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音のないプロポーズ  作者: 神屋青灯
39/60

音のないプロポーズ 39

 

 その時、春直の右足にまた激痛が走った。


「春ちゃん!?」

 あまりの痛みに身体を曲げた。スマホが滑り落ち、派手な音が響く。斗南は飛びついて春直の背中をさすった。

「大丈夫? 痛むの? 春ちゃん!」

 ダメだ…安心させなきゃ。平気だって言わないと…。思うのに顔が上げられない。呼吸が荒くなり、言葉を伝えられない。シーツを力の限り握りしめる。右足がけいれんを始めていた。

「先生呼ぼうか? 大丈夫? ハル!」

「春ちゃん、春ちゃん…ッ!」

 斗南が手を重ねる。温かい手だ。微かに痛みが和らぐ気がした。ありがとう、大丈夫だよ。――言わなきゃ。言わなきゃ。思うばかりで口ひとつ思い通りに動かない。

「どうしました!?」

 騒ぎに気付いて、看護師が駆け込んで来た。ナースコールで応援を呼び、春直の脈や顔色を確かめている。

「鎮痛剤を投与します、下がって」

 駆け付けた医師は、斗南と氷影を退かしてそう言った。三人がかりで処置が始まる。春直は苦しそうに荒く呼吸をしていた。音だけの呼吸だ。普通なら混ざるはずの声も呻きもない、無機質な苦しみの音。斗南はまた泣いていた。見ていられなくて、氷影は顔を背ける。

 その時たまたま、ベッドの下に丸まった紙が落ちていることに気付いた。何かと思い、医師の足の横からこっそり拾う。斗南は気付いていない。そしてその先――ベッドの奥に、えんじ色の小箱もあった。

 それが何なのか。見なくてもわかった。指輪の箱だ。春直の想いが詰め込まれた宝物の小箱。

 その瞬間に悟る。どうしてそれがこんなところにあるのか――春直が扇雅に、何をされたのか。

 ゆっくり開いた紙には、好きの二文字があった。

 紙をつまむ手が強く握られていく。氷影まで呼吸が荒くなってきた。血がにじむほど力を込めても怒りが治まらない。扇雅は春直の想いを土足で踏み散らしたのだ。もう一度春直を見た。目元の痕。苦しそうな表情。全部、扇雅のせいだ。あいつはどこまで二人を苦しめれば気が済むのか。全身の筋肉が、怒りで震えて止まらない。


 春直は何度か、氷影に何かを伝えようとしたまま、薬のせいでやがて眠ってしまった。それでも氷影にはその意思がわかっていた。

 拾い上げた小箱の中からは、春直の魂が消えていた。


   ◇


 天気が良いのか、眠っていても日差しを感じた。薬のせいだろう、頭が重い。随分長く眠っていた感覚もあった。

 近くで微かに物音がする。看護師だろうな、と思った。寝たふりをしていたかったが、時間が気になって、目を開けた。

「あ。ごめん、起こした?」

 そこにいたのは氷影だった。あれ、今日は土曜だっただろうか? だが、氷影はワイシャツ姿で、私服ではない。それにどうしてだか、すぐに屈みこんで姿が消えた。春直は起き上がろうとするが、まだ自由が利かない。相手が氷影だから不安はないが、何をしているのか気にはなる。だが声を掛けることも叶わない。

 辛うじて手元を探って、スマホを見つけた。まだ朝の八時前だ。しかも、やはり平日だった。どうして氷影がいるのだろう。こんなことは今までなかった。ぼんやりして考えがまとまらないのは、薬のせいなのだろうか。

「ねえ、ハル」

 下から声が掛かった。顔を向ける。氷影は手を伸ばしているのか、少し声が吊っている。

「僕ね、田舎に帰ろうと思ってる」

 え、と思ったが、すぐには意味が理解しきれなかった。何か遠くへ行ってしまう。そんな虚無が先に生まれて、それから言葉を読み取った。虚ろだった頭が冷めていく。

 よっ、という掛け声と共に、氷影は中腰に起き、手元をハンカチで拭った。待ってよ、どういう意味。問おうとすると、扉が開いて看護師が顔を出した。

「如月さん。もうそろそろ」

「あ、すみません。すぐ」

 毎日顔を合わせているので、看護師も氷影の名前を憶えている。春直が目を覚ましているのに気付くと、早めにお願いしますよと気を利かせてくれた。本来、こんな朝早くに面会は許可されていない。着替えを置くだけだからと偽って、強引に入れてもらったのだった。

「ごめん、もう行かないと。また夜に来る。顔が見れてよかった」

 氷影は立ち上がると笑った。

「着替えに見せるために持ってきたあれ、中に大事な物入ってるから、ちゃんと見てよ」

 親指で示した先には、確かに一見着替えのように見える紙袋がある。パイプ椅子に乗せられ、ベッドの奥からちょうど手が届くぎりぎりにあった。看護師に避けられないようにしたのだろう。

――それよりも、田舎に帰るってどういうこと?

 文字で打ってる時間はなさそうで、口で訊いた。それが伝わったかはわからないが、本当に答えている時間はなさそうだ。これから仕事もある。

「ハル」

 氷影は呼ぶと、手を取って何かを握らせた。片手に心地の良い、慣れた感触。正体はすぐにわかった。

「何を言われても気にするな。僕とホッシーがついてる。絶対に味方だから」

 春直の手にしっかり包ませたのを確かめると、氷影はその上からぽんと激励を送った。そしてにっこり笑う。

「如月さーん」

「はーい、今。じゃ、またね、ハル」

 手を上げると、氷影は部屋を出て行った。


 渡された物を包んだまま、手を引き寄せる。手の中の小箱をそっと開けた。

 指輪が帰っていた。

 そして隣に、きれいに畳まれた紙が入っている。

 好き。

 春直の書いた、潰されたはずの言葉が、諦め悪くそこに居座っていた。



 (つづく)

 

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