#27 相性最悪マンツーマン
僕も昔は完全無欠な優等生だった――わけではない。
テストは毎回満点とかそういう武勇伝があるわけでもなく、僕は普通の学生だった。中の上くらい。コツコツと勉強してるわけじゃないけど、テスト前くらいは必死にやって、それなりにいい結果を残す。
しかしそんな中の上は中学2年の冬休みに消えてしまったわけだが。中2の冬に僕はショックな出来事を体験して、『口は災いのもと』だと悟って、少しの間引きこもって、学校にも行かなくなって――。
なのに僕が現在通っている私立泊谷高校は進学校で、今になって振り返ってみれば、こんなところによく手を出せたなあと思うけれど、それもこれも小東洋平のおかげだ。
そこらへんの話は今は置いておこう。ちょっと暗くなっちゃうし。僕としても重い話だから。
これは別の話――ということで。
とにかく言いたかったのは、僕は一人で勉強するなんて習慣がなかったのである。
だって一口に言っちゃえば面倒くさいし。言い訳しちゃえば三輪山とかの問題を解決するのに必死だったから。
それでも今、僕の頭がこんがらがっているのは僕のせいじゃないと思う。
IQが20以上違うと会話が通じないみたいな俗説を聞いたことがあるけれど、もしかするとこれは嘘じゃないかもしれない。
「国語はフィーリングよ。現代文も古典も文章を読めば答えがそこに転がっているわ。以上」
「えっ……」
「数学は暗記が少ないから楽よね。もしわからなくなったら空白にグラフを書きなさい。以上」
「あの、ちょっと……」
「化学基礎と生物基礎は逆に暗記していれば簡単ね。といっても、どれもこれも中学理科の延長だから怖がらないで。以上」
「三輪山先生……。もしもーし?」
「英語は一見厄介に思えるかもしれないわ。日本語と構造が違うからね。でも言語は言語、日常的に触れていれば何も問題なし。以上」
以上、じゃないんだよ。これで理解できるとかIQ高すぎるだろ。
僕はとうとう念仏みたいにぶつぶつ言っている三輪山の肩を掴んだ。椅子を並べての勉強会だったから、三輪山の肩なんてすぐに掴めてしまうのである。今になって気づいたけど、三輪山の目が死んでいる。
「ん……どうしたの黒崎くん。頭の中は黒どころか透明でスッカスカの黒崎くん」
「そうかもしれないが今のを理解できなかったのは絶対僕のせいじゃないぞ。三輪山って人に何か教えるのはじめてか?」
「いいえ。いつも真珠に勉強を教えているから、どちらかといえば得意なほうよ」
嘘つけ――と言いかけて、寸前で思いとどまる。
僕の理解力が絶望的にないって可能性もあるもんな……。
「ところで黒崎くん、いつまで私にボディータッチしているのかしら。あわよくば胸とかお尻とか触れるんじゃないかと思っているのでしょう。まったく、これだから猥談好きのスケベ男子高校生は――」
「そ、そんなつもりで触ったんじゃ……! でもすまん……。なんかとっさに触っちゃってた……」
だって三輪山が呼びかけにまったく応じないから……。
まずいな。こういう気まずい雰囲気はよくない。
なんせ僕はなんだかんだ緊張しているのだから。
僕の感じる緊張にはふたつのものがあった。
ひとつは三輪山から罵詈雑言を浴びせられ、挙句、殴られるんじゃないかという緊張。
もうひとつは普通に男女としての緊張。
だって学年一の美少女だぜ? それが僕の家にいて、二人っきりだぜ?
しかもさっき僕は素の三輪山の声を聞いてしまったんだ。僕のことを殴りそうとかなんとか言ってたのはともかく、彼女のかわいらしい返事はしっかり脳に焼きつけてある。だってあの三輪山が「うん、頑張る!」って。
さっさと男女の壁みたいなのを越えて三輪山と普通に話したいなあ……。おいバカ、勉強中とは思えない不純なノイズが入っているぞ。
これもそれも三輪山と肩を並べて同じ問題を見るなんてシチュエーションのせいなんだけれどさ。
記憶にも新しい桧原とのロッカーイン。あれはあれでドキドキだったけれど、幸い桧原はお子様体型だったし、変なことにはならなかった。
でも三輪山はさ! おっぱいでかいし! 顔もいいし!
