#7 進捗どうですか?
ただいま――と、それを最後に言ったのは何年前だろうか。
両親が離婚して、経済的な理由から僕は父のほうについて行くことになって、そんな父は逃げるように赴任してしまって。
ああ、じゃあ言わなくなったのは僕が中学生になってからか。もう3年はただいまを言ってないんだな。おかえり、も。
いやまあ、僕は家族団らんみたいな現場をそこまで羨ましいと思ったことはないし、それよりもショックなことだって経験しているから家族がいないことなんて特に問題はないのだけれど。
それでも最近、学校で口数が増えたからだろうか、少しばかり静寂に物足りなさを覚えるのだった。
小東洋平だけじゃなく、三輪山澪と話すようになり、沖島真珠とも友達になった。
ちょっと賑やかになった学校生活の反動か、帰宅してからの孤独が大きくなったように感じる。
否、感じていた。
それが過去形になったのはどういうことかというと、まるっきりそのまま、物足りない静寂も孤独も突如として去ったからである。
「もしもし、黒崎くん」
「三輪山……。ど、どうした?」
通話。
小学生の頃は家の固定電話で友達と遊ぶ約束を取りつけていたが、僕が個人的な携帯電話を持つようになったのは高校に進学してからのことだった。
洋平は僕のことをよくわかっていて、こちらが話しかけてこない限りは無駄な言葉を重ねない――つまり、彼自身からわざわざ通話をしてくるなんてことはなかった。
そういうわけで僕は。
はじめて友達と自分の電話で話をするのである。
はじめて三輪山と、はじめて女子と――。
「ふむ。顔が見えないだけ通話のほうが緊張しなくて済むわね。ついさっきまで手が震えるくらいだったのだけれど」
僕は逆に対面より緊張していた。
なんて返事をすればいいのかよくわからない。言葉が出てこない。
しかも、今日連絡先を交換したばかりの相手だぞ。三輪山、思ったよりフットワーク軽いな……。
「あら? もしもし?」
「あ、あぁ、ごめん! 聞いてるよ、ちゃんと」
「黒崎くんってもしかして私よりも話すのが苦手なのかしら。昼休みまでの威勢はどこに行ったの」
「そういう三輪山こそ、昼休みまでの罵倒ラッシュはどこに行ったんだよ……。なんかやりにくいよ」
毒舌成分は薄いものの、三輪山の声は平坦だった。真顔が伝わるほどに抑揚がない。
棒読みということでもないけれど、それもまたコミュニケーションがしにくい原因のひとつかもしれない。
「じゃあ黒崎くんが話しやすい話題にしましょうか。もとい、政治・経済の今後について――」
「ますます話せないよ! 僕、そんなにニュースも見ないし、ぼんやり生きてるから……」
「じゃあ何かしら。男子高校生が好きな話題と言ったら猥談しかないのかしら」
「お前の考える男子高校生最悪だよ!」
政治、経済、猥談が好きな話題って。
どんな男子高校生だ。
「今の私、全裸なのだけれど」
「やめろ。猥談を広げるな。世の男子高校生たちに謝れ」
「お風呂上がりなの。今からドライヤーを使おうと――」
ブォォォォォ――。
送風の轟音しか聞こえなくなった。
「くろさ……ん、わ、にの……ね……」
「ドライヤーのせいで何も聞こえてないんだが……」
なんなんだ。三輪山は何がしたいんだ。
まずなぜ通話してきた。嫌がらせのためか? なら大成功だけど。
いくらなんでもフリーダムすぎるというか。もう切っちゃおうかな。
「三輪山ー! もう切ってもいいかー!」
「え、何? 聞こえなかったからもう一度言って頂戴」
僕が叫んだ瞬間にドライヤーの音は消え、三輪山からそんな返事が返ってきた。
「もう切っていいか……?」
「ダメに決まっているでしょう。次は生着替えの時間よ」
「猥談はもういいから! なんで通話したのか教えてくれよ!」
