#46 努力の意味
「はっ、リレーを引く運もないのね。見損なったわ」
「別にリレーはラッキーじゃないからな。僕にとってはアンラッキーだから」
紙に書かれた三文字。それは三輪山の望むカタカナ三文字のそれではなく、漢字三文字という別の災難だった。
騎馬戦――。
数人で一人を持ち上げて、それでなんかするんだよな。今の今まで未経験どころかやったことある人に出会ったことさえないぞ。
ほ、本当にこの競技って毎年やってるもんなの? 誰かが適当に入れたわけじゃあないよな……?
隣の席とはいえ、小さな紙切れに書かれた文字を読むためにはもっと近づく必要があった。だから三輪山は身を乗り出して僕のくじを覗いているんだけど――そんな、いつまでも紙を覗き込む美少女の瞳を僕は覗き返した。茶色の瞳。
「いかがわしい視線を向けないで頂戴」
「向けてねえよ!?」
「だったらどうして私のことをじっと見ているの。どうせ用もないのに私を見る男の人って何かいかがわしいことを考えているからでしょう」
「お前の中の男性像、いろいろぶっ飛んでるぞ……!」
「ごめんなさい、男の人に失礼だったわね。今のが当てはまるのはエロ崎くんだけだったわ」
当てはまってたまるか。もし僕がそんな人間だったら今すぐ自分の目をつぶしてやる。
「そうじゃなくてさ……。なんていうか、ほら、目は口ほどに物を言うって言葉があるだろ? だから――」
「さっきから視線が『裸になれ』って伝えてくるのだけれど。ちょっと黒崎くん、まだ学校なのよ。公の場でみっともないわね」
「目は口ほどに物を言うって言葉、嘘みたいだな!」
何も物を言ってくれなかった。1ミリもかすらなかった。
「僕が言いたかったのは……情けないのは承知なんだけど、くじ交換してくれない?」
「うわ、ダサっ」
三輪山とは思えない口調の罵倒が出た。恐らく自然に出てしまったものなのだろう。いつも以上に傷つく。
ただ、こうなるのは想定済みだ。あの三輪山がすんなりくじを交換するなんてことあるわけないし、そもそも男女で分かれてくじを引いたからにはその性別ごとの人数が決まってるわけで、たとえ交換できても体育祭の運営が許可するとは思えない。じゃあなんでこんな生産性のないやり取りをしたのかというと、理由をこじつけて美少女の瞳を見たかったわけではなく――くじの交換というアイデアがまかり通るのかを試したかっただけである。もしそれが許されるのならば、僕は洋平と交換を――。
「ダメでしょうね。そもそもくじを引いて競技を決めるのは八百日さんなりに公平を期すためにやったことなのでしょう? 交換が許されれば普段の種目決めと大差ないわ」
「そうだよな……。騎馬戦ねえ……僕なんかができるのかね」
「逆に何ができると言うのかしら。リレーならできていたとでも?」
「傷つくこと言うなって……。その通りなんだけどさ」
結局、体育祭なんて運動音痴が傷つくようにできているんだ。
というか、そんなもんだ、どの勝負事だって。
テストは勉強ができない人が傷つくようにできていて、社会はそこに馴染めない人が傷つくようにできている。それらを埋めるものは努力という高潔な膏血のみであって、それさえも怠け者が傷つくひとつの仕組みだ。
うまくいけば楽しくて、うまくいかないからつまらない。それだけのことだ。
「黒崎くん、いいことを教えてあげるわ」
三輪山はいつの間にか乗り出したその体を引っ込めていた。今は深く席に座り、机の上に肘を置いて頬杖をついている。そしてそのまま、僕をギロリと睨んだ。
「たとえ何もできない人間が失敗したところで、何もできないんだから仕方のないことなの。誰もあなたを責めることなんてない。注目されていないのだから当然ね」
果たしてこの言葉は励ましてるのかディスってるのか……。
気楽にやれと言われている気もするし、お前には無理だと決めつけられているような気もする。
「なあ、三輪山――」
僕はずっと三輪山澪を誤解していた。
生まれ持った端麗な容姿を振りかざし、いい思いをし、それでいて他人を見下す暴言女――とことん価値観が合わないやつだと思っていた。
けれど、今や彼女には彼女なりの到達目標があると僕は知っていて、それで彼女の努力も勇気も少しは見ているつもりで、友達として理解しているつもりだ。
だからこそ、僕は聞いてみたかった。
「三輪山って努力が裏切られた時、どう思う?」
なにも僕が体育祭のために頑張って体力をつけようとか、そういう話じゃない。頑張る勇気を僕にくれとか、スポーツものじゃないんだ、これは。
こんな質問をしたのは、さっきの三輪山の発言――何もできない人間が失敗したところで、何もできないのだから仕方ない――が、気になっただけのことだ。
