#8 やがて友達へ
MaK+chとは動画配信サイトの中で活動している女性のチャンネル名だった。素顔は出していないらしいが、それでも十分人気のようだ。
マキのキ、つまりはKiなんだけれど、表記がiではなく+だった。こういうのがおしゃれなのだろうか。
「MaK+ちゃんは私の推しよ。アーカイブが残らないのならば――つまり後から見ることができないのなら、見逃すわけにはいかないの」
5月11日木曜日。
例の教室で対面する僕はそう力説された。
ちなみに時間はもう放課後である。締め切りが近いとわかった今、昼休みの練習だけで乗り越えられるわけがないと判断したのだ。
「で、視聴したかしら? 昨日の歌枠を」
「まあ、少し……」
「ふむ、見込みありね」
本当はMaK+ちゃんとかいう謎の人物を調べた先にたどり着いた場所がそこだっただけで、三輪山に見ろといわれたことを承諾したわけではないのだが。
それに、流行に疎い僕は最近の音楽を知らず、そういう理由もあってすぐに視聴をやめてしまった。
「三輪山、なんていうか……こういうオタク趣味みたいなのがあるなんて意外だった」
「ふふん。そんなに褒めないで頂戴」
「褒めているわけじゃないんだが……」
だが、三輪山はそっち方向に、つまりは三輪山の趣味という話題を話すつもりでいたらしく、彼女自身のカバンから数冊の本を取り出した。
どれもベージュのカバーで覆われて、どんな内容かわからない。
「昨日、黒崎くんはこう思ったはずよ。日曜日まで時間がない、こんなの間に合うわけない、というか三輪山の全裸を内カメラで映すよう要求すればよかったな――って」
「最後以外は正解だよ。最後以外は」
「でもね、私には作戦があるのよ。完璧に人と会話ができずとも、うまく友達を装う作戦が――」
三輪山は机にダン、と両手をついて身を乗り出した。
忘れることなかれ、彼女は学年一と名高い美少女である。至近距離にその顔面があったら僕なんかじゃなくてもイチコロだ。体が危険と判断して反射的に視線をそらしてしまう。
もちろん、そんなこと三輪山は狙っていないだろうけれど。
「黒崎くんに私の趣味を理解せてあげるわ!」
その証拠に、三輪山は自分の作戦を語るのに夢中だった。
「三輪山の趣味……?」
「ええ。例えば読書よ」
三輪山がひとつの本のカバーを外すと、そこには渋い表紙に教科書のようなフォントで『会話』と書かれてあった。また別のものは男女のイラストで『恋する式神の霊媒術』とかいう題名の本。漫画らしきものもあった。芥川龍之介物語集なるものもあった。
「新書、ラノベ、漫画、純文学、ミステリー、SF、ビジネス書、哲学書、オカルト本、古典――私はありとあらゆる本を読むわ。ああ、ラノベや漫画がアニメ化されたりすればそれも見るし、ドラマなんかも面白いわね」
「ちょっと待て……。その大量の本たちを僕に読めと?」
「いえ、無理でしょう。最初から黒崎くんなんかにそんな期待していないわ。私が伝えたいのは概要――私が好きなものは何かという問いに答えられるくらいになれば十分よ」
おばあちゃんがクイズを出してくるわけでもないけど、自然な雰囲気を装うためにね――。
装う、と三輪山は言うけれど、こうなれば本当に友達みたいなものだ。
会話の練習じゃなくて正統なお友達づくりというか……。
でも沖島は僕と握手しただけで「ダチ」と言ってくれたりした。
僕はここで友達ってなんなんだろうと考えるほど孤独を極めているわけじゃないが、それでもぼんやり僕たちの関係はなんだったかとそう思ってしまった。
付き合ってるわけじゃない、と僕たちの関係を洋平に説明したけれど、それでも僕たちは会話の練習相手以上のどこかに向かっていて――今まさしく友達になろうとしていた。
変に遠回りで堅苦しい言葉を並べているけれどなんてことはない。僕は嬉しかったのだ。
