音のないプロポーズ 18
ぽかぽかと暖かい日差しを感じて、ゆっくりとまぶたを開けた。
とろんとした意識の先に、斗南が映る。
あれ、と思ってから、春直は唐突に身を起こした。
「あ、春ちゃん。おはよう」
斗南は手にしていたノートを閉じて、春直に振り返る。会社でも何かとメモを取っている姿は見かけるが、休みの日まで何か考え事だろうか。いや、春直が寝てしまったせいだ。斗南を退屈させてしまったから、ここで仕事をしていたのだろう。
――ごめん。俺、寝ちゃって…。
口をぱくぱくさせたが音にならず、あたふたとスマホを引き寄せようとした。だが、斗南は口の動きだけで主張を読み取り、また笑顔を見せた。
「春ちゃん、いつも謝ってばかりだもん。書かなくたってわかっちゃうよ」
うろたえたまま時計を見ると、既に午後二時を回っていた。部屋の隅には着替えの入った大きなカバンもあり、佳之たちも既に来ているとわかる。リハビリを終えてここに戻ってすぐから、春直は眠っていたらしい。二時間も客人を放ったらかしていたと思うと、申し訳なくて頭を抱えたくなった。
「お母さんたち、田中先生と話してからお昼食べてくるって。あ、春ちゃんの分はそっちに置いてあるよ。三時頃に取りにくるからって看護師さんが」
斗南は気にする様子もなく、病院食のトレーからコップを取ると、お茶を注いで手渡してくれた。そろそろ暑くなる季節だが、喉の影響を考えて、春直に許されるのは常温までだ。
――ごめん。本当に。せっかく来てくれたのに。
「いいよ、そんなの。薬の副作用でもあるんだし。眠れるのは大事だよ。リハビリだって頑張ってたし、疲れたでしょ?」
斗南が椅子に置いたノートを、春直の横目が認識した。
見たことのないチェック柄だ。
挟んだボールペンが最初の方だから、使い始めたばかりだろうか。
斗南の仕事は毎日進行されている。春直の時は止まったままだ。桃ノ木はああ言ってくれたけど、本当に職場に戻る日が来るのだろうか。
表紙の片隅に貼られたクローバーのシールを、何だか恨みがましく見てしまう。
そういうことは日に日に増えた。
例えば氷影が靴を買い換えたとか、桃ノ木が娘にせびられて、ボーナスで電動自転車を買わされたとか、そんな話がチクリと刺さるようになっていた。
元々外回りなどない春直の靴はろくに磨り減ったりしないし、自分だって中学へ上がった時に親に自転車を買ってもらった。頭ではわかっている。でも、今の自分にない変化が訪れる、外の人たちを羨ましく思い始めていた。
彼らを「外の人」と仕切り始めていた。
自身の現況に具体的な自覚が出てきた面も大きかったと思う。リハビリは順調ではなかった。
何日続けても身体は言う事を聞かなかったし、日に日に疲労だけは溜まって、正直嫌になる気持ちの方が勝っていた。当然、斗南も隣にはいない。彼女は会社で仕事をしているのだ。
部署は違うけど、斗南とはフロアが同じで、席も近かった。春直の席からはいつも彼女の背中が見えていた。そんなささやかな楽しみも今はない。もう戻らない悦びかもしれないと、頭の片隅が思っていた。
意欲は減っていった。今は電動車椅子もある。それなら体力がなくても自由に動けるのではないか。杖で自力歩行できずともいいのではないか。外なんて、別にそう行くわけではない。それに。
――右足が動くようになるわけじゃない。
言えなかったけど、そう思っていた。音にならないのをいいことに、田中と二人のリハビリ中は、何度かこっそり口にも出した。
動かない足。不自由な生活。とっさに伝わらない声。重荷は毎日増していた。
最初に目が覚め、佳之たちから事故についてを聞いた時は、命だけでも助かってよかったという言葉をそのまま受け入れていた。斗南と氷影に会えた時は、再会を素直に喜べた。これが命あっての物種という意味かと解釈した。不運だったが、仕方ない。受け入れるしかない。そのくらいには前を向けていた。
けれど、今は違う。はっきりわかっていた。今の春直は、回復など求めてはいない。どうせ、元には戻らない。それなのにこんな苦労だけして、先に何があるというのだろうか。春直は今の身体と上手く付き合いたいのではない。元に戻りたかった。
元の身体に、生活に、――元の関係に。
そんな話をできる相手は、やっぱり氷影しかいなかった。
(つづく)




