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恋に落ちる、音がしたんだ  作者: こうしき


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3/14

3.春はあけぼの

 凌介の予想通が当たったのか、翌日の深夜にベランダに出ても彼女は姿を現さなかった。深夜に至るまでの間、彼女の頭が何度か壁に衝突するような音を聞いては、凌介は頭を抱えた。

 隣の部屋から響く、ゴン──という衝突音を聞く度に、何もできない矮小な自分が情けなかった。彼女が傷つく度に、自分は無力な子供なのだと思い知らされた。


 一旦布団に入り、朝方。もしかすると──という一縷の望みをかけて、凌介はベランダの戸を開けた。肌寒さに腕を擦り、少しでも体温を上げようと躍起になった。空はまだ薄暗く、顔を上げると──


「わ……」


 空のあまりの美しさに声を失った。こんな時間に起きることはあっても、外に出て空を見上げたのは初めてのことだった。


「ね。綺麗でしょ」

「おはようございます、早いんですね」


 嬉しさを悟られぬように、いつもの調子で言葉を返す。本当は叫びたくなるほど、感情が爆発寸前であるというのに。


「怪我、大丈夫ですか? 昨夜……酷かったから」

「ごめんなさい、いつもうるさくて」

「いや、そういうつもりで言ったんじゃ……!」


 相手の顔を見れないというのは、なんとも不便なものだ。声色だけでも十分伝わっていると思っていたのに、視線が交わらなければ、わからないことが思ったよりも多いのだ。


「それよりねえ、空……綺麗でしょ」

「まぁ……びっくりしました」

 

 東雲色の地平線から広がるのは、藤や菫の混じった見事な階調。真っ白な空の上に、天から絵の具を滲ませたような見事な色合いを一目見た時、凌介は言葉を失ったのだ。


「枕草子そのままのような空ね。さてと、もう一眠り。君は?」

「目が冴えてしまったので勉強します」

「真面目だあ」

「一応、受験生なので」

「フフ、感心だねえ」


 宿題は昨夜片付いていた。これでようやく自学に集中できる。それなのに彼女の笑い声がなんとなくくすぐったくて。


「私ね、この季節は毎朝この時間に起きて朝日を見るの」

「へぇ……」


 有益な情報に、凌介の目が輝いた。勿論、簡単に飛びつくわけにはいかない。子供っぽく見られるメリットなど、きっとなにもない。


「よかったらまたお話しましょう? 勉強の息抜きにでも」

「まぁ……時間があれば」

「ありがとう。おやすみなさい」

「おやすみなさい」


 夢のような提案に、凌介の口角が思い切り持ち上がる。しかし明け方に凌介と会話をすることが、彼女にとってなんのメリットになるのか。


 そんな事を考える余裕もないほど、今の凌介の心は舞い上がっていた。恋する相手に誘われたのだ、落ち着けと言われても無理がある。

 それから数日間、舞い上がっていることが露見せぬよう言葉を選びながら、凌介は彼女との会話を楽しんだ。



 さて、春休みは終わり今日は朝から始業式である。彼女と話したいがために始めた早起きにはまだ慣れず、今朝は遅刻寸前だった。風光る春を楽しむ余裕もないまま、凌介は通学路を走った。

 眠気と欠伸を連発しながらの始業式は八割方記憶がなく、食べそびれた朝食を求めて腹の虫がやかましい。


(腹に何か入れないと無理だ……)


 フラフラの状態で帰宅しようと思えばできたかもしれないが、今日の凌介には重大なミッションがあった。まだ帰宅するわけにはいかない。


 通学する学校から一番近い飲食店は、校門を出て右斜め前にあるラーメン屋だった。去年開店したばかりだが、味はなかなか好評だ。空腹にダイレクトに届く豚骨スープの匂いに誘われて、凌介は暖簾を潜る。


「いらっしゃいませー」


 間延びした店主と思しき男の声に会釈をし、カウンター席の最後の一つに滑り込む。四つあるテーブル席は一つしか埋まっていないが、カウンター席はこれで満員だ。注文をして約五分、「お待たせしました」と目の前に置かれたどんぶりに胡椒をふりかけようと、凌介は銀色のボトルを手に取った。


「あ……嘘ぉ……」


 目の前のラーメンどんぶりからは、ほわりと熱い湯気が立ち上る。つるりもちっと中太麺に、濃厚な豚骨スープ。その上には自家製チャーシューが二枚──を覆い隠すように、コショウがドッサリ落下した。


「……マジかよ」


  凌介はラーメンに少しだけコショウを振ろうとしただけだ。それなのにパカリと開いたコショウの蓋は緩んでいたのか、蓋ごとどんぶりの中に落下。コショウもつられて全て落下。その結果くしゃみを繰り返す迷惑な客となり、ラーメンも見るも無惨な姿となった。


 流石の凌介もこれには黙っていられない。カウンター奥の店主に一言申そうと「あの、すみません」と手を上げた。


「何?」

「すみません、コショウが……」

「あんた何やってんの? 勿体ない!」

「いや、その蓋が……」

「蓋ぁ?」


 髪の薄くなった店主は凌介を疑っている様子。眉間に皺を寄せ、あからさまに不機嫌な態度で凌介を睨む。


(誰が好き好んでコショウを全部入れるってんだ……!)