面接練習が、本当の談話に進化してくれたことが。
「三輪山、聞かせてくれ。もっと、お前の趣味ってやつを」
「ええ、聞かせてあげるわ。ありがたく思いなさい」
真顔が微笑になった。
その日がどれほど楽しかったかは説明する必要はないだろうけれど、それはそれはたくさんの話をした。
まずは三輪山と趣味の出会い。
そもそも三輪山は人とのコミュニケーション能力を育むために自主的に本を読み始めたらしい。新書はともかく、文学作品はコミュニケーションの塊だとか。それから本を読み進め、やがてそれがコミュニケーションのためから娯楽になっていった。
配信者にも出会った。MaK+ちゃんのことだ。
それを見始めたのも、MaK+ちゃんが雑談配信をしているところを見て、たまたまチャットを送ったらそれを拾われたとかなんとか。とりあえずこれも、三輪山からしたらコミュニケーションの練習だった。
三輪山から不意に僕の趣味は何かと聞かれた。思えば僕は――何もなかった。
「つまらない人ね。だからといって恥じることはないわ。なぜならあなたは今日から趣味を手に入れるのだから」
意気揚々と三輪山は言うが、果たして僕が配信や本にハマるか、それはわからなかった。
ただ代わりに、僕の思想を話すことにはなった。
口は災いのもと、を本気で信じていること。どうして信じているかは――言いたくなかったから言わなかった。聞かれなかったし。
ただこんなことは聞かれた。
「なら、黒崎くんはどうして私のお願いを引き受けてくれたのかしら。もし話すことを悪だと考えているのなら、自分だけじゃなく私という悪も育てていることになるじゃない」
「そういうことになるな……。もし三輪山が巧みなコミュニケーション能力を身につけて、社交的になって、それでも伝わらない部分があるせいで誰かが傷つけば、そこにどんな理由があろうと僕の責任だ」
「ならどうして……?」
「あの場で――二回目の告白で、三輪山を傷つけたくなかったというか……。結局、目の前の小さな罪を回避するために遠くの大きな罪を被ったというか……」
うまく説明ができなかったから、僕はこの話題を切り上げることにした。
それに、僕は昨日のある言葉がずっと気になっていたし。
というのも、三輪山が締め切りという重大発表の後に「決定事項」と言っていたのだ。
なぜもう決定なのだろう。
そのことを問いただすと三輪山は――。
「おばあちゃんが入院することになった時、私は不安で言っちゃったのよ『ゴールデンウイーク明けの休日に友達を連れてくるからそれまで生きてて』って……。私はてっきりとんでもない重症で、今にもいなくなっちゃうんじゃないかと思ってたわ。でもそうじゃなかったから、あんな必死におばあちゃんに訴えかけてたのが恥ずかしい限りではあるのだけれど」
本当に恥ずかしいのだろう、ハサミをジャキンジャキンと開閉させて言う。
しかし、なるほど、一度言ってしまったことを撤回するのは難しいだろう。
「でもなんか、意外とあっさりいけそうじゃないか? 僕たち、それなりに話せているし」
「そうかしら。それならいいけれど……」
「ああ、きっと大丈夫だ――今日はもう遅くなるし、そろそろ帰ろうか」
「そうね。でも私、寄るところがあるのよ。おばあちゃんのところなんだけれど」
「毎日会ってるのか?」
「違うわ。でも今日は報告したい気分なの。いい友達を連れてくるって」
空き教室の窓から差す夕日が、三輪山の顔を染めていた。
その時に見た微笑は、一回目の告白で夕日に照らされていた彼女でも、二回目の告白の彼女でも見ることのできなかった、三輪山澪の本当の笑顔だった。
心の底から笑顔をつくる三輪山と同じように、僕もまたそんな三輪山が見られて心の底から嬉しいと。
そう思えるほど今日はいい放課後だった。