音のないプロポーズ 06
責めるような氷影の気迫に気圧され、医師がこほんと咳をする。
三人の安堵がさっと引いた。
「どうなんですか、先生…?」
佳之が声を震わせた。医師はちらりと手術室を見やった後、冷静を促すような仕草で話し出した。
「ええ、まずですね、右足に、障害が残ります」
「足…?」
佳之が愕然とした声で返した。
「車と壁に挟まれた状態で、強いダメージを受けておりました。これは、うちへ着いた時にはもう手遅れでして」
「歩けるようには、ならんのですか」
医師の弁解など無視して、直永が詰め寄る。
「幸い、左足は損傷が少なく、リハビリをすれば松葉杖での歩行はできるようになると思われます。ですが、右足自体は、残念ながら」
「そんな……」
斗南が床にへたり込んだ。佳之がまた嗚咽を漏らす。
「それで?」
だが氷影だけは、なおも気色ばんだ顔つきで医師を睨み続けていた。
「まず、ってなんだよ。ハルはどうなってるの。本当のことをちゃんと言ってください…」
「そうですよ、先生。まだ何かあるのでしたら、早くおっしゃってください。私らの心がもちません」
直永も不安をぶつける。
医師はまた室内に目をやると、ようやく観念したように告げた。
「いえ、現段階でこれ以上何かがあるわけではありませんよ。ただ、春直さんの意識はまだ戻っておりません。検査では脳などに障害は見受けられませんが、頭も打たれているので。目を覚まされた後…いえ、これから、どうなるかまでは」
その微妙な言い直しに、氷影の怒りが沸点に達した。
「なんだよ、それは!」
気付けば医師の襟首を掴んでいた。斗南が目を丸くする。
「結局、目を覚ますかどうかもわからないってことじゃないか! ふざけんなよ! あんた、それで命は大丈夫って本気で言ってるのか!?」
「お、落ち着いてください。えっと…お兄さんですか」
医師は関係を測り兼ねたか、とんちんかんなことを言った。
「友達だよ! 親友だ! そんなことはいい、ちゃんとハルが目を覚ますように、何とかしろよ! あんた医者だろう!」
「影ちゃん…!」
斗南が引き止めるように手を添えた。その泣き腫らした瞳を見て、氷影は言葉を呑み込む。
わかってる。この医者が悪いわけじゃない。
だけど。だけど……。
「…先生、お願いします、どうかハルを助けてください」
氷影は手を離すと、項垂れるように頭を下げた。斗南も飛びつくようにそれに倣って、深く強く願う。
直永もそれに続こうとした。
その時、不揃いな車輪の音と共に、処置室の奥からストレッチャーが姿を現す。
「春直…!」
佳之がハンカチを投げ捨て、即座に駆け寄った。
「春直、春直…!」
斗南と直永も走り寄る。
「春ちゃん…っ」
春直は呼吸器を繋がれ、あちこちに包帯とガーゼを付けた、痛々しい状態で目を閉じていた。ひどい事故だったのだとそれだけでよくわかる。
斗南は震える指で、春直の肩に触れた。
「春ちゃん……」
ぽろぽろ泣きながら、斗南は呟き続ける。氷影はそれを遠巻きに、茫然と眺めていた。
「お部屋へ移動しますので」
看護師が促すと、三人が少し離れて、またストレッチャーが動き出す。目の前を通り過ぎる時、氷影もようやく春直の顔を見た。物も言わぬまま、あっという間に連れて行かれる春直からは、生気を感じることができなかった。
「そういうことですので、またご容体に変化がありましたら、対応いたします」
医師はストレッチャーが去ると同時にそういうと、逃げるように身を退いて行った。固まったように瞬きも忘れた氷影の肩を、今度は斗南がそっと撫でた。
ベッドに移されても眠ったままの春直を囲み、四人はひたすら沈黙していた。
いったい、春直の身に何があったのか。本当に目を覚ましてくれるのか。彼の中で、いま何が起きているのか。
訊きたいことは山ほどあったが、それに答えられるのは春直だけで、誰も口には出さなかった。
相変わらず、雨だけが盛んに降り注いで、昼になっても室内は電灯で照らされている。変わらない明るさも、四人に時の経過を運ばなかった。時折、看護師が様子を見に来て、何やら簡単な検査をしていく。それだけが辛うじて室内に起きる変化だったが、彼女らがどのくらいの間隔で部屋を訪れているのかはわからなかった。
時間が経ったのだ、ということだけをぼんやりと感じ、いなくなると忘れた。
春直に何があったのか。
その答えは、夕方に訪れた警察官の報告で知ることができた。
二人組で訪れた警官によると、最初に聞いた通り、春直はやはり交通事故に巻き込まれたとのことだった。
帰宅中。車両との事故。街灯の少ない住宅街。警官の説明はおおむね四人が想像していた通りで、知ってもさほど気持ちは晴れなかった。ただ、唯一新たに知ったのが、加害者の状況だった。
春直がこの状態なので、運転手側の容体を気にした者はいなかったが、そちらは春直の重傷 を越えて、重体になっているらしい。今も命の淵をさまよい、このまま助からない可能性もあるという。
「そもそも、どうして春直は巻き込まれたんですか」
直永は、加害者の容体など聞きたくないとばかりに言った。
(つづく)