音のないプロポーズ 16
その時、ふっとある感覚が蘇った。
氷影が上司だったら。
上司ではないが、彼はあることの師匠だった。ぽっかり失念していた。――カバンの奥底にあるはずのあの小箱は、今どこにあるのだろう?
忘れていた。あんなに大切なことだったはずなのに。春直の記憶が突如として現実味を帯び、それから焦燥に変わった。
言うのだった。想いを伝えると決めたのだ。斗南に、今度こそちゃんと言おうと、確かに思った。でも、今となってはわからないことがある。
どうして、今、言おうとしていたのか。いやそれより、どうして、言えば伝わると思ったのか。どうして言葉にできると、そして釣り合う自分だと思っていたのか。
視界がグルリと回るのを感じた。どうしてなのか、答えが見つからない。俺はホッシーの、一体なに? 友達? 同僚? 親友? それだけで、どうして結婚してもらえると思ったのか?
斗南が好きだと誓った気持ちは覚えている。彼女は自分の人生においてのきっと一番だ。そこは揺らいでいない。でも、彼女にとって、自分は一番か? どうしてそんな自信を持った?
言う。渡す。伝える。何と言おうとしていたのだっけ。結婚してください? そんなありきたりな言葉? ばかな、いくらなんでもそんなはずはない。届くだけの自信を持っていた。こんな言葉で思うわけがない。でも、他に何も浮かばない。そして、何より心を揺らしたのは――。
言う。伝える。――どうやって?
春直は喉に触れた。声が出ない。その本当の重みを、その時初めて理解した気がした。
◇
身体は順調に回復していった。額のガーゼは取れ、顔に痕は残らないそうだ。細かい傷も減り、腕の包帯も覆う面積が半分ほどに減った。
足の痛みも多少は引き、以前よりは眠れるようになった。だが怪我人は、案外ゆっくりさせてもらえない。体力が衰えきらないうちにと、今度はリハビリが始められることになった。
午前のスケジュールに決まったので、春直は最初、ちょうどいいと思った。両親は大体昼過ぎに来るから、留守の間を待たせなくていいし、自分も時間を潰せる気持ちでいた。
だがその初日が、例の斗南の有給日とかぶってしまったのにはがっかりした。
――せっかく朝から来てくれるって、楽しみにしてたんだけどな。
春直はそんな泣き言を書いた。すると斗南が、何てことないとばかりに笑ってみせる。
「それでも朝から行くよ。応援、応援」
その時は、そこまでいいよと本気で言った。正直、せっかく来てもらうのに勿体ないという気もある。両親も同じように応援に来ると言ったが、やはり断っていた。毎日二時間以上掛けて通ってくれている佳之たちにこれ以上負担は掛けられない。何より、リハビリと言っても初日だ、軽く準備体操的なことをするだけだろうと高を括っていた。
だが実際に臨んでみればどうだ。初日だというのに、今日一日で全行程を完遂させたいのかと思うくらい、課されたノルマは多く、そして指導は厳しかった。
「若い人は回復が早いけど、それをこっちから促すことは必要だからね。筋肉の使い方とか、ちゃんと体に思い出させてあげないと」
指導医の田中はそう言って、春直の身体に甘えを許さなかった。
実際、たった一週間ちょっとじっとしていただけなのに、左足の踏ん張りが思うほど利かない。腕も同じだ。痛むわけでもないのに、上手く力を入れられない。手すりに挟まれた道を進むだけでこれでは、自立歩行などいつになったらできるのかと、途方に暮れそうになる。
辛うじて匙を投げずに済んだのは、斗南がいてくれたお陰だった。斗南はプレッシャーを掛けるわけでもなく、でも傍にずっとついて励まし続けてくれた。何が「勿体ない」だ。
春直が桃ノ木と斗南に深く感謝したのは、言うまでもなかった。
「じゃあ彼女さん、右手を支えてあげて」
田中はやがて斗南にも指示を出し始めた。力を掛けるのは手すりに対してだが、力をどこに入れるかを意識させるためのようだった。
「体のバランスを取るために、これから右手の感覚はとても重要になります。やがて松葉杖を使うことになりますが、そのためにまずは体の軸を安定させることが不可欠ですからね」
斗南は春直以上に一生懸命聞いている様子で、時折重ねた手に力が入るのがわかる。彼女と呼ばれたことを否定はしなかった。けれど、そこに深い意味はないのだろう。
少し練習していてください、と田中が離れた時、斗南は春直の体調を気遣ってくれた。疲れていないか、足の痛みは大丈夫か、他に不調はないか。斗南だって疲れているだろうに、自分のことは少しも顔に出さない。
斗南は優しい女性だ。ずっとそうだった。単純な繰り返しと、それすらままならない己とリハビリに嫌気が差し、心が遠い記憶へと旅に出る。
思えば、春直の恋は入社と同時に始まったのだ。
(つづく)