いかんいかん。精神統一をしろ、黒崎真人。邪念を捨て去れ。気持ち悪くなってはいけない。
ふう……。ほんと、すごい状況だな。
沖島がいたほうがまだ緊張しないよ。それか、ここが空き教室だったら――。
「黒崎くん? 黒崎くん、聞いてるかしら?」
「はいぃ! き、聞いて……なかったかも」
ポン、と今度は僕の肩に手が置かれた。
「だから……問題に正解した数×5秒、私に触れる権利をあげようかと思って」
「い、いやっ、僕は断じて下心から三輪山に触れたわけじゃなくて――!」
「黙りなさい。哀れな黒崎くんに夢を見させてあげるって言ってるのよ。このチャンスを手放す気?」
「だから僕は――」
ぎりぎりぎりぎり――。
もしかしたら「みしみし」のほうがよかったかもしれない。
とにかく三輪山が僕の肩に乗せた手に思いっきり力を込めたのだ。僕の肩を握りつぶすんじゃないかと思うほどの力で。
「すいません、正解させていただきます! それでもって触らせていただきます!」
「まあせいぜい頑張りなさい。口先くんにならないようにね」
ドヤ顔で言う三輪山――毎回思うけど、その○○くんシリーズ、実は三輪山の中でいくつかストックがあるんじゃあないだろうか。うまいこと言ったみたいな顔をしているところ悪いが、僕が○○くんシリーズで覚えてるのは地獄ろ崎くんだけだ。もし○○くんクイズを出されても答えられる自信はない。
「というか、あれ? せいぜい頑張りなさいって言うけど、先生は三輪山なんだよな?」
「驚かないで聞いて。私、黒崎くんの前ではろくに教えられる精神状態じゃなくなることに気づいたの。私の教え方が悪くて黒崎くんが勉強嫌いになったらと思うと監視か鼓舞することしかできないわ。ふふふふふ――」
なにわろてんねん。
それと、僕はとっくに勉強が嫌いだからそんなに怯えなくてもいいと思うんだけどな。
「黙って。根本的な問題は黒崎くんというより私にあるの。私は……最近ちょっとおかしいのよ。とにかく細かいことは気にしないであなたは勉強してなさい。手を止めたりしたらそのシャーペンを心臓に突き刺すわよ」
「どんだけ力強いんだよ……」
それはそれとして――。
僕としては目付役がいるだけでもありがたかった。しかもその相手が親しすぎず不仲すぎずかつ異性というほどよい緊張感。おまけに報酬まで付け足されちゃったし、普段から毒舌だから容赦なく僕を叱責してくれそうだ。
飴と鞭のバランスは最高じゃないだろうか。洋平と勉強するのは楽しかったけれど、これはこれで自立した勉強習慣をつけるいいきっかけになりそうだ。
「じー」
それじゃあテキストを開いて基礎的なところから復習を――。
えーっと、なになに? 文型?
あれだろ。SとかVとかOとかだろ。
「じーっ」
ええっと……。
えっと………………。
うん……………………………………………………。
「じぃーーーーーっ」
隣の視線がうるさいなっ!
三輪山のために説明しておくと、彼女自身の口から「じー」なんて音が出ているわけではない。そこは誤解しないでほしい。三輪山はそんな痛いやつじゃないはず。
だからこの音は僕の脳内がつくりだしてしまった幻なんだけれど、それにしても見られているのがひしひしと伝わる。シャーペンどころか視線で心臓を貫かれてもおかしくないくらい見られている。本当に穴でも開くんじゃないかってくらい。
一瞬。ほんの一瞬だけ僕は横目で三輪山を見ることに成功した。
その一瞬でわかったのは、三輪山は椅子ごと体を僕のほうに向け、その美しく長いおみ足 (特に今日はズボンを穿いているからすらりとした脚がよくわかる)を組み、その組んだ脚の上で頬杖をつくという姿勢だった。そして退屈そうな顔をしている――いや、いつも無表情だから三輪山が退屈してるか顔だけではわからないか。
とにかく見てくる。僕の横顔をすっごい見てくる。普通は手元を見るもんじゃないの?
ねえ、なんで顔なの? 全っ然集中できないんだけど!?
≪Side M≫
うわ、えっぐ……。
黒崎くんの横顔見放題なんだけど。なにこれ、ここって天国? 夢でも見てる?
黒崎くんがいるのに白昼夢、なんつってね。
ふぅ……。
…………。
………………………………。
しんどっ!
なにこの微妙な静寂!
ちょっと待って、私、黒崎くんにいろいろ教えてあげてさ、やがて「三輪山、君のおかげで僕は首席で卒業できるよ。結婚しよう(イケボ)」みたいな展開にしてやろうと思ってたのに!
それなのに、いざ彼の顔見たら頭の中パァ! IQミジンコ! まともに話せる気がしない!
国語はフィーリングとか数学は楽とか、そんな私の主観どうだっていいのに! なんで変なことばっかり口走るかなあ!?
今日こそ積極的に話して成長したかったのに……! 結局いつも通り……!
おかげで横顔鑑賞しかできないじゃない! うん、観賞じゃなくて鑑賞。彼の顔は芸術レベルなんだから。
いや、なにも顔がいいわけじゃないの。私のほうがいいもん。……でもなんかかっこよく見えてしょうがないんだもん!
――ていうかさあ、変なこと口走ってるうちに黒崎くんに肩掴まれちゃうし、こっちもお返しに掴み返しちゃったし。もう恋人じゃない、私たち?
そう、言葉で通じ合えないなら体で――いやぁあああ! なんかハレンチこの響き! 最悪っ!
黒崎くんが望むならともかく、私が勝手に黒崎くんを汚すわけにはいかないのよ……! 死んで詫びろ三輪山澪ッ!
なのに私ったら口走って意味わかんないご褒美設定しちゃったし! 正解数×5秒触れる権利って何よ! 気持ち悪すぎでしょ!
早くシズもマキ様も来てくれないかなぁ……。
あ、やっぱり来ないで! このまま二人っきりで――でもやっぱり来て!
誰か私を助けてぇぇ! もう殺してぇぇ!
「なあ、三輪山――」
「黙れ。全部終わるまで話すな。呼吸もするな」
ああああああああ!
黒崎くん、いきなり話しかけてこないでよぉ! 私が人類一口下手なのは知ってるでしょ!
私は心の中で吐血を繰り返しながら、現実では固まった表情のまま奥歯を噛みしめていた。発狂しそうになるといつも奥歯を嚙みしめている気がする。いつか顎が壊れそうだ。
「えっと……」
そんな私のことを知るはずもない黒崎くんは恐る恐るといった様子で私の目をのぞき込んできた。
なにそれかわいい。マキ様とは違うベクトルのかわいさ。ヤバい。死。
「全部終わったんだけど……。合ってるかな?」
そのちょっと不安そうな顔だけで、もう私は120点をあげたかった。




