6.互いの正体
気持ちの切り替えはできたと思う。思いがけないところで名前を知ってしまった彼女──フミカに会っても、動揺しない自信が凌介にはあった。
いつもより一時間早く家を出て、学校へと向う。フミカは「朝練をしている部員がいても気にしなくていい」と言っていたが、できれば鉢合わせたくなかった。
校門を抜け駐輪場に自転車を止めると足早に音楽準備室へと向う。途中ふと、鍵が開いていなかったらどうしようかと不安になったが、待てばいいだけだと開き直ることにした。
第一校舎の三階に辿り着く。胸は弾み、足は軽い。嬉しさのあまりニヤけてはいないだろうかと頬をつねりながら、凌介は音楽室の扉に手を掛けた。
(開いてる……)
中に滑り込むが部員の姿はなかった。並べられた机の合間を縫うように、奥へ奥へと進む。
(鍵を閉め忘れるなんて不用心だな)
壁際の棚には楽器のケースが並び、簡単に持ち出してしまえそうだ。壁に飾られた賞状をぼんやりと眺めながら、凌介は音楽準備室の前で足を止めた。
ゴクリと唾を飲み込み、優しく戸を叩く。返事はない。
「ずいぶんと早いのね」
待ちわびていた声に振り返ると、水色のアンサンブルに淡いグレーのパンツスタイルのフミカの姿。常初花のような笑みを浮かべるその手には、今朝受け取ったものと同じ本が抱かれていた。
「部員の方に会いたくなくて」
「それなら場所を変えればよかったわね」
いいながらフミカは準備室の鍵を開ける。「どうぞ」と招かれるので、彼女の背に続いて中に踏み込んで後ろ手でこっそりと鍵を締めた。
「帰るときはこっちから出るといいわ」
そう言ってフミカが指差すのは。廊下に通じる壁側の扉だった。これなら確かに誰にも遭遇せず出て行くことができる。
「ちょっと待ってね」
言いながら教員用の机につく彼女の胸元に目をやると、今日は名札がこちらを向いていた。凌介は目を見開いて名札に並んだ文字を辿った。
(佐崎……文歌……これでフミカって読むのか)
ようやく知ることが叶った彼女の名。口の中で何度も味わうように反芻していると、立ち上がった文歌が本と鍵を手にこちらへと寄ってきた。
「はい、これ。ゆっくり読んでもらって大丈夫だから」
「ありがとうございます……あの、先生」
「何?」
文歌の顔を未だに覆う眼帯や包帯がなんとも痛々しい。
「その怪我はどうされたんですか? 昨日俵先生に殴られてたものだけじゃないですよね」
「自分で言うのもアレなんだけど……私ドジでね。よく階段で足を滑らせるの」
どうしてこんなにも柔らかな顔で嘘だをつくのだろう。痛々しい笑顔に、凌介は胸が苦しくなった。彼女自身も苦しくて仕方がないはずなのに。
「どうして嘘をつくんですか」
「嘘だなんて」
「先生、俺……須々木です」
「昨日聞いたわ」
「隣の家の須々木です」
瞬間、文歌の瞳が大きく見開かれた。少しづつ血の気が引き、薄紅色の頬が蒼白になってゆく。
「スズキくんって……須々木さんのところの……?」
「そうです」
「うそ……」
白くなっていた文歌の顔が、薔薇色に染まった。小さな両手で口元を覆い隠し、その場に屈み込んでしまった。
「先生はどうして……あの時枕草子に興味がないって言ったんですか?」
「それは……!」
「文歌さんは、枕草子を愛していますよね? いつだって話してくれたじゃないですか」
「待って……ちょっと待って……!」
小さくなってしまった文歌が、いつもより魅力的に見えた。思わず抱きしめたくなる可愛さに、凌介の五指がヒクヒクと蠢いた。
「た……他人には、自分のことを必要以上に話さないようにしてるの。それで一度、トラブルになったことがあるから」
そう言われてみれば確かに頷ける。ここまで見目麗しい女性のプライベートを知ってしまえば、大胆な行動に出る者が現れても不思議ではない。
実際に凌介もそうなのだから。
「男に暴力を振るわれている私と、ラーメン屋さんでかっこよく君を助けた私が同一人物だなんてカッコ悪いわよね」
「そんなことありません!」
つい大きな声を出してしまい、凌介は目を白黒させた。一人、二人と吹奏楽部の部員が練習に来たのか、隣の音楽室から聞こえるトランペットの音に息を潜めてしまった。
「先生はかっこいいです。正しい大人です」
「ふふ。ありがとう」
文歌は間違ったことは間違っているとハッキリ言う人だ。ラーメン屋での出来事を思い出し、顔を見合わせて笑った。
「先生」
「何?」
何?と小首を傾げる文歌の仕草に凌介は毎度惚れ惚れしてしまう。幼さの残る目元だというのに、揺れる髪や少しだけ引き上がる唇が、凌介の目には妙に蠱惑的に映った。
「俵先生とは……その……」
「学校では必要以上に?」
「話さないようにしている、でしたね。すみません」
トラブルになったと言われたばかりだというのに。気持ちが先走りすぎて、どうにもならないのだ。
「先生。また明け方に……で、いいですか」
「……ええ。あ……須々木くん」
「はい?」
「私……今日は夜の八時くらいに、ベランダに居るかもしれない」
「……え?」
そう言った瞬間の文歌の表情を見ることは叶わなかった。プイと顔を逸らした彼女は、早く出て行けと言わんばかりに廊下側の戸の鍵を開けたのだ。
「本……ありがとうございました。失礼します」
「ええ」
胸の奥がモヤモヤ、ざわざわする。
(何だ……この感覚)
手の中の本を強く握り締める。頭を深く下げると、凌介は出口へと向って真っ直ぐに進んだ。




