11.大きな手
夕方の市立病院の外来ロビーは薄暗かった。古びたモスグリーンのタイル張りの床に落としていた顔をゆっくりと持ち上げた凌介は、壁の掲示物に視線を移す。掲示物によると、どうやら診察は午前中のみで午後からは入院患者の診察や手術が基本のようだ。外来ロビーが薄暗いことにも頷ける。
「凌介!」
暗い廊下の奥から、白衣姿の母が駆けてくる。文歌の診察に付き添ってくれていた母がここに来たということは、診察が無事に終わったということだ。
学校から電話をした先の母千枝は、事態が理解できずかなり驚いていた。突然仕事中に電話をかけてきた息子が「大怪我をした人がいるけど診てくれるか」と言うので、母は息子が事件に巻き込まれたのではないかと大層心配していた。
「先生は?」
「大丈夫。腕も折れてなかったよ」
「よかった……」
「頑張ったね」
女性にしては大きな母の手が、凌介の頭をわしゃわしゃと撫でた。フッと力が抜け、目頭が熱くなった。
「泣くんじゃないよ情けない」
「泣いてないし」
「そ。で……聞くけど、佐崎先生のあの怪我、何? あの子、階段から落ちたって言うけど……あれ、常習的に受けてる怪我だよ」
看護師の実力なのか勘なのかはわかりかねるが、母の目は誤魔化せないようだ。しかし文歌の許可なしに彼女の事情について話してもいいものだろうか。
「困ってることがあるんなら、ちゃんと話しなさい。一人で解決しようとするのは、あんたの悪い癖だよ」
「……」
文歌は警察にも相談したが無意味だったと言っていた。そんな彼女がこの先他人に相談することがあるだろうか。
(どう考えても、他人には相談しないタイプだよな)
それならば唯一事情を知っっている自分が、周りに助けを求めるべきではないのだろうか。文歌を救うために、出来ることはなんでもしたかった。
この頼れる母になら──父と母なら、力になってくれるかもしれない。
凌介は意を決して口を開く。
「先生は……同じ学校の教師で恋人の俵って奴から暴力を受けてる」
「暴力?」
「一緒に住んでるらしいんだ。逃げられないって……実家も頼れないみたいなんだ」
母はどんな顔をしているだろうか。怖くて直視することができなかった、
「凌介。よく話してくれたね」
母の手が再び凌介の頭を乱暴に撫でる。顔を上げると母の顔は穏やかなものだった。いつまでも頭を撫でられることがいい加減恥ずかしくなって、払い除けてしまった。
「おお怖い、反抗期だね」
「うるさいな」
「あんたは先に帰ってな。先生のことはなんとかするから」
思いもよらぬ母の言葉に、凌介は勢いよく立ち上がってしまった。
「は? そんなことできるわけ──!」
「大丈夫。男の所にもご実家にも渡したりしないよ」
「けど……!」
「母さんを信用しな。大丈夫だから」
今まで母が凌介を裏切ったことは一度もなかった。約束したことは必ず守ってくれる、尊敬できる母だ──勿論。父も同じだった。
「……わかった」
「歩いて帰れるね? 少し遅くなるかもしれないけど、お父さんもすぐ帰ってくるから」
「うん。あ……ご飯どうする?」
「何かデリバリーを注文しとくよ」
「わかった」
気を付けて帰るのよ、という母の声を背中で受け止めながら、凌介は病院を後にする。家までは歩いて二十分もかからない。文歌のことが心配でならないが、母の大丈夫という言葉を信用することしかできないのが歯痒かった。
◇
凌介が帰宅した三十分後、爽やか笑顔の青年が配達してくれたのは四つの寿司桶だった。よく見ると一人前のネタがいつもより豪華である。
(母さん……間違えたんだな、数も一つ多いし)
寿司桶をダイニングテーブルに置いて着替えを済ませる。両親の帰宅を待つ間、自室のベッドに転がって文歌に借りた本を読み進めることにした。
(……先生の匂い)
ページを捲るとふわりと香る、紙特有の匂いとは別の香りにうっとりと目を閉じた。我ながら気持ち悪いと思う。この香りに惑わされて、なかなか読み進んでいないのだから。
そうこうしている内に父が帰宅した。慌てて起き上がった直後に母も帰宅したようだ。父と何やら話しているのだろうか、リビングの方からいつまでも話し声が聞こえてくる。
「……ん?」
家族とは違う、別の声の存在に凌介は部屋を飛び出した。
(まさか、そんなはず──!)
リビングの戸を開ける。キッチンに立つ父、飲み物を運ぶ母、それを手伝おうと声を掛けているのは──……
「え……?」
「お邪魔してます」
高く、美しいソプラノ。聞き間違える筈などない。
怪我の増えた痛々しい姿の文歌が何故我が家のリビングに居るのか、全く検討がつかなかった。




