14.地獄への入口か、それとも
「手術中……?」
「凌介、落ち着いて聞きなさい」
廊下に設置された、背もたれのない椅子に父は腰を下ろす。座るよう声を掛けられた凌介も、並んで腰を下ろした。
「手術を受けているのは母さんだ。フミちゃんを庇って、腕と腹を刺されたらしい」
全身の血がサッと引いてゆく。足の震えは疲労からのものか、恐怖で震えているのかわからなかった。
「せ……先生は」
なんとか絞り出した声は、裏返ったまま廊下に落ちて吸い込まれていった。本当に自分の声かと疑ってしまいたくなるほど、みっともない声だった。
父がゆっくりと口を開く。
「フミちゃんは……意識はあるが怪我もしていて、精神的なショックを受けて……会うことができない」
「怪我!?」
「手のひらを七針縫ったらしい」
軽度なように父は言うが、七針ともなればそれなりに手を切ったということだ。痛みに耐える文歌を想像するだけで、胸の奥が締め付けられた。
「それと、もう一つ」
「……何?」
勿体ぶるような父の言い方に、つい苛ついてしまう。
「ショックが大きかったのか、外傷のせいかわからないが……お腹の子は駄目になったそうだ」
「……お腹の子?」
理解できない言葉に、凌介は自分の頭がおかしくなってしまったのかと錯覚してしまう。
「母さん、妊娠してたわけ?」
「まさか」
「じゃあ誰が……」
「フミちゃんと彼の子だよ」
後頭部を激しく殴られたような衝撃に、思わず目眩がしてしまった。文歌が俵の子供を妊娠していただなんて。
(そんなこと、聞いてない……!)
軽はずみに人に話すようなことでもないが、年頃の凌介からしてみれば、惚れた女性の妊娠はあまりにもショックが大きかった。
絶望感に飲み込まれてしまいそうだ。なんとか気持ちを切り替える為にも、文歌に会うしかないという気持ちが大きくなってゆく。
「なあ、先生に会えないって……いつまで会えないの?」
「しばらくは無理だ」
「しばらくってなんだよ……!」
ハッキリとしない父の言動に腹が立ってきた。こんなにも会いたいのに会えないだなんて、どう考えてもおかしいと。
(いや……おかしいのは俺か?)
こんなことになるくらいなら、始めから自分が学校を休んで付き添っていれば良かったのだ。そうすれば母や文歌は無事だったかもしれないし、刺されるのは自分だけに留まったかもしれないのに──だなんて考えてしまう。
「凌介、どこに行くんだ」
立ち上がった凌介に声を掛けた父が、椅子から腰を浮かせる。凌介の前に立ち塞がり、珍しく厳しい目つきだ。
「先生を探しに行く。この病院にいるんだろ?」
「いるが……警察が付いていて会えないよ」
「は? 警察?」
なぜ警察が、と凌介が口を開くよりも早く父は口を開いた。
「人を刺したんだよ」
「……え?」
「だから……人を刺したんだ」
「誰が、誰を?」
「フミちゃんが……交際していた彼を、だよ」
全く意味がわからなかった。文歌は第三の人物に刺されたものだと思っていた。それが交際していた彼──……俵良介を刺したなんて。
「は……? どういうこと」
「出かけようとしたところを、彼が包丁を持って待ち伏せていたらしい。フミちゃんを庇って母さんが刺されて……倒れた母さんを守ろうとして、男と揉み合いになったフミちゃんは、彼を」
「それは正当防衛だろ!」
母と文歌はどれだけ恐ろしかっただろう。俵は背が高い。女二人が、包丁を持った大柄な男に迫られたと考えるだけでこちらまで身が震えてしまう。
「そうだね、でもそれを決めるのは私たちではないからね」
父の言葉は冷徹だが、間違ってはいない。医者というのはこういう時にでも冷静でいられるのかと、尊敬してしまう。
「精神科医は凄いな。どうやったらそんなに冷静でいられるわけ?」
「冷静なわけないだろう」
「ごめん……」
大きな溜め息をついた凌介は、同じ椅子に再び腰を下ろした。自分のことでいっぱいいっぱいだったが、よくよく見れば父の目の奥には怒りの炎が灯っていた。
「しかしなんで父さんはそんなに事情を知ってるんだよ」
「母さんがフミちゃんのために、警察に伝えようと……意識を失う前に色々話してくれた。彼も即死だったから……余計にたちが悪い」
「今なんて……?」
聞き間違えだろうか。今、父は何と言った?