 蓋が緩んでいたのでコショウが全てラーメンに入りました。お店の過失だと思うので、作り直して下さいと言いたい所ではあるが、それがするりと口から出るような男ではなく、凌介は遂には顔を伏せてしまう。


「あの、店長さん」


 小鳥がさえずるようなソプラノに顔を上げる。見れば隣に座る麗らかな女性が、身を乗り出して店主を諭すように抗議しているところであった。

 

「私、見ていたので間違いありません。コショウの蓋が緩んでいたみたいで、全てラーメンの中に入ってしまったようでしたよ」

「けどよ……」 

「お店の過失ですし、作り直していただけますよね?」


 女性がにこりと微笑むと、店主が破顔した。


「そうですね、喜んで!」

「よかった」


 よかった、と同時に凌介の方を向く女性。眼帯で隠れていない右目がニコッと弧を描き、桃色の唇の両端が持ち上がる。その笑顔は凌介の胸を撃ち抜き、コショウのボトルがカウンターに落下した。


 リン──と。


 耳の奥で、聞き覚えのある音がした。軽やかな硝子でできた鈴のようなこの音は、あの夜と同じ音だった。


(それにこの声……)


 小鳥のさえずるようなソプラノは、毎朝ベランダの壁越しに聞いている声にそっくりだった。呆然としている凌介を尻目に、隣りに座る彼女は不思議そうに首を傾げた。 


「どうかした?」

「い、いえ……あ……あの、ありがとうございます」

「ん、何が?」


 長い髪を耳にかけ、形の良い唇がラーメンを啜る様子に、凌介は釘付けになった。一瞬、ラーメンになりたいという捻れた欲望が凌介の中に渦巻くが、目の前にドンと置かれた出来立てのラーメンが、凌介を現実へと引き戻す。


「お陰様でラーメンが食べれます」

「正しいと思ったことは、きちんと主張しなくては駄目よ?」

「あ……はい、すみません」

「謝ることではないの」


 それだけ言うと彼女はラーメンを啜りだす。ズルズルと音を立てているのにどこか上品な仕草。


「じゃあ、またね」

「あ……の……?」

「どうかしたの?」


 目の前にいるこの彼女が、隣家の彼女と同一人物かどうか、確かめたいと思った。しかしどうやって確かめるというのか。いきなり「隣の家の者です。今朝もベランダ越しに話しましたよね?」だなんて聞いて人違いだだったら恥ずかしすぎる。

 かといって住所を聞くなんて以ての外。凌介は自分の頭の回転の遅さを恨んだ。


 彼女を呼び止めて何秒が経過しただろう。このままでは完全に不審者だ。


(そうだ……!)


 個人情報を聞き出すことなく、彼女かどうかを確かめることができる方法が一つだけ思い浮かんだ。


「あ……あの!」

「はい?」

「枕草子は好きですか?」

「いいえ?」

 

 それだけ言うと彼女は食事を終えて席を立つ。颯爽と勘定を済ませると出口へと向かっていた。


(違った……! 最悪だ)


 あまりの恥ずかしさに顔を伏せてしまう。この聞き惚れるような高い声に、柔らかで丸みのある話し方。それに顔や頭の怪我。同一人物だろうという確信があった、それなのに。


(そっくりなんだけどな……)


 美しい声もそうだが姿も名残惜しく、凌介は顔を上げて彼女の方を見た。春を思わせるピンク色のスカートから伸びる足が眩しく──……


(……え?)


 きっと眩しいだろうと凝視した彼女の足には、痛々しいほどの包帯が巻かれ、大きな絆創膏も貼られていた。

  

(この怪我、もしかしてリョウスケって男が……?)


 あまりにも悲惨なその姿に、凌介は眉尻を下げる。全身怪我だらけのその姿が見えなくなっても、しばらく出入り口ドアから目が離せなかった。店主の咳払いで現実に戻された頃にはラーメンはすっかり伸びていた。団子になった麺の塊を箸でぐちゃぐちゃと解し、口へと運んだ。


「……伸びても美味しい」


 団子を食べきって気がついたのは、彼女は凌介の勘定も一緒に済ませてくれていたということだった。


(芯が強いのにあんなに優しくて、おまけに上品で綺麗な人だったな……)


 中学を卒業してから今までの同級生ときたら、きゃあきゃあと喧しく、その上、品のない女子生徒ばかりだった。そんな女子に囲まれて過ごした三年間は一体何だったのかと思わせるほど、彼女は魅力的であった。

 

 また会えるだろうかと、凌介はラーメンを口に運ぶ。もしかしたらまたここに来れば会えるかもしれないという淡い期待を抱きながら完食し、暖簾をくぐり店外に出た。


「しかし伸びたラーメンがこんなに腹を膨らますとは」


 汁を吸った小麦の塊で満腹になった腹を撫でながら凌介が向かうのは、重大なミッションの遂行先だった。





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