ほら、本人には悪いけど、三輪山も言っちゃえばコミュニケーション能力は「何もできない人間」の部類じゃん。僕は三輪山と対話する役割を背負う者として、一般的な会話能力を身につけさせる使命と責任がある。それに、三輪山だってそうなりたいから僕と今の関係になったんだ。それなのに最初から諦めているかのような発言をするなんて三輪山らしくない。
もっとこう……毒を吐いてる時みたいに生き生きとしているものだと思っていた。できないと思うからできないのよ、みたいな。
三輪山は僕の質問に対して目をつぶって、それから「そうね」と答えた。
「私は努力をしたことがないからわからないわ」
答えというより、前提の破壊だった。
「いやいや、三輪山だって人と話せるように努力しているじゃんか……」
「努力、なのかしらね。努力ってこう、もっと血を吐くまで続けるような状態を指すと思っていたわ」
「ストイックすぎるだろそれは……」
「もちろん、私だって人並みに成功体験や失敗談を語れるくらいの経験はしてるわ。けど、私自身がそれを努力したと認めるにはまだ頑張りが足りなかったように思うの」
当然、それは私が手を抜いていたということでもないけどね――と。
目をぱちりと開けた三輪山は、いつも通りの無表情だった。
「それこそ黒崎くんがリレーで他のチームをごぼう抜きできるくらいにならないと、真の努力ではないと思うのよ」
「相当だな……。でも三輪山、僕が聞きたかったのはそうじゃなくてさ、なんつーかな……」
体育祭は運動音痴が傷つくようにできている。テストは勉強ができない人が傷つくようにできていて、社会はそこに馴染めない人が傷つくようにできている。そしてコミュニケーションも――。
ただし、これら全てを解決するはずの努力が僕たちに応えてくれなかったら。実を結ばなかったら。
時間が流れて、もう取り返しのつかないことになったら。その不条理をどう乗り越えればいいのか、僕は知らなかった。
「僕は結果論にしたくないんだと思う、多分」
三輪山が言った僕の例だと、僕が他チームをごぼう抜きできるまで、僕は何も努力してこなかったことになる。でも、本当にそうか?
僕にできることをやっても届かなかったら、それは全部語れないほど小さくて恥ずかしくて無駄なことになってしまうのか?
「もし三輪山がこのクラスの全員と話せるようにならなくても、劇的な結果がなくても、三輪山のやったことは努力だったって認めたい。それに僕は、結果が伴わなくたって努力したって認められたい」
言い終えた後になって、はっとした。
何を言っているんだ、僕は。
結局僕がしていることは、自分の努力が実らなくても慰めてもらうために、他の人にも優しくしようなんて――ただ予防線を張っているだけのことじゃないか。
この体育祭だって、三輪山のコミュニケーション能力だって、三輪山にとってはどれも成功しなければならないことなんだろう。それを僕なんかが勝手に「成功しなくても僕が認めるよ」なんて、何様だ。
「……すまん、なんかよくわからないことを口走った気がする。忘れてくれ」
僕は三輪山のことを視界から外した。
あまり余計なことを言うのはよくない。そうやって誰かに僕の考えを押しつけて、ねじ曲げてしまうのは――。
「私は、これから努力する予定なの」
視界から外した途端に声がしたから、僕はあっさりと自分の行動を取り消してしまう。三輪山の目はやっぱり茶色で、綺麗だった。透き通っていた。
「ある人とどうしても話して、言わなきゃいけないことができる気がするの。というか、もうできているかもしれないの。だからそのために、私は血を吐いてでもその人と目を合わせて話す努力を続けるつもりでいるわ」
「お、おう……?」
三輪山が誰と何を話したいんだっけ……?
あれ? 会話の前後でなんかそれっぽいこと言ってたっけ。まずい、僕がちょっとネガティブになってたから聞き逃したかもしれない。三輪山がなんの話をしているのかがぼんやりとしかわからない。もしかしてこれ初耳か……?
もちろん、もう一回言ってくれとか聞き直す勇気もない。前にも言ってたっけなんて確認もできない。もしも前に話していたとして、それを僕が忘れていたとなれば信頼関係が崩壊してしまうだろうから。
それに、聞き直す暇もなく、三輪山が言葉を続けてしまったし。
「今まで私が努力をしたことがないというのは、いささか大袈裟だったわね。でも今ならそう思うの。これを乗り越えたら今までのことなんて努力でもなんでもないって思えてしまうほどに、今の私は頑張らなくてはいけないことができたの」
「そ、それは……頑張らないとな、うん」
「だから、もしうまくいかなかったら――全部黒崎くんのせいよ。その時は命を捧げて詫びなさい。私のしたことを、それでも努力だって認めてくれるのならね」
今度は三輪山のほうが僕のことを視界から外した。
三輪山の目標を、なんとしても叶えてあげたい気持ちだった。