音のないプロポーズ 47
斗南はすっと背筋が冷たくなるのを感じた。
「実家にじゃなくて、二人で住む所を探すけど、場所は実家のすぐ近くにするつもり。いやまあ、つもりっていうか、もう決めてあるんだけどさ」
「じゃあ…そんなにすぐなの?」
「うん…。夏のうちにって考えてる」
言葉を失った。ある程度想像はしていたはずなのに、本人から直接言われると、その事実は存在感を誇張させた。春直が慌てて筆記する。
――何があったの?
「なに…いや、何もないんだけどさ」
氷影は少し気まずい顔をした。
「…ユキのことなんだけど、前に言ったよね。ちょっとワケありって」
二人が同時に頷く。
「うちは本当にド田舎でさ、すぐ傍から船が出てるような小さな港町で、だから修学旅行で都会に行くんだよね」
氷影が港町の出身なのは聞いたことがあった。住所も大まかには知っているが、地図で見たりしたことはない。当然、実家に行ったこともなかった。
「ユキはその時、都会の駅で迷子になって、…そこを付けこまれて犯罪に巻き込まれそうになったんだ。幸い先生が見つけてくれたんだけど…それから、ユキは人が苦手になった。人ごみに出られないんだ」
そこで合点がいった。春直の見舞いに、氷影が結局雪を連れてきていないことだ。いつも仲がいいし、一緒に来たらいいのにと思うことが何度かあった。来ないのではなく、来られなかったなんて。
「僕に合わせて無理してこっちに出てきたけれど、ユキは今も、家から一歩も出られない。たまに近所の散歩に出るのも、早朝とかの人がいない時間しか行けない。僕と一緒じゃないとゴミ出しも出られない」
「そんなに…」
どうりで結婚式の間中、怯えていたわけだ。あれは斗南や春直にではなく、周囲の見知らぬ人を恐れていたということか。
「でも、田舎でなら、船にも乗れれば魚も獲れる。捌いたり、たたき売りなんかもしてたんだよ。本来は活発な子なんだ。あっちでは顔も名前もみんな知ってるからね。そういう場所にさえいれば、笑って過ごせる。――それを封じ込めてまで僕がこっちに縛り付けておくなんて、おかしいと思わない?」
氷影は自分の薬指に嵌った指輪を見つめた。金色の中に雪が浮かぶ。自分には、彼女を守る使命と責任がある。そう誓って、同じ指輪を彼女に嵌めたのだから。
「本当は結婚した時からずっとこうしなきゃって考えてたんだ。でも、そのうちでいいかって何となく引き伸ばして来た。ハルやホッシーといるのが本当に楽しかったからだよ」
斗南は息が詰まった。嬉しさと、失う悲しみが同時にこみ上げる。
「…ハルが事故に遭ってさ…いつか、って思っててもいつでも叶うわけじゃないってわかって、急に不安になったんだ。ユキの人生を僕の勝手で止めておくわけにはいかない。それで、やっと決心した。ハルが会社に戻る頃に、入れ替わりで帰ろうと思ってる」
だから早めに頼むよ、と氷影は肩を叩いた。しかし、春直の目が泳ぐ。
今度は春直が白状する番だった。
――ごめん、それが…できない。
「へ? できないって、何が?」
氷影が首を突きだして目を細めた。
――退院することになった。再来週。でも、歩けない。一人で暮らせないから、実家に帰ることに決まった。会社はもう諦めようと思ってる。
その長い文を、春直は時間を掛けて書き、斗南と氷影もまた長く掛けて読んだ。理解に時間を要したと言う方が正しいかもしれない。それから口火を切ったのは、斗南だった。
「二人とも…いなくなっちゃうの…?」
「いや、それは…」
氷影が焦りを滲ませた。自分の判断は早計だっただろうか。春直が実家に戻る可能性を、まるで考えなかった。
「でも、ハルは歩けるようになったら戻れるでしょ? 会社だって辞めることないじゃんか」
――一人暮らしは、できればまたしようと思ってる。
それは佳之たちへの負担も考えてのことだった。
――でも、会社は正直、厳しいと思う。
「何で。一人で暮らせるなら、仕事だってできるって。ハル、ホッシーのこと考えてあげてよ。ただでさえ…」
言ってからしまったと思って口を噤んだ。斗南が俯く。
――うちは二人きりの部署だから。コピーや資料探しの度に、杖使って立って座ってなんてしてたら、回らない。
「それは、もう一人くらい人を増やしてもらえば…」
――そこまで補佐がないと働けないんじゃ、もう足手まといなだけだから。
春直は淡白な調子で書いた。仕事は遊びじゃない。自分の都合で足を引っ張るわけにはいかない。そんな思いが込められているようだった。
「…私も辞めちゃおうかな」
不意に斗南が言った。
(つづく)




