
帰宅した凌介は、そわそわと落ち着かないまま夜の八時になるのを待った。待つ間に宿題と夕食と入浴を済ませたが、勉強には集中できないし料理は焦がす。その上入浴中にぼんやりとしすぎて、頭を二度も洗ってしまった。
時計の針が八時を差す。大きく息を吐き出すと、ベランダの戸をゆっくりと開けた。
「……」
隣家から文歌の息遣いが聞こえてくる。自然と胸が高鳴ってゆく。欄干に手をかけると、意を決して自分から声をかけた。
「……先生、こんばんは」
「こんばんは」
学校でおかしなことを言ってしまったせいだろうか、。なんとなく気まずい気がして言葉に詰まってしまう。聞きたいことはたくさんあるというのに。
「ね。先生って呼ばないでほしいわ」
「え……?」
「学校じゃないもの。この場でだけは先生と呼ばないでほしいの」
もしかして名前で呼ぶ許可を得たのだろうか──と考えているうちに、文歌が小さく笑った。
「おねえさんのままでいいわよ」
「あ……ですよね」
関係が発展していると調子に乗ってしまった自分が恥ずかしかった。
「今朝、君が聞きたがっていたことを話すわ」
凌介は文歌に聞こうとしたのだ──俵との関係を。子供の自分が介入すべき問題ではないことくらい理解できていたし、するつもりもなかった。
けれど、文歌の辛そうな顔を見ていられなかった。
「俵良介は、私の恋人。ここに越して来ることを知って、転がり込んできたの」
「転がり込んできた……?」
「ええ。家賃が払えないんですって。彼、ギャンブル好きみたいで。夜も飲み歩いてばかりで」
絞り出すように文歌は言うと、一度大きく息を吐き出した。凌介は黙って彼女の言葉を待った。
「昔はこんな人じゃなかったのよ? ううん……違うか、良介は最初からお金目当てで私に……」
「お金……?」
「ええ。私の実家が少し、ね」
「お金……じゃあなんで、俵は文歌さんを殴るんですか……!」
お金以上に、俵が文歌を殴っているという事実が許せないのだ。
「ふふ。文歌さんって」
「あ……! すみません!」
「いいわよ、別に」
子供を慰めるような言い方に、凌介は耳まで真っ赤になってしまった。壁を挟んでいて本当に良かったと思う。
「どうして殴るのかしらね……楽しいのかしら?」
「は……?」
「それともストレス発散?」
「あり得ない……!」
「多分理由なんてないのよ」
今すぐこの壁を乗り越えて、文歌を抱きしめたいという感情に飲み込まれる。彼女は強がっている様子ではあるが、毎日のようにあんなに暴力を振られて辛くないはずなどないのだ。
「誰かに相談とかは?」
「知っているのは君だね」
「……そうですか」
握りしめた拳の中で、何かが燃えているような感覚だ。自分だけに許された、彼女を守れる特権が熱を持ち始めたのだろうか。使命感が芽生え、凌介は奥歯を噛み締める。
「おねえさん。拐ってって言ったこと、覚えていますか?」
「あら、おねえさんなのね」
「揶揄わないで下さいよ。さっきは少し……カッとなっただけです」
「君は私なんかのためにカッとなってくれるのね……」
「私なんかのためにだなんて、そんな……!」
文歌は何故ここまで自己肯定感が低いのだろうか。毎日のように暴力を振るわれて、壊れてしまったのだろうか。
凌介にはわからない。知らないことだらけなのだ。
「そんな言い方しないで下さい。おねえさんはカッコよくて……可愛らしい、魅力的な人です」
「ありがとう。でもあまり大人を揶揄っては駄目よ?」
「俺は本気ですよ?」
この気持ちは紛れもなく恋であり、愛である。あの時聞こえた耳の奥の音は、今でも鮮明に思い出すことができる。人が恋に落ちる瞬間なんて、ほんの一瞬なのだ。
「おねえさん……いえ、文歌さん。俺は本気です。卒業まで待っててくれませんか?」
我ながら突拍子もない言葉が出たものだ。しかし本気だった。卒業すれば、教師と生徒という関係は終わりを迎える。そうなれば異を唱える者は格段に減るだろうと。
「拐ってって言葉も、あなたが冗談だったとしても。俺は本気ですよ」
「……そんな、だって……! いくつ歳が離れてると思って……!」
必死に訴える文歌が、欄干から少しだけ身を乗り出した。夜風に拐われた長い髪が、凌介の視界に入り込んだ。
「おねえさんはいくつですか?」
「二十四だけど……」
「たった六つです。俺が大学を卒業して就職しても……文歌さんは二十九ですよ?」
二人を隔てる壁ギリギリに、凌介は身を寄せた。文歌に向ってそっと腕を伸ばし、小さく声をかけた。
「好きです、先生」
「……っ!」
胸に秘めておこうと思っていた言葉は、案外あっさりと口から滑り落ちた。ここまで言ってしまえば、突き進むしかなかった。
「必ず救います。だから……」
「もう止めて? 馬鹿げているわ」
「そんなこと……!」
「おやすみなさい」
逃げるように言い捨てた文歌は、そのまま室内へと姿を消してしまった。