「――お礼よ」
ドライヤーの音がスイッチひとつで消えるように、三輪山の話も一瞬で切り替わる。
一貫してフリーダムなやつだな……。
「私という美少女と一緒にいられるメリットがあるとはいえ、言葉でもちゃんとお礼を言っておこうと思って」
「お、おう……。別にお礼なんていいよ。断らないことを選んだのは僕だし」
フリーダムでいて、ちゃんとするべきところはちゃんとしているのだった。
こういう気づかいができるあたり、三輪山は本当に暴言を言いたくて言っているわけじゃないんだろうな。なんだかんだいいやつなんだ、三輪山は。
「正確にはお礼を言ったほうがいいと真珠に言われたから嫌々話しているのだけど」
「それ言う必要ないよな!」
一瞬でも三輪山のお礼に心を動かされた自分を叱りたい。
全然いいやつなんかじゃなかった。
いや、照れ隠しだよな、多分……。きっとそうだ、そのはずなんだ……。
そんな冗談はさておき、僕はお礼を言われるからにはこの問題に精力的に立ち向かう責任があるのだった。
だって、ろくに仕事もしないでお礼を言われてしまったら心苦しいし、それに。
僕は、そんな心苦しいお礼を受け取ったことがあるんだ。
1年前に。
「……三輪山、お礼は全部がうまくいってからにしてくれ。三輪山のおばあさまの前で話して、満足のいく結果だった時にさ」
お礼なんて誰も傷つけないような言葉も、時に誰かの心を縛ることがある。
僕はそんなエラーを二度と体験しないよう、三輪山にこんなお願いをするのだった。
「黒崎くんがそうしろと言うのならそうさせてもらうわ。なんならお礼なしでも構わないわ」
「それは僕が言うセリフで三輪山のものじゃない。……そういえば、おばあさまと対面する日っていつなんだ?」
今日は5月10日水曜日。
先週はゴールデンウイークだったが、確かそこあたりでおばあさまが入院したんだっけ。
一刻を争う事態ではないにしても、三輪山はおじいさまを亡くしているわけだし、悠長にしているわけにもいかないだろう。だから締め切りが欲しかったのだが、三輪山はもう自分の中で設定していた。
「次の日曜日よ」
だからあと4日後ね、と。
さもそれが当然かのように言う三輪山。
言っていることは当然だった。次の日曜日は5月14日で、つまり4日後というのは正解なんだけれど。
「締め切りギリギリじゃねえか! え、なんでそんな大事なこともっと早く言わないの!? なんでそんな冷静にさらっと重大発表しちゃってんの!?」
「うろたえないで、黒崎くん。もう決定事項だから仕方のないことよ」
「もう決まってんの!? え、なんで!」
「ごめんなさい、もう切るわね」
「ちょっと待てえぇぇ!」
さすがに吠えた。
逃がすわけないだろう。
というかよく逃げられるな、この状況で。
「私、これから見なければいけないものがあるの。だからお暇させて頂戴」
「見なければいけないものだあ……? テレビ番組くらい録画しておけ。これから僕たちがするべきは会話の練習だ」
「いいえ、テレビじゃないの。愚かな黒崎くん――愚崎くんにはわからないかしら」
「黒と愚かが似ているとはいえそれは失礼すぎるぞ! テレビじゃなきゃなんだってんだよ。なんでもいいけど後で見ろって」
「ダメなのよ、今じゃないと」
どうしても譲らない三輪山だったが、ついに一言残して通話を切られた。
残念ながら物理的な引き留めができないため、僕はあっけなく三輪山を逃がしてしまったのだった。
三輪山が最後に残した言葉は見たい番組――もといライブ放送の内容だった。
「あと5分でMaK+ちゃんのアーカイブなし歌枠が始まるの。時間があれば黒崎くんも視聴しなさい。後悔させないから。じゃあまた明日」
案外彼女は、多趣味らしかった。