「彼は即死。胸を深く刺されて……」
「だから会えないって? 冗談じゃない!」
「どこに行くんだ!」
文歌は傷付いているに違いない。過失とはいえ、俵を刺してしまったのだ。自分が支えてあげないと──だなんて、おこがましい考えばかりが先行し、凌介の足を動かした。
(だって、約束したんだ。先生を守る……傍にいるって)
文歌は待っていてくれると答えたのだ──凌介が卒業するまで。
(それなのになんで──……)
木漏れ日のような柔らかな文歌の声に、泥が塗られてゆく。
(先生は悪くない。悪いのは全部俵だ)
文歌の存在は──彼女の声も笑みも全てが甘雨の如く、凌介を人として成長させてくれたことは明らかだった。明確な目標もなく、ただ医学部に行くと決めて勉学に励むだけだった生活に、彩りを与えてくれたのは、間違いなく彼女だ。
「待ってて先生……今行くから」
ナースステーションを何か所強行突破しただろうか。後ろから追ってきていた父の姿はとうに見えなくなっていいた。凌介を追うものに囲まれては自慢の足で逃げ切り、とうとう警察官が廊下に立つ病室を発見した。
「せんせいっ……せんせっ……先生……!」
息も絶え絶えな凌介の姿を不審に思ったのか、廊下にいた若い警察官が心配そうに寄ってきた。これが好機と最後の力を振り絞った凌介は、病室に向って駆け、入口のスライドドアを勢いよく横に引いた。
「せんせえっ!!」
個室の部屋には警察官が三人、医師と看護師が一人ずつ。その奥のベッドに、表情の消えた文歌の姿。
「せんせえっ!! 先生っ!!」
病室に踏み込もうとしたところを、後ろからやって来た警察官に取り押さえられてしまう。振り払おうと藻掻くが、室内のもう一人が加勢に加わった。
「離せ……! クソッ! 文歌先生っ!」
凌介の叫び声に、文歌の顔がゆらりと持ち上がった。凌介のことを認識できているのかいないのかもわからない。潤んだ瞳を大きく見開き、パクパクと動いた唇は声を発さなかった。
「なんで……! なんでなんだ!! 先生は悪くない! 悪いのは全部俵だろっ!!」
凌介の目の前で、勢いよく扉が閉まる。そのまま警察官二人に引きずられてゆき、途中で鉢合わせた父に引き渡されてしまった。
「……なんでなんだ」
悔しさで全身が震えた経験は、これが初めてのことだった。床を叩きつけても、膝を殴りつけても、震えは止まってくれなかった。
「なんで先生に会えないんだ!」
文歌は壊れてしまった。警察の取り調べに耐えられるはずがないことは明白であった。
「だから俺が! 俺が……!」
自分が彼女の傍にいて温かい言葉をかければ、抱きしめれば、良くなるという確信が凌介にはあった。けれどそんなことで文歌が元に戻るという確証もない。確証がなければ、彼女を取り返すこともできるはずもない。
(俺はもう、聴くことが出来ないのか……彼女の声を)
小鳥が歌うようなあの姿を、独り占めしたかった。
「凌介。こっそり侵入してフミちゃんに会おうなんて考えてはいけないよ。お前も法で罰せられる歳なんだから」
「じゃあっ! どうすればいいんだよ!」
崩れ落ちて床に蹲る。裏返った声はそのままむせび泣きに変わり、顔を上げることができない。
(あ……そうか)
凌介はゆっくりと立ち上がり、袖で顔を拭いた。父が肩を抱いてくれるが、床の一点に向けられていた視線をゆらりと持ち上げる。
「そうか……医者に……なればいいのか」
「凌介?」
「医者になって、先生を治してあげればいいのか」
父の手を振り払い、凌介は足早に廊下を進む。ここで泣いて暴れても文歌に会えないことは理解できていた。
(だったら、一番の近道を行くしかない)
鉛のように重い足はまだ動いてくれるようだ。感情に蓋をして、ゆっくりと歩き始めた凌介が向う先は──一ヶ所しかないのだから。
「……待ってて先生」
凌介を止める者も止められる者も、もう誰もいない。
病院の自動ドアが開く。足を一歩外に踏み出すと、巨大な地獄の門が見えたような気がした。
終




