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音のないプロポーズ  作者: 神屋青灯
5/60

音のないプロポーズ 05

 

 タクシーなど滅多に乗らないが、「釣りはいいから」とテレビで聞くようなセリフを言ったのも初めてだった。


 傘を開く隙も惜しんで、救急用の入り口に駆ける。薄手のシャツを通して、雨粒が体を叩いた。

 ハル。この雨は、きっとハルの身体をも打ったのだ。ハル、無事でいてくれ。恐怖がこみ上げる勢いすら追い越して、一刻も早く顔を見たい衝動に駆られていく。

 廊下を走るスニーカーの音に気付いたのかもしれない。手術室の前に着いた時、斗南が立ちあがって氷影を待っていた。


「影ちゃん…!」

 耐えきれなくなったように、斗南が抱きつく。受け止めると、斗南の髪も雨に濡れていた。処置中の赤いランプが点いている。まだ何もわからないまま、ここで回復を祈っていたことがわかる。

「容体、は…?」

 それでも訊かずにはいられなかった。だが、斗南は首を横に振るだけで、答えない。それが、わからないという意味なのか、或いは違うのか。測り兼ねる氷影に、男性の声が返ってきた。春直の父、直永(なおなが)だった。

「なんともわからんのです。何も教えてくれなくてね。ただ…最初に来た時には、最悪の場合も有り得るとかなんとか…。外、雨でしょう。出血が多いとかで…。でも、あれですよ。ほら、今は訴訟とかが多いから。保険で言っただけですよ…ねえ、そうだよな、母さん」

 直永が同意を求めると、妻の佳之(よしの)がわっと泣き出した。つられるように、斗南も氷影の服を強く掴む。だが、声は殺していた。両親の辛さを思って、聞かせられないと思ったのだろう。

「土曜なのに申し訳ないね。息子が世話になって……。仲良くしてくれていると、聞いているよ。そうだ、一度ね、家に――」

 直永は再び話し出し、だが言葉に詰まって俯いてしまった。春直が実家に呼んでくれようとしていたのかもしれない。

 氷影も何か一言でも、と返そうとしたが、目の前の三人に掛けられる言葉が見つけられず、せめて、斗南の肩を強く抱いた。



 それから沈黙の時間がどれだけ過ぎたのかわからない。直永は床の小さな傷を茫然と眺め、佳之はハンカチに顔を埋めたまま動かなかった。斗南も同じだ。氷影の下に目を伏したまま、手術室を見ようとはしなかった。

 現実を直視する勇気はなかった。

 氷影だけは、ずっと赤いランプを見ていた。見てはいたが、何も考えられずにただ目に入れていた。斗南を支えるように肩を抱いていたものの、そうして彼女の体温と動悸を感じることで、どうにか理性を保っていたのは氷影も一緒だった。


 ふっとランプが消えた。

 その瞬間を見ていたのは氷影だけのはずなのに、音のない合図に全員が同時に顔を上げた。息を吸うことすら忘れ、扉をこじ開けたい衝動を抑えつけながら、長すぎる一秒を刻む。

 誰かが中へと駆け込むのではないか。それほど焦れた空間の中へ、医師はやっと現れた。

「先生! 春直は、春直は!」

 佳之が真っ先に金切り声で飛びついた。

 どうか。どうか無事だと言ってくれ。もう大丈夫だと、心配はいらないと。

「処置はすべて終わりました」

 医師はあえて遠回りを選んだ。嫌な予感が伝わる。まさか、全力は尽くしましたとでも言うつもりか。許さない。ハルを救わないことは僕が許さない。氷影の拳に知らずと力が入る。

「命は、ひとまず大丈夫だと言って良いでしょう」

「えっ」

 だが、医師は意外にも、四人の最も聞きたかった言葉を言った。誰もが身構え、沸騰しそうだった頭に投げ込まれた一言に、一瞬反応が遅れる。それから、最初に相好を崩したのは斗南だった。

「春ちゃん…! よかった、よかったあ…!」

 今度こそ堪えきれなかったのか、斗南は氷影に再び抱き着き、泣きじゃくるように声をあげた。佳之がくらりと倒れそうになり、直永が抱き止める。それから佳之も泣いた。直永も何度も頷きながら、安堵を噛み締めていた。

 だが、氷影だけはそうは思えなかった。

「命は、って、どういう意味ですか…」

 喜んでいる三人を前にして、家族でもない氷影が聞くのは申し訳なかったが、黙っていられなかった。含みを持たせる表現には、何か別の意味が隠れている。

 それを問いたださずに、安心できるわけはなかった。


 責めるような氷影の気迫に気圧され、医師がこほんと咳をする。三人の安堵がさっと引いた。




 (つづく)


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